第2話 捨てられたときの話

 私がユタに拾われたのは、クリスマスイヴだった。


 私はまだ前彼のマツリと付き合っていて、何日も前からあの日のデートを楽しみにしていた。

 彼と付き合い出して一年目の記念日は、実際には十二月の頭だったけれど、クリスマスにお祝いをしようとあらかじめ決めていたからだ。そうでもしないと、元彼のマツリは、記念日など忘れそうだった。

 今、そんなマツリのどこを好きだったのか訊かれると、危うい雰囲気だとしか答えられない。

 マツリは良く切れる刃物みたいな人で、その通りに良く切れた。よく女に手を上げる男はダメだと言うけれど、やっぱりダメだ。線の細いマツリに頬を張られただけでも、私の身体は面白いくらい吹っ飛んだし、吹っ飛んでいた私の思考もどうかしていた。

 当時は吹っ飛ぶのは嫌だし、彼と仲良くしたいという理由だけで、稼いだ給料をほぼ全額、大人しく渡していたのだから。

 あの日、当たり前のように私の財布を持って、ゲームセンターをさまよったマツリは、景品の犬のぬいぐるみが付いたキーホルダーを私に押し付けると、併設のパチンコ店を指差した。

「プレゼントも取れたし、行ってくるから」

 ハスキー犬らしきぬいぐるみと見つめ合っていた私は、ああ、やっぱりかと心の中で呟いた。最近のデートでは、そうしてマツリは彼の大好きなパチンコ店へ消えて行き、私は適当に一人で帰るのが常だったし、記念日のその日だってそうなることは、予想はしていた。

 だから、いつもの私だったら、大人しく彼を見送っていた。けれどあのとき、パチンコ店へ向かおうとするマツリの背後を、背の高いハンサムな人と可愛い女の子の目立つカップルが通り過ぎて、私は無謀にも彼等と自分達を比べてしまったのだ。

 サンタの模様のラッピングバッグが覗く紙袋を、楽しそうに男の人に手渡した女の子は、綺麗なミニスカートに暖かそうなコートを着て、彼を見上げて嬉しそうに笑っており、男の人の怖そうにも見える三白眼の目尻には笑い皺が出来て、優しく笑いかけてる。

 対して、洋服を買うお金どころか、アパートの家賃の支払いすら滞らせていた私は、着古したダッフルコートに、シミだらけのワンピースを着て、プレゼントはお金が良いというマツリの笑い顔なんて、長いこと見ていなくて。そういえば、私はマツリの笑った顔が好きだった。笑うと少しだけ下顎を突き出す癖がある彼が、可愛いくて好きだったのだ。

 ーーーとにかく、あのときは、他人と自分を比べたところで仕方ないのに、そうやって幸せそうなカップルと自分達を比べてしまって、この歪な関係をどうにかしなければならないなんていう、大それた使命に駆られた。

「嫌! 今日は一緒に過ごそうよ!」

 しかも、使命を帯びた私がマツリを止めるために掴んだのは、何故だか私の財布だ。記念日くらい、ただ一緒に過ごそうと彼を説得するつもりが、頭のどこかで、これ以上自分が稼いだお金を使わせまいと、考えてしまったらしい。

 そんな私に、私の気持ちを常々試そうとするマツリが切れるのに時間はかからなかった。

 突き飛ばされて倒れ込んだ私の手の中から、犬のキーホルダーが転がり落ち、犬はさっきの女の子の足元へ転がり込んだ。驚いて立ち止まった彼女の下から、マツリが素早くキーホルダーを拾い上げる。

「おい、怪我してないか?」

「......してません」

 突然、足元に転がってきた私に、わざわざ声を掛けて、助け起こしてくれたのは、女の子と一緒に居た彼だ。三白眼が誰かに似ていだけれど、それが誰なのかはそのときには思い出せなかった。

