みずいろの雨(1)
紫菫竜との戦いから、四日がたっていた。みのりは、ほぼ寝たきりとなっていた。
月曜日は夕方に、トイレのために目をさました。一人では立てなかったから、さゆりが肩を貸した。食事はとらなかった。
火曜日。ようやく食事を採った。食事といっても、おかゆを少しだけ、すすっただけ。
その日から、自分の布団をみのりの部屋に敷いた。これからは毎日一緒に寝ようと決めた。寝る前に声をかけて、朝起きたらまた声をかけて。たまには起きないことをいいことに、頭をギュッと抱いたりして。
水曜日。時々うなされていたが、目を覚ますことはなかった。
汗をかいた下着をとりかえ、肌をふいて。床ずれしないように姿勢を変えてあげたり。気がつけば一日中、みのりの世話をしていた。
そして今日。朝に一度、トイレに行くために目を覚ました。そして不死の霊薬を飲むと、また眠ってしまった。
昨晩早苗から送られてきたメッセージが気がかりで、街に降りることにした。みのりの枕元に不死の霊薬の入ったボトルと水のはいったコップを置き、昼前までには帰ると書き置きを残した。
あおいにNow-Manで連絡する。
ロードスターは、あおいに預けてある。クルマのない生活は不便であったが、どのみち今のさゆりは、MTのロードスターを運転することができない。それにあおいが買い物を代わってくれるので、一日中みのりの側に付き添っていられた。
三月後半にしては、冷え込む日だった。それでも幌を開けたくなるのは、オープンカーゆえのことだろうか。
暖房をつけていれば、腰から下は暖かい。あおいは渋ったが、最後は
風を受けて、左の袖がバタバタとはためく。
「安芸津の親父さん、お袋さんはなんて言ってるの」
「ご想像通りだよ。たつみ通りのみんなも同じだって」
駅前広場の信号につかまった。
ここにきて、なぜあおいがオープントップにしたくなかったのか、その
「ねえさんには、あまり見せたくなかったんだけどね…」
バツが悪そうに、あおいは右手で髪を撫でた。
駅前では、今日も
いつにもまして言葉が過激なのは、先日の選挙で落選したからであろう。
「なぜ私たちが、この街を追われなければならないのでしょうか。言うまでもありません。
いつものように竜殺しへの恨み、偏見をまき散らす。
いつもならスルーされている彼の言葉であるが、今日は多くの聴衆を集めている。
彼らは馬瀬川の言葉に喝采を送っていた。
無理もない、と、さゆりはため息をついた。
元は竜見一族の所領であり、現在も竜見ゆかりのものがこの近くで大規模な牧場を営んでいる。
そんな場所をなぜ選んだのか。この一帯には世界一の埋蔵量を誇る竜脈があった。
竜胆湖があるT県北部と、隣接する各地域に無制限の避難勧告が下されたのは、紫菫竜との戦いがあった日、つまり日曜日の夜のことであった。夜まで発表が延ばされたのは、この日が参議院選挙の投票日であったためだ。結果は民王党の勝利であった。
そして翌日の記者会見で蓮舟官房長官は、さもさゆりが独断で輝銀竜と約束したかのように発表した。竜同士が勝手に戦うことになったので、近隣の人たちは逃げて下さい。避難勧告は出しますが、悪いのはあくまでさゆりであって、政権は関係ありません。こんな言いぐさであった。
馬瀬川のトークショーが盛り上がっているのは、乙ヶ宮も、その避難エリアに指定されていたからだ。
生活を奪われる不安と怒りが馬瀬川の
そんな民心の動揺を利用する馬瀬川に怒りを覚えたが、言い返す言葉も権利も、今のさゆりにはなかった。
「気にしちゃだめだよ、ねえさん」
信号が変わった。シフトを1速にいれると、あおいはゆっくりとアクセルペダルを踏んだ。
たつみ通りも、ひっそりとしていた。どの店も開店していたが、客の姿が見当たらない。あきつ家の駐車場も、今日は空きが目立つ。
「買い物は私が済ましておくから」
「すまないね」
「しかたないよ。ねえさん、そんな身体だし」
買ってほしいものはNow-Manで送ってある。
あおいと別れて、たこ焼き屋の前に向かった。
ドアを叩くと、早苗の娘の
「あ、さゆりさん、いらっしゃい」
そういえば、もう春休みか。春らしい若草色のTシャツを着た彼女は、まさに「みどり」であった。
応援メッセージのお礼を言うと、耳を撫でながら肩をもじもじさせた。
照れている翠の後ろから、早苗がやってきた。
「ごめん、ジャケット脱ぐの、手伝って」
脱がされたジャケットはハンガーにかけられた。
さゆりをちゃぶ台の前に座らせると、自慢のたこ焼きを持ってきた。流行の中がトロトロしたたこ焼きではない。トラディショナルな関西風たこ焼きだ。
「みのりちゃんは、まだ…」
「うん。ずっと寝てる」
出されたお茶に口をつける。今日は冷える。暖かいお茶がありがたい。
「Now-Manで送ってきた件なんだけど」
