伝えたかったのは

 それから一週間。

 睡眠時間を一日三時間に削って、只々無心にPCを叩き、朝、死んだように眠った俺を麗がつねり起こすという心も体もズタボロになる生活を送っていた。


「で、どぅえきた……」


 そして今日、オールで頑張った甲斐もあってか、一週間でなんとか1つの物語が完成した。短時間睡眠の効果か、物凄く気分が悪い。

 今なら羽もないのに空を飛べて、蛙でもないのにゲロゲロと言いながらゲロを製造できそうな気がする。


「あにぃ、朝だよ起きなーって、何だ起きてるじゃん」


 相変わらずドアノックはなしで、そんな声と共にドアが開け放たれると、麗が俺の部屋へと入ってくる。

 ほんと俺のプライバシーってどこにあるのだろうか。誰か教えてほしい。


「ああ。もう終わりそうだったからずっと書いててさ、そしたらいつの間にか朝になってた」

「オールってこと? それ体大丈夫なの?」

「別に大丈夫だよ。授業中に寝るし。ふぁーわ」


 天井に向かって伸びをすると自然と口から大きな声が出る。

 いや~、ほんと眠いですね、どうしましょう。学校までちゃんと辿り着けるかな? 登校途中に何処かで寝ちゃったらどうしよう。何それ、泥酔したリーマンか何かかよ俺は。


「いや、それは駄目でしょ」


 そんな、睡魔で死にそうな俺を目の前にしても麗は真面目だから鬼みたいな事を言ってくる。もう、全く麗ちゃんったら真面目なんだからぁ。そこは寝不足の俺を心配して今日はガンガン寝ちゃいなよっ!って笑顔で俺の背中を押してくれるところでしょ?


「大丈夫だって、授業で習う事なんて受験ぐらいしか使わないんだから」


 だから一回くらい寝ても大丈夫だ。


「だから大丈夫かって聞いてるんだけど、はぁ」


 何故か妹様に呆れられてしまった。もしかしてこの子は授業中に寝たりしないのだろうか? 

 えー、何それチョーあり得なくな~い? アチシってば古典のハゲジジイの授業なんて大概寝ちゃってるんですけどぅ~。クレッシェンドゥ~。

 ……寝てないせいかテンションが少しおかしいようだ。まぁ、成績優秀な自慢の妹様は喩え古典のハゲジジイの授業でもしっかりと聞いているのだろう。流石は俺の妹だ。これからも柏木家のお勉強できる担当はお前に任せた。両親からの期待を一身に背負って勉学に励んでくれ。お兄ちゃん応援してるから。ほんと。うん。

 ……あ、俺の方が勉学頑張らないと今年受験だった、そういえば。


「まぁ、いいや。それよりあにぃ早く学校にいく準備しないとそれ無駄になっちゃうよ」

「おう、そうだな」


 麗は俺の更に奥にあるノートPCを見詰めてそんな事を言ってくる。

 画面には出来立てほやほやの拙作の文章が表示してあった。


「……今日頑張るんでしょ?」


 頑張ると言うのは水城との仲直りの事をいっているのだろう。麗なりに俺の事を心配してくれているのかもしれない。


「まぁ、そうだな。こういうのは遅らせるとズルズル後を引いちゃうからな。今のこの寝不足のテンションでいけばどうにかなるだろ」


 こういう経験は無いのだが勢いとノリでどうにかなると俺は信じている。


「……いや、それはやばい方向にどうにかなりそうなんだけど」

「えっ、やばい方向って?」

「……まぁ、いんじゃない。あにぃがやりたいようにやれば」

「お、おう」


 何か今、俺は麗から諦められてしまったような気がしたのですか気のせいですよね? 俺の気のせいですよね?


