星の紫菫(スミレ)(2)
南北に約260m。面積でいえば、世界最大の戦艦たる大和型とより若干大きい程度である。コンクリートで塗り固められた弾痕残る壁面からは、今でもボロボロに錆びた砲身が伸びており、ここがかつて戦場であったことを物語っている。
その島の北岸、コンクリートの舳先の上で、さゆりは空を見上げていた。
花に、女性が磔にされている。豊かな胸、艶やかな脚。そして、胸まで伸びた長い髪。その中にある顔は、まるで乙女のようである。
身体はなめらかな鱗に包まれ、時折月明かりを受けては
人を象った竜と、
紫菫竜が七分に、星空が三分といったところか。
先ほどの加速と
ここからが本当の決戦だ。さゆりは腰にくくりつけていたヴォーパル・ウェポンを抜いた。羽毛に包まれた杖先が輝き、ほとばしる光が剣となる。
紫菫竜は牙を剥き出しにして吠えた。
直後、空に複数のきらめきが見えた。
あたりに雷鳴が轟く。隕石が大気を引き裂く
急いで障壁を展開する。しかし、紫菫竜がそれを許さなかった。花弁から菫色に輝く爪を剥き出すと、難なくさゆりの障壁を破り捨てた。
とっさにヴォーパル・ウェポンで爪を受ける。
「
急いで後ろに飛び退く。紫菫竜の爪は蛟竜島の北半分をもぎ取った。
「バケモノめ!」
隕石は紫菫竜の脇をすり抜け、島と、その周辺の海に落下した。
至近に墜ちた隕石が生み出した衝撃波に煽られる。ヴォーパル・ウェポンの剣先を突き立て、地面にしがみつく。
目を向ければ、RX-8が収まっているはずのトーチカにも隕石が命中していた。こちらは印が発動して隕石をはじき返していた。
「あおい!大丈夫!?」
「すっごいうるさかった!!!」
ホッと胸をなで下ろす。
なんとしても、あおいを守り切らなければならない。
でなければ、みのりを見つけるあてもなくなってしまう。
「頼むよ、ファン・フレディ」
立ち上がり、滞空している紫菫竜を睨みあげた。
『そんなに気になるの? あのニセモノのムスメが。うふふ』
誰かの、ささやかな笑い声が聞こえた…ような気がした。HMDのヘッドフォンから聞こえたのか。
いや、違う。この声は、あおいのものではない。
刹那、紫菫竜の身体から鱗が飛び散った。人の大きさほどもある鱗が、散弾となってさゆりに降りかかる。
迫る鱗を
素早く鱗に
紫菫竜の攻撃がわずかに弱まった。
衝撃を受けた紫菫竜の高度が下がる。HMDには102mと表示されている。
ならば、ヴォーパル・ウェポンが届くはずだ。
「ヴォーパル・ウェポン! お前が
右手で杖を握りしめる。ブゥンと低い振動音を鳴らして、羽根飾りが波打つ。
鱗の第二波が迫る。鱗の影を飛び出し、ヴォーパル・ウェポンを振り回した。果てしなく伸びた光の剣は、なんなく鱗の群れをなぎ払った。
「ぶったぎってやるっ!」
ヴォーパル・ウェポンを大上段に振りかざす。
「ヤァアアアア!」
裂帛の気合いと共にヴォーパル・ウェポンを振り下ろした。
刀身の光が一層増し、星空もろとも紫菫竜を斬らんとうなりをあげる。
だがヴォーパル・ウェポンの剣先は、紫菫竜を包む紫色の泡によって食い止められた。
しかし、障壁を展開してくることな折り込み済みだ。
「ヴォーパル・ウェポンなら、斬れるはず!」
雄叫びをあげて杖を握る手に力を込めた。だが、泡は破れる気配がない。
「ならばっ!」
今度は横凪にして紫菫竜を斬る。しかしそれも、泡によって食い止められた。
泡の防御は絶対だった。刃が通る気配すらない。
『うふふ。前ばかり見てて、いいのかしら?』
ふたたび、女の声がした。
「!」
泡に気をとられ、横から迫っていた爪に気づかなかった。
紫菫竜の爪は地面を引き裂き、さゆりの左腕をへし折った。
ヴォーパル・ウェポンの刀身が消え、地面を転がった。
肘から先の感覚がない。それもそのはず。その先がダークネイビーの袖ごと消えていたのだから。
「くそっ!」
魔方陣まで組んで不破化をかけたコートなのに、まるで薄紙を裂くように破られてしまった。
あの爪は危険だ。あおいのいるトーチカに近づけてはならない。でなければ…
『そんなにニセモノのことが気になるの?
