リレーション

五月乃月

序章

第1話 呼出

 午前四時二十分。起床の時間を三十分過ぎていた。


   やっぱり、睡眠時間四十分じゃ足りないか……。



 朝の日課は、お気に入りのライトグリーンのカーテンと窓を全開にして、爽やかな風を取り込むこと。健康サンダルに恐る恐る(イボイボが苦手なのだ)足を入れてベランダへ出る。部屋だけでなく、体の中にも澄んだ空気を取り込む。シャワーを浴びて歯を磨いたら、軽いストレッチをする。


 左右に開けたライトグリーンのカーテンを、同じ色のタッセルでまとめる。閉じたままの白いレースカーテンが、僅かな自由を与えられ、風に揺れている。

 この部屋にあるものといえば、眠るためだけのソファーベッド、二人用のダイニングテーブルと、片方はだれも座ったことのない椅子が二脚。テレビやラジオはない。電話もない。もちろん、携帯電話やパソコンの類もない。代わりに、このマンションを中心とした街の正確な模型が、ワンルームの部屋のほとんどを占めている。

 最後は食事。キッチンの広さと豪華さは、この間取りに似つかわしくないほど充実している。道具も料理人さながらに揃っている。ぼかしの効いたまだら模様、シェルピンクのキッチンタイルが気に入っている。レイアウトは対面式で、そんなに広くはないがカウンターが付いている。

 そして冷蔵庫には、常にびっしりと食料が詰まっている。キッチンだけ見れば、この部屋の住人は四人家族、いや、それ以上だと誰もが思うだろう。


 おおかたの人が起きる前に寝て、おおかたの人が起きる前に起きる。そんなだから、睡眠時間は二時間程度。月一や週一ではなく、毎日二時間程度。だからって驚く必要はない。心配も無用。二時間寝れれば、寝不足なんて感覚は、全くないんだから。

 気を付けなければいけないのは早起きの人たちと、昼夜が逆転している人たち。例えば豆腐屋(最近はとても少なくなってるけど)、パン屋、漁師さんや魚河岸で働く人。長距離トラックの運転手、クラブのママさん、警察、などなど。厄介なのは新聞配達と牛乳配達(これも最近は見なくなった)。まあ、彼らは場所と時間帯を押さえれば問題はない。週末の酔っぱらいも、どうってことはない。


 最も厄介で嫌いなのがコンビニ。二十四時間営業なんて、僕にしてみればそれこそが営業妨害。真夜中にこうこうと電気をつけ、思いのほか多くの人が出入りしている。昼夜が逆転している人たちが、入れ替わり立ち替わり。

 それでも許せているのは、各店独自のスイーツがあるから。手っ取り早くカロリーを摂取するには甘いものがいい。好みの味のものが幾つもあるし、突然オレンジジュースが飲みたくなったときは助かるし。結局のところは便利で、充分に活用させてもらっている。

 今の時代には必要不可欠なものだろう。

 それは認める。


 ストレッチ以外を素早く済ませると、十五分短縮出来た。体が硬いままだと、一日中不快な感じがするから。

 空き過ぎた胃袋を水でなだめながら、たまごとベーコンをフライパンに並べた。弱火でじっくり熱を加えていく。ベーコンの油がはね出したところで六枚切りの食パンを一枚、適当にダイヤルを回したトースターに放り込んだ。サイコロ状に切ったトマト一個分、フライドエッグとベーコンを同じ皿に並べたところでいいにおいが漂ってきた。


 生のトマトは好きだが、ケチャップやミートソースは得意じゃない。煮たり潰したり、他の食材や調味料と混ぜるのが好きじゃない。ほどよく熟したトマトはキンキンに冷やして少しの塩で、が一番美味しい。

 トマト以上の好物が、ちょっと焦げ気味のトーストだ。バターやマーガリンはつけない。サンドイッチも食べるが、できればクラブハウスサンドの方が嬉しい。

 甲高い完了音を響かせると同時に、トースターの扉を開ける。扉と一緒に引き出されたトレーに、一層いいにおいを立ち上げたトーストが姿を現した。耳をつまんで取り出し、蔦の模様が描かれたお気に入りの皿に乗せる。またも適当にダイヤルを回して、もう二枚入れた。


   これなら十枚はいける……。


 人間に必要なのは、だいたい一日千五百から二千キロカロリーくらいだろうか。それではとてもじゃないが足りない。僕には最低でも、五千キロカロリーが必要だ。


 だって僕は……。

 翔ぶのは結構エネルギーを使うんだ。



 カウンターでは食事はしない。一人きりであることを、これでもかと思い知らされるから。かと言って別に一人が淋しいわけではないし、嘆きもしない。疑問を持ったこともない。そういうものだと、本能的に受け入れている。

 それでも二人掛けのテーブルに座るのは、食事をただカロリー摂取のためだけの行動に終わらせたくないから。外食するときもなるべく一人席は避け、店内全体が見渡せる場所を選ぶことにしている。


 皿を一枚ずつ両手に持ち、テーブルに置いた。音が立たないように椅子を引き、静かに座った。椅子は二脚。そのうちの一脚は、座る者が誰もいない。

 わりと有名な牧場の牛乳をコップに注ぎ、一気に流し込む。水のときとは違う、栄養分が消化器官を伝って、体中に染み込んでゆく感覚がした。その栄養を考えればほんとうはヤギのミルクの方がいいのだけれど、この街ではそうそう手に入らない。

 さあ、朝食だ。


 最高の焼き加減のトーストが口まであと三センチ、のところで彼に呼ばれた。『呼ばれた』というより、無理矢理引き寄せられた。


   え、今……?


 椅子に座ったままの体勢で、でんぐり返しを二回。

 テーブルに頭を打ち付けはしなかった。体が止まって視界が戻ると、座っていた椅子も、手に持っていたトーストも無くなっていた。もちろん目の前の美味しそうな食事も、テーブルごと姿を消していた。代わりに目に映るのは、ただただ広いという形容しかできない光景。僕はそこに立っていた。

 確かこれで七度目……いや、八度目だ。

 七度目は、六度目から十年近く経っていた。

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