「手、血が出てるぞ。貸して」

 擦りむいた手の平に、ポケットから出したハンカチを当てようとする男の人の手を振り払って、慌てて彼から距離を置く。

 優しくしてくれたことにお礼を言いたかったが、そんなことをしたら、マツリはきっと、手がつけられなくなるくらいに怒ると思ったから。

 お礼もろくに言わずに、保身のためにそっぽを向いた私に、男の人は何か言いたそうにしていたけれど、彼が何か言う前に、マツリが私の腕を掴んで店から連れ出した。

「なあ、どうして俺以外の男に助けられて、嬉しそうにしてるんだよ? 滅多にそんな顔しないくせに」

 低く、抑えた声で喋るマツリに、腕を強く掴まれて首を横に振った。

「嬉しそうになんて、してない」

「してただろ! 馬鹿みたいにあいつの顔をじっと見てた!」

 怒鳴られて肩を跳ねさせた。確かに、誰かに似ていると思って彼を見詰めてしまったのは事実だったから、それ以上は言い返せなかった。それが余計に悪かった。本気で切れたマツリが向かったのは、ゲームセンターの駐車場の目の前にある公園だ。

「あきら、俺のこと本当に好き?」

 責め立てるような台詞だった。必死に首を縦に振ったけど、マツリの怒りは収まらない。

「だったら証明しろよ! 俺が嫌がるようなこと言ったあげく、他の男と見つめ合ったくせに!」

「そんなこと、してないったら!」

「嘘だ! 証明しろよ! なあ、俺のこと本当に好き?」

 私の気持ちを試すような台詞も、やがて私を詰るだけの罵倒へ変わった。髪を掴まれて揺すぶられて、頬を張られ、なんどもなんども、好きだと言わされて。

 それはマツリが切れたときの、いつものお決まりのパターンだったが、あのときのマツリは、私に別れを決意させる行動をとった。

「そんなに俺が好きなら、俺からのプレゼントも大切だよな?」

 どこか中を切ったらしく、血の味がする口で、何回目かの好きを言わされた後だった。唐突にマツリが手にしていた犬のぬいぐるみを、暗闇へ投げた。ぽちゃんという呆気ない音がして、噴水の何処かに犬が消える。水の中に沈むぬいぐるみを想像した私の頭は、ある記憶を呼び起こした。

 ノラ。

 呼び掛けた私の声に、ノラは降りしきる雨に打たれて横たわったまま、くぅんと鳴き声だけでこたえた。鋭かった眼光を半開きに、血が混じる水溜りの中でぐったりして、二度と起きなかった大きな灰色の毛並み。泣きながら膝に抱え込んだ重い身体は、氷のように冷たかった。

「あれを拾って来るまでは、もうお前のこと信じないから!」

 一瞬、思い出に捕らわれて固まっていた私に、マツリは唾を吐きかけて、店の中へ消えようとしていた。

 結婚するなら、ノラみたいな人が良い。

 観ていたテレビ番組の流れで、昔飼っていた犬のことを持ち出した私を、マツリは馬鹿にしていた。それなのに、偶然にもキーホルダーの犬は、ハスキー犬のノラと似ていて、覚えていてくれたのかもしれないと、期待した。

 記念日にそれを貰えた事が、嬉しくて、投げ捨てられたぬいぐるみが、昔飼ってた犬の最期みたいで悲しかったから。だからといって、言われた通りに噴水の生垣を越えたのは、流石にやり過ぎだったかもしれない。

 脱いだストッキングを突っ込んだブーツは横倒しになったけれど、気にしている暇はなかった。膝まで浸かった水は凍るような冷たさで、長くは探せなそうだったから。

 辺りを薄く照らす街灯を頼りに犬を探す私を、マツリは腹を抱えて笑っていた。しばらくの間、私が犬を探すのを眺めて、噴水の側まで戻ってきたマツリは、私のブーツを水の中へ投げ込んだ。ブーツが間抜けにぷかぷかと水面に浮かぶ。

「お前みたいに重たいやつ、凍死すれば良いよ。もうこれで終わりな」

 捨て台詞を吐いたマツリは、さっさとパチンコ店へ消えて行った。

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