この声、どこから発せられているのか。
言うまでもない。
目をこらせば、泡の向こうの紫菫竜が口角をあげて笑っていた。
(
そうだ。これは、竜属が使う声だ。存在は知っていたが、聞くのははじめてだ。
言葉は分かる。竜語はおそらく、言語ではないのだ。心の振動が、生み出す意思の塊、音楽のようなものなのだろう。
「ニセモノってずいぶんな言い方だな。私の娘に向かって」
口に出した言葉は、自ずと竜語になるらしい。さゆりの言葉を聞いて、紫菫竜はさざ波のように笑った。
『うふふ。本当の事を言っただけよ。それともあなた、
「どういうことだ!」
紫菫竜は答えない。ただ、静かな笑い声を奏でるだけだった。
『決着をつけましょう。金剛竜。私はあなたを喰らって、畸形児を殺す。そして星の世界へ…あの
紫菫竜が口を大きく広げた。折れた左腕は、まだ回復していない。残った右手でヴォーパル・ウェポンを拾い上げ、身構える。
『かわいい私の子孫。特別に子守歌を歌ってあげる。眠りなさい。永遠に』
紫菫竜の言葉は、やがて音楽へと変わっていった。
急速にまぶたが重くなる。体中の力が抜けていくように感じる。頭がふらつき、立っているのも困難になってきた。
「なんだ…これは…」
膝から崩れ、右手をついた。
さゆりの意識は、急速に闇へと吸い込まれていく。
…。
みのりが笑ってる。さゆりが買ったスプリングセーターを着て、はしゃいでいる。こんなに楽しそうにしているみのり、見たことがない。
山の中を走っている熊さんとター坊。熊さんは愛用の銃を担いでいる。
草太が野球をやっている。その様子を早苗と二人、たこ焼きを食べながら眺めている。カキーンという音がして、白球が蒼穹に吸い込まれていく。夏草のにおいがした。
小さな頃のあおいが駆け寄ってくる。おねえちゃん、こんなの作ったの、と手渡してきたのは、なにをモチーフにしたのかさえわからない、木彫りのオブジェクトだった。頭をなでると、小さなあおいは満面の笑みを浮かべた。
この世に、こんなに可愛い笑顔があっただろうか。
様々な光景が浮かんでは消えた。
みのりと
ちがう。あれは、みのりじゃない。あれは…
「私はただ、あの人がいるところに行きたいだけなの」
誰のものとも知れない声。
「なんで邪魔するの! 邪魔しないで! 私は…」
胸に迫る声。悲痛な響きがそこにはあった。
「私は、稔のところにいくの!!」
心が揺れた。
懐かしさとさみしさ、孤独と悲しさ。様々な感情がないまぜとなって切なさとなる。
暗転を繰り返し、意識はどんどん遠くなる。
会えない人に、会いたいと思う気持ち。手が届かない世界にいってしまったあの人の面影。
なぜこんな気持ちばかり、強くなっていくのだろう。強い望郷の念、郷愁がさゆりの心を支配していく。
この気持ちは、誰の気持ちなんだろう。
『あの
確かに紫菫竜は、そう言った。
突如、目の前に稔が姿を現した。
相変わらず、ひょろながい身体をしている。だがさゆりの記憶と違う部分もあった。口ひげだ。雰囲気も大人びていた。表情も引き締まっている。
だが、彼が稔であること、さゆりは女性の部分で理解できた。
この世で一番、愛しい人のことを、忘れるわけがない。
「会いたかったよ、稔」
素直に言葉が出た。稔は微笑んでいる。
