第3話 野良犬に拾われた経緯

 けっきょく、キーホルダーを見つけられないまま、マツリを追い掛けてパチンコ店へ入った私は、知らない女と肩を並べて、パチンコ台に向かう姿を見せ付けられる羽目になり、すごすごと駐車場へ引き返した。


 今ここに一瞬きた幽霊みたいな女、俺の知り合いなんだけど、死ぬほど犬と結婚したいんだってさ。

 えー? なにそれ。


 引き返す直前に聞いた、二人分のひそひそ話と笑い声が、耳に残って離れなかった。マツリは次はあの女の人と浮気をするつもりだったようだ。

 私の愛情を確かめたいという理由で、そうやって定期的に浮気をして、数日後には殴ったことや、怒鳴ったことを泣いて詫びる、それがマツリのお決まりのパターンだった。

 あの日、マツリがぬいぐるみを噴水に投げ込まなければ、やっぱり数日後に電話を寄越した彼を許して、まだ彼と付き合っていたのだろうか。

 本当に幽霊みたいにマツリの軽自動車の横にしばらくの間、突っ立っていた私は、待ち受けからマツリの画像を外した。

 まだ夏の暑い日の夜、あの噴水で泳ぐって言い出して裸になろうとした彼を写したものだった。脱ごうとする彼をふざけながら止めたら、抱き締められてキスされた。次々と彼に関するデータを消していった。指を軽く画面に触れさせただけで、一年間の思い出がつまった画像やデータは呆気なく、あっという間に消え去った。

 長く吐き出したため息が、マツリが吐く紫煙みたいに消える。

 あのときは、マツリの好きな煙草の臭いを、忘れる事が出来るかどうかが不安で仕方なかった。恋が終わると、いつだってそうなのに、私はいつだって未練がましい。

 涙をコートの袖で拭い去って、歩き出そうとしていたときだ。

 公園の方角から濡れた足音が聞こえて、目を凝らした。ぼんやりと辺りを照らす街灯が、幻みたいに人影を浮かび上がらせる。

 灯りの下に出て来たその人は、裸足だった。

 膝まで捲り上げていたジーンズを直す彼は、片手に靴と、キラキラ光るキーホルダーを握っていて、私に向かってキーホルダーを差し出した。噴水に沈んで消えたはずのハスキー犬だ。

 ぽかんとしていたら、伏せられていた長い睫毛が動いて、鋭い三白眼に睨め付けられた。白い息が上がっては瞳の前で消えていくのが、なぜだか犬みたいに見えた。それで彼が誰に似ているのか、気付いた。

 ノラだ。色素の薄い瞳が三白眼みたいに見えるノラに、彼は似ていた。

「受け取れ」

 無造作に投げられたキーホルダーが、真っ直ぐに手元にやって来てしゃらんと音を立てる。濡れて藻が絡んだ犬が、確かに噴水に沈んでいた事を主張している。

「どうして……」

 さっきゲームセンターの中で、助け起こしてくれた彼は、靴を履き終えると私の横を通り過がり、後ろ手にわしわしと頭を撫でた。僅かに泥と煙草の臭いがした。

「あの、これどうして?」

「俺すっごい夜目がきくんだ。だから、それは俺からのクリスマスプレゼント」

 鋭かった視線を柔らかくした彼が、犬歯を見せて笑った。離れて行った大きな手は、熱でもあるみたいに熱かった。

 停車された車の合間を縫うように進んだ彼は、黒の大きなSUVタイプの車に乗り込んだ。隣に停車した赤い軽自動車のボンネットに、あのサンタのラッピングバッグが入った紙バッグが乗っていた。彼、ユタは、あの女の子から告白されて、振ったばかりだったようだ。

 事情が分からない私は、エンジンが掛かった車の排気の湯気を見ながら、お礼を言えなかったことに気付いたけれど、追い掛けた所できっと遅いし、喧嘩したらしい彼女に悪いと思った。

 だから、ブレーキランプに背を向けると、すぐに駐車場から歩いて出た。

 冷たい犬をコートのポケットに突っ込んで、温めるように握り締める。

 駐車場を出てすぐに、冷えきって感覚がなくなった足が今度は痛み始めて、足が進まなくなり、身体の震えが止まらなくなった。どうして郊外のゲームセンターなんかに着いて来てしまったんだろうと後悔した。今思い返してみても、車がそっちへ走っていると分かった時点で、突っ込めば良かった。

 マツリのことを思い出した私の足は、さらに重くなった。マツリは私がどうやって帰っているのかも、想像しなかっただろう。LINEのルームが空っぽになった事や、電話が不通になった事には気付いたかもしれないが、追い掛けて来てくれたりは、たぶんしないって分かっていた。

 分かっているのに、後ろから車のライトが近付いてきて、私の胸は高鳴った。

 ゆっくりと停車した車を振り返った私は、たぶん、明からさまにがっかりした顔をしていたと思う。車は期待していたマツリの青い軽自動車じゃなくて、黒いSUVだった。

 運転席から手を伸ばして助手席を開いたのは、さっきの人で、眉間に皺寄せて、困ったような顔で「乗れよ」とだけ言った。断る事も考えたけど、開いたドアからやって来る、温かい車内の空気には敵わない。返事もしないまま助手席に収まりドアを閉めると、温かい空気に混じって、僅かに煙草の臭いがした。

「あいつは止めた方がいい」

 ルームランプが消えた後、開口一番に彼が言った。停車している間に背後から走って来た青い軽自動車が、対向車線へ膨らみながら追い越して行く。さっきまで私が乗っていた場所に女が乗っていた。

「前にも一度、見てる。今日と同じ女の子連れてたぞ」

 女物の財布持って。

 彼の形の良い唇がそう動くのをぼんやり見ていた。ああ、そういえば、財布返して貰えなかったって思いながら。

 そんなみっともない私の考えを読んだみたいに、運転席で缶コーヒーのプルタブを開けた彼は、目が合った瞬間に視線を逸らして慌て出した。

「とりあえず飲みな」

 冷えて赤くなった膝の上に、熱いくらいのココアの缶が乗せられた。運転席の彼はコーヒーを飲んでいたし、わざわざ買っておいてくれたらしい。

「ありがとう、感激するくらい嬉しい」

 プルタブを引いて、ココアを啜りながらぶっきら棒に言ったら、ギアを入れた男は微妙な顔をした。

「なんだよ、その言い方......」

 何か言いかけた男は、黙り込んだ。ふんと鼻を鳴らした私は、止まらない涙をそのままに、動き出した車窓を眺める。

「あーあ......捨て猫拾っちまった」

 運転席で男が溜息を吐き吐き、ぼやいた。あのとき初めて、彼は私を捨て猫だと言った。

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