銀光の章
第2話 彼女
それは今の部屋に移ってすぐの八月のこと、その夏一番の猛暑日だった。気温は午前中にすでに三十度を超え、午後もなお上昇していった。汗で重くなった服を着替えたくて、一旦部屋へ帰ろうと通りを歩いていた。
商店街通りの角にパン屋がある。毎朝独特の甘い匂いを風に運ばせ、常連客につい足を向けさせてしまう店だ。毎朝食べているトーストは当然ここのもの。過去に一度だけ、タウン誌で紹介されたことがあったらしい。だけど、不特定多数の人に対する宣伝なんて、この店には必要なかったようだ。
発行直後の一時期は店内が人で溢れ、品切れという事態も起こったそうだが、一見さんのために製造数を増やすことはしなかったという。店の主人は「またいらしてください」と軽く頭を下げるだけ。そのうち事態は収束し、不平を言う者もいなかったらしい。それで評判が落ちることはなかったし、定休日以外は常に行列がレジの清算を待っている。
ガラス張りの出入口まで三メートルくらいのところで、近くに住む奥さんが店から出てきた。彼女はまだ若く、時々店内でも顔を合わせる。品の良い濃いめの茶色に染めた髪を、肩までの長さに伸ばしている。前髪はいつも白の細いカチューシャで留めている。彼女は茶紙の袋を抱えていた。その袋から、人気商品の一つであるフランスパンが半分斜めにはみ出していた。
一度話したことがあったが、お互い名乗るまではしなかった。確か、近くのマンションにご主人と二人で住んでいて、淡い色調の洋服を好んで着ていると言っていた。
彼女は左側の胸ににパンの袋を抱え、スーパーで買った物をオレンジ色のマイバッグに入れて右手に提げていた。均整のとれたサイズの足には、ビーズ細工の花飾りがついたミュールを履いていた。洋服にも彼女にもよく似合っていたが、まったく頼りな気な、うすピンク色のミュールだった。
僕は彼女の後ろを付いていくような格好で歩いた。歩道には赤茶色のレンガが敷き詰められている。やはり、目地に引っかかりはしないかと心配になるほど、彼女の足取りは頼りなかった。両手いっぱいになるくらいの買い物をするつもりではなかったのかもしれない。夕飯か、明日の朝食のためのフランスパンと、いつものブルーベリーのデニッシュを買いに出ただけなのかもしれない。商店街の伝言板にスーパーの安売りちらしを見つけてしまうまでは。
案の定、彼女はわずかな目地の隙間にヒールを引っかけ、バランスを崩した。斜めに突き出たフランスパンも同じようにバランスを崩し、重力に逆らわず彼女の足もとに落ちようとしていた。両手がふさがった彼女には無理な行動、僕はなんとか地面に到達する前につかもうと前屈みになった。手を出したその瞬間、でんぐり返しを二回してここに立っていた。
だいたい五年から十年の間隔をあけて、こんなふうに時と場所はお構いなしに呼ばれる。周期がきちんと決まっていないのは、たぶん彼の都合。もとの場所へ戻ったときに何事にもなっていないのも、たぶん彼の都合。
あれ? だけど、今回はずいぶん中途半端だ……。
フランスパンのときから、まだそんなに年月経ってない……。
再び目の前に現れたフランスパンは、すでにレンガの上にあった。
「あーあ、落ちちゃった」
澄んだ聞き心地の良い彼女の声が、頭上から降ってきた。
「すみません。つかめませんでした」
横たわったパンを拾い上げ、彼女に手渡しながら僕は言った。
「あら、謝らないで。私がいけないのよ、こんな靴で歩くから。パンだけ買うつもりだったんだけどね」
彼女はまるで自分の弟に話しかけているように気取らず、少しの警戒心もなかった。最後に「気をつけて歩くわ」と言って、僕の部屋とは反対方向の角を右に曲がっていった。
またバランスを崩したりしないだろうか。
いつものブルーベリーデニッシュは、ちゃんと袋に入っていたのだろうか。
地面に落ちたことはなかったこととして、フランスパンを今夜ご主人と一緒に食べるのだろうか。
そんなことを考えながら、彼女の後ろ姿を見つめたまま、しばらくその場を離れられなかった。
次の年の四月、彼女は子どもができたことをきっかけに、彼女の実家の近くへ引っ越していった。最後にパン屋であった時、彼女はいつもより多めにトレイに乗せていた。さすがに食べきれないだろうからと、フランスパンは選ばなかったのだそうだ。「ここのパンをおなかの子に食べらさせてあげられないのはとても残念」と言っていた。せめて栄養だけでも、と。
僕は半分うわの空で、持っていたトレイに一つもパンを乗せられなかった。店内をただウロウロするだけで、いつもはあれもこれもと山盛りにするのに、右手のトングはどのパンにも伸びてはいかなかった。なぜこんなにも動揺するのかと、自分で自分が不思議でならなかった。
別に、彼女は特別な存在じゃない。店内にいる他の人たちとまったく同じ。カロリー摂取のためだけの行動に終わらせたくない、外食のときに眺める人たちと同じ。街を歩くときにすれ違う人たちと同じ。僕の視界に、入っては出て行くだけの人たちと同じなはずなのに。
出入りに強要も拒絶もない。これまでに何人も、彼女とのような別れの会話をした人はいた。別れに対して寂しいと思ったことは一度もなかったし、寂しいどころか、何の感情もなかった。だけど、彼女に対してだけは、自分でも驚くほど動揺したんだ。
「じゃ、さよなら」
後ろから声を掛けられて我に返った。レジを済ませた彼女は僕の返事を待たずに、レンガの道へ出て行こうとしていた。僕はとっさに彼女の足元を確かめた。が、心配いらない。当然のことだ。お母さんになるのだから。しばらくミュールは履かないだろう。
爽やかな春の風が、彼女のうすいベージュ色のスカートを揺らしていた。西洋の建物のようなドロンワーク刺繍が裾に施されていた。その模様がやけに印象的だった。銀色の刺繍糸が、春の光に反射していたから。
なぜ自分の実家なのだろう。
ご主人の実家は遠いのだろうか。
二人はどうやって知り合ったのだろう。
最後に、そんな疑問を持った。
別れのとき、惜しむ気持ちはなかった。『久しぶりに再会した姉弟』なんていうシチュエーションは、まったく想像しなかった。妙な動揺の感情は、彼女の存在と共にすぐに消えるだろうと思っていた。
しかし、後に彼女とは本当に再会することになった。残念なことに、驚いてはもらえなかったが。むしろ驚いたのは僕のほう。
彼女に抱いた疑問と動揺は自分でも不思議だった。その答えは再会したときに明確になった。なのに、今目の前にいる彼は前もって教えておいてくれなかった。彼の立場ならそうなることは分かっていただろうに、何も飛ばしてはくれなかった。あるいは、未来を教えることはしてはいけないことなのかもしれない。それもきっと、彼の都合。
もし彼女が今の僕を見たら、ミュールでバランスを崩すなんてものじゃない。きっと、しりもちをつくほど驚くだろう。
だって僕は……。
外見が全く変わらないんだ。
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