駆け寄った。そして残された右腕で抱きしめた。
「さびしかったんだよ、私は!」
一度堰を切ったら、もう言葉と感情は止まらなかった。いつの間にか、泣いていた。涙で服を濡らすことを、稔は甘受していた。
恨み言も愛の言葉も、全てを吐きだした。そして、全てを聞き終わると、稔はやさしくさゆりを抱いた。
「これからは、ずっと一緒だ。さゆり。いこう」
「うん」
これまで我慢してきた、女として幸福が訪れた瞬間だった。頭の中がとろけてしまって、なにもかんがえることができなくなった。
これからはずっと、みのるといっしょなんだ。そうかんがえるだけで、さゆりはしあわせだった。
しかし。
だが、闇の中から現れた手が、稔の腕を引きはがそうとする。
その手首には、見覚えのあるスマートウォッチが巻かれていた。
「おかあさん!」
闇の中から出てきた影は、強引にさゆりと稔の間に割り込んだ。
「おかあさん! その人と一緒に行っちゃダメ!」
みのりだった。鋭い目で、稔の方を睨んでる。
「この人は
「何をいう。さゆりを騙しているのは、お前の方ではないか。ニセモノのくせに」
稔に言われると、悔しそうな顔をして、みのりは黙ってしまった。
「さゆり、分かっているんだろう? その娘は、俺たちの子供じゃない」
そして稔は、さゆりの頭を抱きしめる。
「俺たちの、本当の子供を作ろう」
さゆりは沈黙していた。そして一度、みのりの顔を見た。
みのりは、悲痛な顔をして、次のさゆりの言葉を待っていた。
「やだ。みのりと一緒じゃなきゃ、いかない」
さゆりは、稔の身体を押しのけた。
「何を言ってるんだ、そいつはお前の子供じゃないんだぞ。知ってるんだろう」
「知ってるよ。この子が本当の子供じゃないって。でもね、本当の子供だったらよかったって、何度もそう思ったんだ」
「でも、ニセモノなんだぞ!」
「だから何なの!? ニセモノの娘を、可愛いと思ったらいけないの!?」
「おかあさん…」
みのりはキュッと、口を結んだ。そんなみのりの頭を、さゆりは右手で撫でた。
「あんたの子供を作りたかった。でも、かなえられなかった。そんな私のところに、みのりは来てくれたんだ。この子がどれだけ私の寂しさを埋めてくれたのか、あんたには分からないでしょう?」
「しかし、その娘は」
「それに、私があんたと一緒に行ったら、草太や早苗を泣かせることになる。あの二人は、あんたの後を追おうとした私を止めてくれたんだ。その恩と義理もある」
「…」
「やっぱり私、まだそっちにいけないよ」
空間が歪んだ。ズンッという音と共に、地面が大きく跳ね上がった。
「サユリ、オマエの勝ちだ」
稔はちいさく、笑った。そして聞き覚えのある、甲高い声を発した。
「ミノリ! いそいでサユリを連れていけ!」
稔が叫んだ。みのりの手が、さゆりの右腕をつかんだ。
「おかあさん、こっち!」
遠ざかっていく稔の姿。
「ごめん、稔。いつか、そっちに行くから」
さゆりは叫んだ。稔は小さく手を振った。
「ワカってるヨ。オマエがオイさらばえるマデ、キナガにマってるヨ」
もう稔の姿は、見えなくなっていた。
(つづく)
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