「まぁ、失敗したらその時はその時で麗が胸貸してあげるからさ。頑張って来なよっ!」

「うぉっ⁉」


 麗なりのエールなのか俺の背中に気合入魂の一発が入れられる。御陰で眠気が一気に吹っ飛んで、思わず夜中に飲んだ栄養ドリンクをリバースしてしまうところだった。

 麗ちゃん、もっと手加減して。


「ファイトっ、あにぃ!」


 だけども麗の華奢な笑顔と語尾を上げた可愛らしい言葉添えを聞くとそんな事はどうでもよくなって、思わず顔が綻びる。


「あぁ、頑張って来るよ」


 長い一日が始まる。


 ☆ ☆ ☆


「じゃあ今日の授業は終わりにします。皆気を付けて帰るように」


 帰りのHRも終わり、ようやく今日1日が終わる。

 今日は一段と時間が長く感じられた。

 まるで時間が象の鼻の長さのように感じられる一日だった。

 象の鼻で時間の長さを表現する喩えとしてどうなのというのは置いておくとして、今日はいつもより体感時間が長かったように思う。

 寝不足で変なゾーンにでも入っていたからというのも一つの原因かもしれない。

 今ならもしかして、バスケが滅茶苦茶上手くなってんじゃないの? という意味の分からない思考が出てくるくらいだからこれはだいぶ重症だ。

 まぁ、でも、本当にどこから打っても、三ポイントシュートが入るというあの緑色の髪をしたキャラのように俺もバスケが上手くなってたらどうしよう。バスケとか一回もやったことないけど。結論、無理。

 まぁ、そんな妄言は終わりにして実際の所、寝不足なのに寝れなかった原因というのは水城にどうやって喋りかけようかと1日中ずっと考えていたらであって。きっと今日の俺は授業中凄い形相で黒板を凝視していたことだろう。たまに教師と目が合うとすぐに目線を反らされたし、こいつはヤベーやつだと思われたかもしれない。おまけに今日の授業はほとんど頭に入っていないし。ほんと、今日はやすめばよかった。

 まぁ、そんな俺の何の面白みもない今日一日をダイジェストで振り返ったところで、いつもなら足早に学校を出て帰宅の途に就くところだが、今日はこれからが重要というか大事な用事がある。

 既に布石は打っておいた。後は唯々水城が来てくれる事を願い、待つだけである。そんな淡い期待を抱いて、昇降口へと向かうと、


「……何ですか、用事って」


 褐色のセミロングが良く似合う、男子なら誰もが二度見してしまうかのような容姿端麗の俺のよく知る後輩が佇んでいた。

 しかし、その口調はまるで他人と接する様に抑揚のない平坦な声音だった。

 俺の知る元気で明るくてちょっとアホな水城美波はどこへ行ってしまったのだろうか。


「悪いな、待ったか?」

「いえ……そんなには待ってませんけど……それより何ですか、このメッセージは」

「ん?」


 水城はポケットからスマホをとりだすと、ジト目で自分のスマホを否応無しに見せてくる。その表情から読み取るに、水城の機嫌は全くいいと言えるものではないことがわかる。

 まぁ、無理もない。 

 俺が昼休み、唐突に放課後昇降口で待つように指示したからかもしれない。

 もしくは、何か気に障るような文体でも書いてしまったっけ?

 そんな疑念に駆られながら、俺は自分が送りつけたメッセージを音読する。


「いや、何って放課後昇降口に待ってなかったらお前の恥ずかしい秘密をバラすって書いただけだけど?」

「それを何かって訊いてるんですよ⁉ 脅迫ですよねこれ? あたし脅されちゃってますよね⁉」


 答えは後者だったらしい。

 俺は求めていないのに携帯を握り潰す勢いで声高にオーバーリアクションをする水城。

 先程はこの1ヶ月で俺の知らない水城に変貌してしまったのかと焦ってしまったが、それは杞憂だったようだ。ものの数秒で俺のよく知る水城がカムバックして来た。

 ヤムチャがドラゴンボールで生き返ってから再度死ぬまでの様に異様に早い。


「いや、別に脅しじゃないから。俺はちゃんとお前に選択権を与えてるし。来なかったら誰かに水城の恥ずかしい秘密をバラすっていう条件付きだけど。まぁ、そこは特に気にすることはなかっただろ?」

「いや、ありますよ! 大ありですよ! 寧ろその秘密保持の為にあたしはここで先輩を待っていたのですが! 何ですかあたしの秘密って? 先輩はあたしが来なかったらどんなあたしの秘密をバラそうとしてたんですか!」


 元の調子に戻ったかと思ったら、急に騒ぎ出すなんて。急に変貌しすぎじゃない? どうしたのこの子。


「ん? 別に何でもいいだろ? 実際、お前はこうして放課後に昇降口で待ってたんだからもう何も心配することは無い。秘密は保持された。よかったな」

「えっ、あっ……なるほど、そう考えるとそうですね。……全然よくはないですけど」


 難しい顔をしながら何か納得できないように、んー? とかぐぬぅなどと呻く水城。

 まぁ、そんなに心配しなくてもほんとは水城の秘密なんて何も知らないんですけどね。騙してごめんね。でも、嘘も方便っていうでしょ?


