やってきた「娘」
「ただいまー」
店の扉の側にあるスイッチを入れる。天井の蛍光灯が灯る。チカチカと、切れかかった蛍光灯が瞬くたび、鏡もキラキラと輝いた。
「どうした、ずいぶんと遅かったじゃないか」
鏡の声はいつものキンキンと声を奏でる。しかし、さゆりの様子がおかしいことにはすぐに気づいたようだ。
「駅前に竜が出たのさ」
聞かれる前に、さゆりは答えた。
「また? 今日一日で二匹も出たっていうのか?」
「うん。こんな日もあるんだね」
ドサッと、店と居間をつなげる上がり
「で、どうしたんだ? 倒したのか?」
「それがね…」
言いよどむ。
「いや、なんでもない」
逡巡を繰り返した後、さゆりは言葉を飲み込んだ。
「なんで人間って、歳を取るんだろうね。ずっと若いままでいいじゃないの」
そして答えの代わりに、いつもの質問を鏡に投げかけた。
さゆりは膝をかき抱いた。
「…子竜、倒せなかったんだ」
「え…?」
「全力を出したのに、牙を折るのが精一杯だった。あんな子供の竜一匹、私は倒せなかったんだよ!!」
胸の中にあるものをすべてはき出すと同時に、目の奥の堰も切れた。
膝の中に顔をうずめ、子供のように泣いた。自分の衰えに、弱さに、そしてなにより悔しさに。
「あんな子供の竜、20年前の私なら杖がなくったって倒せたのに!」
「そんなに泣くなって…」
「昼間も一撃で
「泣かないで、サユリ。ただのブランクってこともある。このところ竜が出なかったんだ。急に力を使おうとしたって、うまくいかないこともあるよ」
泣きわめくさゆりを、鏡は優しく慰める。甲高い声は、このときばかりは女のもののように聞こえた。
「あの
泣き止まないさゆりを、鏡はもてあましているようだった。腕があるなら抱きしめられたのにと、そう思っていたかもしれない。泣きじゃくるさゆりにかける言葉すら失ったのか、そのまま黙り込んでしまった。
ひとしきり泣いて、気持ちが落ち着いてきた。ちり紙で鼻をかむ。冷静になると、醜態をさらしてしまったことに羞恥がわいてきた。
「変なところ見せちゃったね」
鏡がブゥーンと鳴った。うなずいている時の音だ。
「で、その子竜は誰が倒したんだい…? さっき言ってた
「知らない。どこからか飛んできた」
「君以外に、竜殺しがいたのかな?」
さゆりは首を横に振った。このあたりに、現役の竜殺しはさゆりしかいない。まして世界中どこを探しても、さゆり以上の力を持つ竜殺しはいないのだ。
「あの光の球は…。そう、まるで…」
何かを言いかけた時、古びたベルが音がした。鈍く途切れた鐘の音。
「あのぉ…」
扉の隙間から、誰か顔をのぞかせた。少女の声だった。肩の後ろで長いポニーテールが揺れている。
「どちらさまですか?」
袖で残っていた涙をぬぐい、少女の方を見た。
背はさゆりとそう変わらない。いくつかの蛍光灯がきれたままの暗い店内では、顔までははっきりと分からなかった。制服を着ているが、このあたりの学校のものではなかった。
だがその制服に、さゆりは見覚えがある気がした。
「こんな遅い時間に出歩いてるなんて、親御さんが心配するよ」
思いもよらない訪問客のおかげで、さゆりは普段の思考を取り戻した。まるで先ほどの慟哭なんて忘れてしまったかのように。
「竜見さゆりさんですよね?」
「そ…うだけど…あなたは?」
さゆりの言葉を聞いた直後、暗がりでもわかるほど娘は表情は明るく輝いた。そして腕を開いて駆けよると、その腕でギュッと、さゆりの身体を抱きしめた。少女はさゆりの胸に顔をうずめた。
「ちょ、ちょっと…! あんた! なにするの!」
「ママだ! ママッ!」
くぐもった娘の声。
「ま…ま??」
せっかく戻った思考が、再度混乱に陥った。
「ママって、何言ってるんだい??」
「会いたかった! 会いたかったよ! ママ!」
さゆりに抱きつく腕の力がますます強くなる。
「ちょ、ちょっと! 私は子供なんて産んだ覚えないよ! 誰かと間違えているんじゃないの!?」
「でも、
「ふざけた事言わない…で…?」
そのとき、娘のポニーテールの根元にあるシュシュが目に入った。
さゆりがいつもポケットに入れているものと同じ、レースの縁取りがついたシャンパンゴールのシュシュだ。
「これ、どこで?」
「お母さんもらったの!」
「そんな、まさか…」
さゆりの胸に伏せていた娘が顔をあげた。
言葉を失った。
その顔には、彼女が失ったものの全てがあった。
つややかできめ細やかな肌。しわ一つない目尻、たるみのない頬。白いものがない漆黒の髪。
そしてなにより、彼女はさゆりが失った20年前の「顔」を持っていた。
「あなたは…」
「私、安芸津みのり!」
「安芸津…?」
「そう! みのるの「みの」と、さゆりの「り」で、みのり!」
「みのる…?」
それは、あの日から、一度として忘れたことのない名前だった。
いや、さゆりにとっては一生忘れることができない名前であろう。
全てが、さゆりの理解を超えていた。
「どうして、あなたが私と
「だって、そうなんだもん。私は
呆然とするするさゆりの表情を、
「だって稔は…」
さゆりはとても信じられないと、首を横に振った。
「稔は22年前に死んだんだよ?」
(つづく)
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