「逃げないよ、うちは」
早苗は強い視線を、さゆりに向けた。
「だって、親友がそんな身体になってまで戦っているんだもの。逃げられないよ」
早苗の目は、肘から下が失われた左腕に向けられていた。
「気持ちはありがたいけど、ここだって戦場にならない保証はないんだよ」
「覚悟の上だよ。草太くんとも話した。翠も残るといった。さゆりちゃんたちだけ、つらい思いさせるわけにはいかないって」
「…」
「本当は恐いよ。紫菫竜の時だって恐かった。でもね、私が逃げたら、さゆりちゃんの味方、どこにもいなくなっちゃう気がするの」
「いいんだよ。これがあたしが、金剛竜として生まれてきた理由なんだから」
「よくないよ!」
早苗はうつむき、そして強い言葉で言った。
翠も早苗の隣に座り、母の言葉にうなづいた。
「テレビだって、みんなさゆりちゃんが悪いって言ってる! さゆりちゃんが決闘を受けたから、北関東の人たちが迷惑してるって。そんなわけないじゃない。みんな無責任だよ。こんな時こそ、日本中でさゆりちゃんを応援しないといけないのに。おかしいよ!」
「おかしくたって、それがあたしが守りたい世界なんだ」
さゆりは、早苗の肩に右手を置いた。
人間は誰だって、強くはないのだ。さゆりにだって迷いはある。自分たちの力ではどうにもならない災いにおののくのは、人として当然であった。ましてそれが、属人的な理由で引き起こされるのなら、その人間を責めたくなる気持ちになる。現にさゆりだって、竜殺し年金を削減した民王党を恨みに思っている。
ただそれは、さゆりが長らく半孤立状態で生きていく間に身につけた達観であるかもしれない。早苗や翠のように、人の善意の中で暮らしてきた人間には、友達を見捨てるという選択肢は存在しないのかもしれない。それが正解とも、思わないのかもしれない。
正午をすぎて、雨が降ってきた。
さゆりは、ロードスターの助手席にいた。
結局、さゆりは誰一人説得できずに帰路につくことになった。
「みんな強情だよね」
そう言うあおいだって、「ねえさんたちを信じているから」などと言って、逃げる気などないのだ。
むなしくなるので、この会話は打ち切った。
「みのり、待ってるかな。不死の霊薬、ちゃんと飲んだかなぁ…」
左右に動くワイパーを見ながら、さゆりはつぶやいた。
「そんなに心配しなくても。大丈夫だよ、みのりちゃんは」
あおいはなぜか、みのりに対してはぞんざいである。スーパーで倒れた時も、心配するさゆりの横で、「ただの疲労」だと断じていた。実際、あおいの言う通りだったのだが、それにしても言い方が冷たいのではないか。
「今回も疲労だって言いたいの」
「そうよ。疲労だよ。電池が切れちゃったから、ずっと寝ているだけ」
「うちの
「心配しなくても大丈夫なんだよ、みのりちゃんは」
あおいは、さゆりの言葉を遮った。
店の前には、数台の自動車が張り込んでいた。さゆりのコメントを取ろうとしているテレビ局、新聞、ネットメディアだ。
ロードスターから降りると、一斉に駆け寄ってきた。
「今は話すことはありません」
めんどくさそう後ろ頭をかくと、彼らを無視して店に入ろうとする。
「しかし、今回はあなた一人で済む話ではありません。どのように戦うのか、勝つ自信はあるのか、そのあたりをお聞かせいただけないと、国民は安心できないんですよ」
「あんたがそういう不愉快なインタビューすると、あたしの精神統一が乱れて負けることになるかもよ。いいの?」
そう言いながら、先の戦いで失った左腕を見せる。
日本のマスコミは、その歴史から障害者にはセンシティブにならざるを得ない。戦いで腕を失ったというさゆりの現状は、マスコミを黙らせるには都合が良かった。
「あんたのせいであたしが負けるかもしれない。世界が滅びるかもしれない。そういう話をしてるの。それでもあんたは、私にインタビューできるの? どうなの?」
それっきりインタビュアーは黙ってしまった。マスコミの責任なんて、こんなものなのだ。
「悪いけど、こっちは忙しいんだ」
あおいと一緒に店にはいる。
「懲りないね、あの人たち」
「コメント取るまで帰ってくるな、とか言われてるんでしょ」
店の外から、まだざわざわと話し声が聞こえる。
直後、春雷が鳴った。
大きな雨粒が窓を強く叩く。春の雨は、冷たい。店も冷え込んできたので、ストーブに火をつけた。
バタバタとクルマのドアが閉まる音が聞こえた。エンジン音が遠ざかっていく。
逃げることは、恥ではないのだ。早苗たちも、あれくらい素直であれば。そんな事を思いながら、白い煙を吐くマッチ棒を、水の入ったコーヒーの空き缶に入れた。
(つづく)
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