「それより水城、これから少し時間あるか?」

「……まぁ、ない事もないですけど」


 煮え切れない曖昧な言葉を口にする水城。

 普通なら、「そっか、じゃあ、また今度時間がある時教えて!」なんて空気を読んでそんな事を言いながら笑顔で別れるのだろうけど、残念なことに俺はそんな空気など毛頭読んだりしない。なぜなら今の俺は寝てないから。限界突破しようとしているから。今ならコンクリートの壁に突っ込んでも壁だけが壊れて俺は無傷で済む気がするし、指先からビームだって出せそうな気がする。そんな状態の俺が作り笑いなんかできる訳がない。できるとしたら相手を不快にさせる卑屈な笑みだけだ。あ、それはシラフでも簡単にできますけどね。

 それほど今の俺はテンションが異常。誰にも止められない。それに空気なんて吸って肺に入れるだけで充分だろ?


「悪いが水城、お前に拒否権は無い。拒むなら無理やりにでも連れて行くからな」

「えっ、ええっ⁉」


 そう言うと俺は、狼狽する水城の腕を引き、そそくさと歩き出す。


「ちょっ、先輩何処に行く気なんですか⁉」

「まぁ、着いてからのお楽しみってやつ!」

「えっ、ええっ⁉」


 手の平に確かに感じる細いながらも柔らかくて、あり得ないくらいに滑らかな温もりを噛みしめて俺達は校門を出る。


 ☆ ☆ ☆


「着いたぞ」

「……ここ、ですか?」

「そうだ」


 歩くこと三十分。

 俺と水城はとある住宅街のある家の前にいた。


「……先輩の家……で、一体何を?」

「まぁ、いいからさ。取り敢えず上がれよ」


 困惑する水城を他所に、俺は家のドアを開けて水城を招く。

 しかし、この前の事を気にしているのか水城は一向にその場から動こうとしない。やっぱり家に呼ぶのはまずかったかな? なんて後悔の念に駆られていると、


「……まさか変なことは――」

「しねーよ!」


 俺の無垢な心配は杞憂だったようだ。身体を縮こめて、何か怖がるように俺との距離をを置くように後退りする姿を見れば、その言葉の続きなど聞かずとも何を考えているかなど容易にわかった。本気で心配した俺の良心を返してほしいものだ。


「安心しろ。ただお前に見て貰いたかったものがあるだけだ」

「……見せたいものですか?」

「ああ」

「……わかりました。お邪魔させて頂きますね」


 俺の真剣な面差しをみてか、意外にも水城はすんなりと承諾してくれた。

 これで、目の下に深く刻まれた漆黒の闇(隈)も無駄にならずに済みそうだ(ゲッソリ)。


「ありがとうな」

「いえ」


 これで水城を家に上げるのは二度目になる。

 これくらい素直に自分の思いを伝えられたら、きっと簡単なはずなのに。


「で、先輩。あたしに見せたいものってのは何ですか?」

「ああ、これだ」


 水城を自室に招くと早々に、完璧なスタートダッシュを決めて彼女は俺に訊ねてくる。

 全く水城さんってば欲しがりなんだからぁ。そんな事を思いながら、俺はノーパソを起動させて今朝完結させた物語が保存されているファイルを開く。


「これを読んで欲しいんだ」

「……今からですか?」

「あぁ、今、ここでだ」

「……分かりました」


 そう告げると水城は机と対になっている椅子に腰かけ、まじまじとノーパソを見詰め、物語の世界に入っていく。

 それを見届けた俺はというと、ベッドに腰掛け、真剣な水城の綺麗な横顔を特等席から眺める。特に悪い事をはしていないのだけど何故かいけない事をしているような気分になり、思わず目線を反らす。

