第4話 後悔した朝

 がたがたがたがた。

 煩い音に覚醒を余儀なくされて、絡みつく重たい腕を払いのけて起き上がった。裸の背中から柔らかい毛布が滑り落ちて、剥き出しになった胸を慌てて掻き抱く。毛布で身体を包んだまま、ストーブの上で蒸気を吹き出しているポットをミトンで掴み上げると、辺りに静けさが訪れた。


 クリスマスの朝、私は彼の家で目覚めた。

 あの後、ブーツまで濡れている私を心配した彼は、私が住むアパートよりも近いという理由で、自分の家へ連れ帰った。

 毛足の長い絨毯の上で、急速に脳が冴えて行き、床に落ちていた男物のシャツを羽織ってボタンを留める。濡れた自分の服は、昨夜、乾燥機に突っ込まれたままだ。

 身体のあちこちに残る、マツリから蹴られた痣を見せたくなくて、服を脱ぐのを躊躇った私から、手際良く彼は服を剥ぎ取った。身体中を余すことなく這い回った大きな手の感触が蘇ってしまって、頬が熱くなる。同時に、罪悪感が込み上げた。


 俺さ、ずっと片思いしてるんだ。人妻に。だからあの子も振った。すっごく良い子だから。

 そう。じゃあ、ダメで悪い子な私のことは代わりにするんだ?


 ヤケクソだったとはいえ、優しくして貰ったのに身の上話の途中で喧嘩を吹っ掛けた私は、半ば彼に襲われる形で抱かれた。

 数年来の片思いをこじらせていた彼も、クリスマスイブに女の子を振ったばかりで、ヤケを起こしていたのだろう。

 床を見下ろして、ごめんなさいを呟く。寝息を立ている彼は、私が目覚める前に一度起きたようで、テーブルの上に珈琲のミルやスプーンが投げ出されて置かれたままだった。

 セットされていたフィルターの粉珈琲の上へ細く湯を注いでから、窓を振り返ったが、庭に面した窓は白く曇っており、外の様子は伺えない。仕方なく冷んやりする窓辺に近付いて、シャツの袖で拭えば、粉雪が舞い落ちるのが見えた。時計の針は朝の六時を指し示していた。

 こつりと額を窓に付けて、暫しそのまま庭を眺める。

「雪、積もりそうだな」

 擦れた声とともに、長い毛足の絨毯に寝転んだ彼が、欠伸をしながら毛布の中で蠢いた。

 上がった口角と大きな身体をした、大型犬と似通った特徴を持つ彼は、俯せに転がって筋肉質な己の腕に顎を乗せると、筋が通った形の良い鼻をひくつかせる。

「うわー、ポットのこと忘れてたわ。さっき途中まで用意して、沸くの待ってたら寝ちゃったんだよね。サンキュー」

 まるで本物の犬みたいな仕草をした彼は、白い犬歯を見せて笑った。古びたホーロー製のポットは、あれだけ蓋をガタガタ喧しく鳴らしていたし、気付かない筈が無い。だから、大方、冷んやりする床の上を裸足で歩くのが嫌になって、私に珈琲を淹れさせるつもりだったんだろうと思った。

 マツリなら、きっとそうするから。

 マツリのことを思い出してしまった私の胸は、ちくりと痛んだ。

 寝転んだまま、窓の外を見ているらしい彼は、長身にがっしりした体躯に、優しい顔立ちのハンサムで、良く切れるナイフみたいに、鋭くて危ない風体のマツリとは全く違うのに、私はどうしてあのとき、彼とマツリを重ねてみたんだろう。

 突然、男が起き上がってズボンを履いた。

「さっき見て来たけど、あきらの服、まだ乾いてなかったよ」

 名前を呼ばれてどきりとした。昨夜、請われて教えた名前を彼が覚えていたことに驚いた。乾燥機に入れた服まですでに見てきてくれたらしい彼は、上に着なとパーカーを差し出すと、対面式キッチンで収納棚を開けて、食べ物を探している。優しくされて動揺する私を振り返って、彼は首を傾げた。

「どした? あきらも腹減ってるよな? 何か食べたいものある?」

 昨夜も何もお腹に入れていなかったし、マツリに給料を献上するために、普段からろくに食べていなかった私は、腹ペコだった。そっと、男に近付いて、キッチンの中を覗き込むと、保管庫らしい戸棚の中に好物のツナ缶が見えた。私の変なあだ名の由縁だ。

「それ。ちょうだい」

「ツナ缶?」

「うん」

 別に良いけどと缶詰を取り出した彼の手の中から、ツナ缶を受け取る。

 給料をギリギリまで切り詰めた生活では買えなかったから、久しぶりの好物だった。蓋を開けようとしていたら、彼は唇を引き攣らせた。

「......そのまま食べるわけじゃないよな?」

「好物なの。フォーク貸して」

 スプーンでも良いとせがむ私から、ツナ缶を取り上げた彼は、蓋を開けてフォークを乗せて手渡してくれた。

「美味しい」

 久しぶりの好物は、やっぱり美味しかった。床に座ってツナ缶をもしゃもしゃ食べる私を、彼はしばらく眺めると、頭をわしわし撫でてきた。

「......なんか、クリスマスの朝ってさ、良いものだな」

 訳の分からいことを、しみじみ呟いた彼は、残りのツナ缶で、ツナとホワイトソースのパスタを作ってくれて、それは新たな私の好物となった。


 降りしきる雪は彼が言っていた通りに積もり、クリスマスのその日も出勤だった私は、同じく出勤のスーツを着込んだ彼が運転する車に、会社の近くまで送って貰った。新しいパンプスを履いて。

 彼が片思い相手にクリスマスプレゼントとして買ったけれど、渡せなかったもので、ブーツがまだ乾いていなかった私にくれたのだ。

 あのときは、サイズが合っていてついてるな、くらいにしか思わなかったけれど、今はクローゼットの奥で眠ってるあの靴を見る度、複雑な気持ちになる。

「連絡する」

 路肩に寄せられた車から降りようとする私に、彼は携帯電話を手渡した。彼の家に置き忘れそうになった、私の携帯だった。

 マツリの存在を消し去った端末に、ユタの二文字と共に、彼の連絡先が入れられていた。

 それが、私とユタの関係の始まり。

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