第3話 空腹
ただただ広いところ。ここはいつも変わらない。
そういえばあの色は、商店街の歩道のタイルに似ている……。
視線の先に毎回必ず視線の先に、詰めれば五人は座れるだろう長椅子がある。座面には赤茶色のカバー、背もたれには複雑で芸術的な彫り物がされている。古ぼけてはいるけれど、見ようによっては豪華と言えなくもない。長椅子は、そこに座ることを許された、たった一人の主を静かに待っている。
ただただ広いところ、ここにはこの長椅子しかない。限りなく白に近い、かすかに水色の壁には窓も扉もない。おまけに照明もないというのに、周囲の様子ははっきりと見て取れる。壁も天井も床も、境がわからないくらいに全くの一色で覆われている。
椅子までの距離はゆうに百メートルはある。それ以上近づいたことがないから、座面カバーの布、脚や背もたれの部分の素材、彫られている模様が何かまではわからない。
ただただ広いところが六面体なのか、それ以上の多面体なのか、球体なのかすら判断できない。しまいには、壁や天井や床が存在しているのかどうかさえ、わからなくなってくる。
限りなく白に近い、かすかに水色の中に、浮いているような錯覚をするところ。
ここが、彼のいらしゃるところ。
きゅるる。
おなかが鳴った。
手から離れて何処へいったか、冷めたトーストほど不味いものはない。適当なタイマーにしていたから、入れっぱなしの二枚のパンは炭になっているかもしれない。火事が起きなきゃいいけど。などとここではいつも、そんな思いが頭をよぎる。
そのうちに、笑いがこみ上げてきた。元の場所に戻ったとき、何事にもなっていないのだと、充分わかっているはずなのに。なのに懲りずに、毎回同じことを繰り返す。そして最後は必ず、突然の呼出に僕の心の準備が整っていないのだから仕方がないと、彼のせいにする。
今度だって、手には焼きたてのトーストが戻り、冷えたトマトもフライドエッグも、ベーコンもちゃんと美味しく食べられる。食べている間に、トースターの中のパンたちは程よく焼けていく。ここにいた時間はないものとなり、僕はあの朝食を問題なく平らげられるだろう。
ぎっぎぎ。
木の軋む音がした。
何処から現れたのか、すでに百メートル先に椅子の主が座っていた。体を背もたれに預けず、両手をそれぞれ左右の膝の上に落ち着かせている。立場上、厳しい表情をしているのだろう……という気がした。はっきり見えないのだけれど。
僕は彼に向かって深々と礼をした。充分な時間頭を下げたと思ったところで顔を上げる。と、彼の表情が微かに歪んだ……気がした。
食事のことを考えているのはお見通しか……。
きゅるるる。
またおなかが鳴った。
その音が聞こえたのかどうか、彼の表情が申しわけなさそうな微笑みに変わった……気がした。本当に彼が微笑んでいるのかはわからないし、彼が僕の表情を確認しているのかもわからない。だけど、お互いにお互いの感情を、確実に理解しあっていると感じられる。だから僕は、申しわけない気持ちで照れ笑いを返した。
僕には親がいない。父母がいないということで、僕を集めてくれた者と創ってくれた者はいる。集めてくれた者に会ったことはないし、この先も会える可能性はゼロなのだそうだ。そう教えてくれたのは、今、目の前にいる彼。彼こそが僕を創ってくれた者。人間的に言えば、親代わりということになるのかな。
僕は常に一人だ。フランスパンの彼女のような知り合いはいるが、友達はいない。学校に行ったこともないし、どこかの会社で働いたこともない。金曜の夜に寄るような行きつけのバーもなければ、カラオケでストレス発散なんて、ただの一度も経験がない。
そもそもストレスなんてもの自体、僕の中には存在しない。
だって僕は……。
この街で、集めるのが仕事だから。
僕の目に映る百メートル先の彼は限りなく白に近い、かすかに水色の壁に同化する衣服をまとっている。頭部は素であるおかげで、髪色が黒だとわかる。
僕の視力は決して悪くない。いや、むしろ良すぎる。それでも限りはあって、椅子同様、衣服の素材の判別まではできない。百メートルという距離の必要性を、これまで彼から説明されたことはない。たぶんこれも、彼の都合なのだろう。
一つだけ言えることは、彼の呼び名の一般的なイメージより断然若いということ。(あくまでも遠目に見た感じでだが。)
これだけ離れていたら当然、普通の声では届かない。大声出せばかろうじて、なんてレベルでもない。実際にここでは声を出したことがないから、確かなことはわからないが……。
彼とのコンタクトはテレパシーのようなものだ。断言できないのがもどかしいけれど、いわゆる口から発する『言葉のキャチボール』の形でないのは確かなことだ。
様々な思考の中に自分の意識に関係なく明確な答えが出たら、それは彼の意識。つまり『気がした』は、視覚で認識したのではなく、彼の意識が飛んできたというわけ。
この感覚は彼との対面のときだけで、他の者とはそうはいかない。言葉や文字でのコミュニケーションを持たなければ、相手のことを知ることはできない。それでも、知ることのできるのはうわべだけ。彼との関係のように明確にはならないのだ。ときに、言葉や文字にはウソが含まれるから。
彼はどうか知らないけれど、僕らは万能ではない。修行をすればとか、長く存在していればとか、働きを認められてとか、そんなことで何かしらの能力が大きくなるなんて、全くない。
だって僕は……。
がっかりされるかもしれないけど、僕ができることには限界があるんだ。
用意した朝食はあとでちゃんと食べられるし、空腹感はずいぶん薄らいできた。なのにトーストのことだけは、何となく頭から離れなかった。
渋い顔をするならすればいいさ……。
あんな状況のときに呼ぶほうが悪いんだ……。
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