会話の章
第5話 椅子
「出ろ」
命令形だけどきつい口調ではない、諭すような言葉が浮かんだ。と同時に前方から、頬を撫でるようなくすぐったい、やさしい風が吹いた。風は段々と強くなり、しまいに体ごと倒された。彼の意識の中から押し出されたのだ。
目に映るのは部屋の天井部。
照明がないのに明るいわけがわかった。透けているのだ。天井だけでなく壁も、床も。限りなく白に近い、かすかに水色は、ここが天空だということを示している。
彼には失礼きわまりないが、起き上がる気になれない。すべてお見通しの彼の前で、体裁を繕うのは意味がない。起きろと思っているのなら、無理矢理にでも体を起こされるはずだ。
それで、横になったままでいた。
さらさらさら。
衣擦れの音がする。
他の誰かが入ってきた気配はない。
跳ねるような軽い足取り。その規則正しいリズムは、僕との距離を確実に縮めてきた。そして、止まった。
さすがにもう、横柄に寝ていることはできない。とりあえず上半身だけを起こすと、顔に影が射した。色の白さにそぐわない、たくましい右手が目の前に差し出された。指は長く細いのに、節がしっかりとしている。そのために、彼の立場のイメージには反する、ゴツゴツとした印象だ。僕も右手を出し、ためらいながらもつかまった。彼の引き上げる力を借りて、ようやく立ち上がった。
彼は僕より頭一つ分ほど背丈が高い。視線の先の誰も座っていない長椅子が、彼こそが椅子の主だと言っている。身にまとっているのは、一般的なイメージ通り。足先まで隠れる、たっぷりとした白い衣服を着ている。全体がヒラヒラとしていて、僕の部屋のレースカーテンを思わせる。そうだ、窓が開けっ放しだった。
今日の予報は雨だったろうか……。
彼はつないでいた手を放し、僕の右側に立った。左手を僕の背中にまわして軽く押し、前方へと導いた。手の他にもう一つ、彼の立場のイメージにそぐわないことを見て取った。百メートル離れたままではわからなかっただろうと、横目で見上げながら思った。
若い……。
顔だけで言ったら、少女マンガの主人公がハートの目で見つめる上級生のおにいさまキャラだ。腰まで伸びたの黒髪はサラサラで、おまけに長めのまつげがカールしてる。前髪のすき間からのぞく目と視線が合ったら、女性の誰もがほほを赤らめるだろう。すべて、これまで住んできた町、街で植え付けられた固定観念だが、こんなキャラでは神々しさにも威厳にもほど遠い。変な動悸までしてくる。何となく感じているいたたまれない気持ちは、僕だけでなく彼も同様かもしれない。
こうなったら、直接会話をして声を聴いてみたい。さっきの「出ろ」は、声を識別するには不確か過ぎた。だけど、こちらから声をかけることはできそうにない。僕に怖れがあるからなのか、してはいけない決まりに縛られているからか、彼が拒絶しているのか。おそらくこのどれかだろう。
『彼』と呼ぶことを許しているのは、無言の警告だろうか……。
できるだけ頭を動かさないようにして、視線を右上に向けた。彼の横顔は何の変化もなく、真っ直ぐ前を見ているだけだ。多少の不安を抱えながらも、導かれるままに彼の歩調に合わせて進んだ。
ふと出た疑問。
彼はここに住んでいるのだろうか……。
椅子の他に何もない、空の色だけの空間のここは、決して住居とは言えない。それも彼の都合だとは、どうにも納得できない。いくら神様だっておなかは空くだろうし、眠くもなるでしょう? いや、ならないのか?
そう、彼は神様。
そして僕は……。
彼に創られ、「玉」を集めるために下界に下ろされた。
椅子までの距離の半分、五十メートルくらい進んだところで彼は僕の背中から手を放し、二、三歩前を歩いた。僕は一定の距離を保って付いていく。
彼の座っていた場所に近づくにつれ、徐々に椅子の様子がはっきりしてきた。背もたれの中央当たりに大きく、人のシルエットが彫られている。座面の赤いカバーはシルクのビロードだった。とても僕なんかが座れない、高貴なものだと一目でわかる。
背もたれの中央の人の周りで、いくつもの波のような筋がうねっている。あるところは山の起伏のように見えるし、別のところでは荒波が渦巻いているようにも見える。またあるところは透かし彫りになっていて、向こう側の空の色がのぞいている。硬くて鋭利な印象の部分もあれば、軟らかく滑らかな印象の部分もある。加えて、それらは絶えず動いている。
渦が盛り上がって山となり、山は頂をえぐられるて滑らかな坂になる。坂は波となる。穏やかな波は透かしの穴を塞いだ途端に角ばり、その鋭利な波はある一点を中心に渦になる。渦はまた盛り上がり、そしてえぐられて、透かしの穴になる。その繰り返しがそこかしこで起こり、背もたれ全体を動きながら変化していく。唯一変わらないのは、中央の人のシルエットだけだ。
不気味とも言えるこの現象が何を表しているのか、僕はうすうすわかっていた。
背もたれを見入る僕の額に、彼の指先がそっと触れた。金平糖が当たったときと同じ、チクリとする痛みが走った。
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