 そんな自室は人、二人が居るとは思えないくらい静寂に包まれていて、ある種、緊張感ともとれる空気が流れていた。そんな空気感の中、俺はふとあることに気づく。


「俺って、水城が読み終わるまで何してればいいの?」


 そこから1時間強。俺は睡魔と激闘を繰り広げた。


 ☆ ☆ ☆


「……ぱい……先輩っ!」

「んにゃ?」


 朦朧とする意識の中、身体を揺さぶられて一気に現実に引き戻され、虚ろだった瞳にもう一度光が宿る。首を上に向けると目の前に水城が立っていた。


「ん? どうした水城?」

「どうしたって、先輩が読めって言ったから読んだのに……なのに……そんな真剣なあたしを差し置いて先輩寝ちゃってましたよね?」


 怒りで唇をわなわなとさせ、凄まじい剣幕で水城は俺の事を見下す。最後の最期で力尽きてしまっていたようだ。


「い、いや寝てないって! 確かに意識が途切れかけた気はするけどまだ何とか保ってたし!」

「いや、保ててなかったですよね? 完全にあたしが声掛けなきゃ先輩死んでましたよね? 眠っちゃってましたよね? あたしを置いて勝手に昇天しちゃってましたよね⁉」

「いや、勝手に殺すなよ⁉」


 寝るつもりも死ぬつもりも無かったのだが幾分寝不足の所為でいつの間にか眠り惚けていたようだ。


「わ、悪かったよ……ごめん」


 そんな自らの過ちに反省して俺は素直に謝罪を口にする。


「…………そんな簡単に謝らないで下さいよ。何だかあたしが悪いみたいじゃないですか」

「わ、悪い」

「ほらっ! また~」

「うっ、わっ、わるっ--って、危ねぇ」


 思わずもう一度謝りそうになってしまった。そんな俺の様子を見てか水城はクスリと微笑む。よかった。どうやら機嫌を直してくれたようだ。


「まぁ、いいですけど。それより読み終わりましたよ先輩の小説」

「おっ、まじ⁉ で、どうだった?」


 先程まで眠りかぶっていた奴とは思えないくらいに俺は餌をせがむ子犬の様に目を輝かせて水城に食いつく。

 その所為で水城が少し引いて見えるのはきっと気のせいだ。


「そ、そうですねぇ。まぁ、相変わらず物語の世界観はぶっ飛んでて、まだまだ構成も文章も粗削りですけど、前作よりもヒロインとのデートの時の情景描写や心理描写が書けていたような気がします」

「そ、そうか!」


 内心、滅茶苦茶嬉しいのに、照れの所為でそんな言葉しか返せない。


「まぁ、これもあたしとのデートの御蔭ですかね? なーんて思い上がるのも甚だしいですよね。これは先輩の努力の成果ですよ! 凄いです!」

「……」


 そんな水城は子供の成長を喜ぶような母性を感じさせる笑みを見せる。

 そんな水城の表情をみると、つい最近の事なのに、もうだいぶ昔の事の様に感じるあの楽しかった日々の事を思い出してしまう。


「……もう、図書室に来る事はないのか?」


 だから眠いのを我慢して学校で必死に考えた水城との仲直りプランを吹っ飛ばしてでも訊かずにはいられなかった。

 早く、あの頃の日常を取り戻したかったから。


「そうですね……もうないかもですかね……」

「……なんで?」


 ……なんで……そんな事、言うんだよ。

 今の俺はきっと今にも泣き出しそうな子供の様に顔をクシャクシャにさせていることだろう。


「それは……その……」


 言葉を詰まらせ、ばつが悪そうに水城は伏し目がちにそう答える。その言葉の続きはいくら待っても聞けそうにはなかった。

 ならば俺から聞くしかない。


「なぁ、水城……俺にはお前が必要なんだよ」

「へっ?」


 そして応えてもらうしかない。


「水城も言ってくれたように今作は前作より少しだけ描写が良くなったって俺もそう思う。でもまだ全然駄目なんだ。……足りないんだ」


 だけど、自分で言ってて分かる。


「だから水城にはもっと協力して欲しんだ」


 これじゃ駄目だと。


「それはあたしじゃなきゃ駄目な事なんですか?」

「……あぁ」


 これじゃ届かないと。


「……これ以上、あたしが先輩に協力できることなんてありませんよ」


 俺が伝えたかったのはこんな事だったのかと。


「……そうか」


 なんの為に散々悩んできたのだと。


「……先輩ならあたしなんか居なくても、もっと高みに行けますよ」

「……」


 これでほんとにいいのかと。


「じゃあ、先輩。あたし帰りますね」


 これで終わっていいのかと。


「お邪魔しました」


 ならば……。


「楽しかったんだ」


 ならば、恥を掻こう。


「……」


 俺の言葉を聞いてかドアノブに手を掛けた水城の動きがピタリと止まる。


「俺の高校二年間ってさ、ほんと糞みたいな学校生活でさ。唯々家と学校を往復する毎日で、何の起伏もなくてさ。学校って場所には特に何も期待もしてなかった」


 だから本音を伝えよう。


「だけど、水城と出会ってからは何でか、学校に行くのが楽しくて……さ」


 プライドを捨てて。


「だから、さ……だから……」


 無駄な言葉をそぎ落として。


 伝えたい言葉だけを。


「だから…………これからも一緒にいて、欲しい。……水城に」


 ただ、真っ直ぐに言葉を紡ごう。


「……俺にはお前が必要なんだ」


 手遅れになる、その前に。


「……」


 ……言ってしまった。ついに言ってしまったよ。無茶苦茶恥ずかしい事。

 …………………………………………。

 んんん~~~~~~ンンン。

 ……だぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ!!!!!!!!!!

 いやぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!

 殺してっ! いっそのこと誰か俺の事を殺してくれ~~~~~~~~~~。


 本音をぶちまけて、恥辱で死にそうになっている俺とは対象的に水城はドアノブに手を掛けたまま、石にされたように身体ともに微動だにしない。

 そんな水城の反応とを見ると、恥辱で沸騰していた全身が一気に冷たくなっていく。

 話し下手ながらも芯の部分ちゃんと伝えた。

 俺なりの最善は尽くした。

 けれども水城からの返答はない。

 ならばそういう事なのだろう。

 これで駄目って事はきっと……もう駄目なのだろう。

 手遅れだったのだろう。

 あまりしつこいのは好きではない。

 ならば。

 それならもういっそのこと……。


「そうか……悪いな時間取らせて……話はそれだけだ。だから、もう――」

「先輩は怒ってないんですか?」

「ん?」


 俺に背を向けたまま、水城は終わらせようとした俺の言葉を掻き消して今までの沈黙を破る。


「先輩は何も悪くないじゃないですか……悪いのは……全部あたしじゃないですか」

「……」

「勝手に暴走して勝手に避けて。なのに先輩は……あたしの事を怒らないんですか?」

「……別に、怒る理由なんか無いだろ?」


 だって俺は怒りたいわけじゃないんだ。


「……先輩は優しいんですね」

「……別に、俺は優しくなんか……」


 ただ、昔の様に……バカみたいに……水城と――


「だけど、あたしはっ……先輩のその優しさにあたしは甘える事は出来ないんです」


 元の関係に戻りたい……。


「きっとここで甘えてしまったらあたしはずっと先輩に甘えてしまうと思うから」


 ただ、それだけなのに……。


「それは……それだけはできないから……だから――」


 なんでそんな簡単なことが……。


「じゃあ、俺はどうしたらいいんだよっ!」


 もう。


 どうすればいいのか、分からない。


「どうすれば……なら、俺は……どうしたら……どうすればいいんだよ」

「……」


 行き場を失った嘆きが儚い声音となって心の悲痛さを訴え、同時に視界が歪む。


「クッ」


 やばい。

 これはほんとにやばいやつだ。

 視界の歪みが徐々に大きくなって、揺れて、波打ってきて、そして確実に溜まってゆく。

 もう、自分じゃどうにも制御しきれそうにない。

 後は落ちるだけだとなった滴は、遂に俺の目頭から離れ、一直線に真下へと落ちる。

 けれども俺の目から垂れた滴が床に軌跡を作る前に別の軌跡が先に出来る。


「…………ですよ」

「?」

「あたしだってどうしらいいかわかんないんですよっ!」


 踵を返して俺の方に向けられた彼女の顔は途切れなく涙が溢れていて、俺以上にボロボロだった。


「先輩と気まずくなっちゃって。どう先輩と関わっていけばいいか分からなくなって。だから先輩を避けるようになってしまって……」


 なんだ。


「そんな事してたら段々と先輩と疎遠になってしまって。そんな毎日が怖くて。陽が沈んで、また昇って来るだけなのに、毎日が、時間が進んでいくのが怖くて……怖くてっ……」


 そうだったのか。


「このまま何の関係もなくなってしまうんじゃないかって……。このまま何の繋がりも無くなって、赤の他人にもどっちゃうんじゃないかってっ……」


 俺だけじゃ。


「でも、どうしたらいいのか全然分からなくて……。次、失敗したらほんとに終わっちゃうんじゃないかって……そんな事考えたら、もう、足も言葉も竦んで余計に何もできなくなって」


 馬鹿みたいに悩んでたのは。


「いつの間にか一ヶ月以上も経ってて……。だけど今日また、先輩と話せて、あたし……あたし嬉しくて」


 同じ気持ちだったのか。


「だから……だから先輩。もしも、ですけど、もしも、こんな我儘で面倒くさくて、扱い辛い自分勝手な性格の悪いあたしですけど……それでも許されるのなら、先輩が許してくれるのなら……。もう一度だけ……もう少しだけ、先輩の傍に居てもいいですかっ?」


 水城の顔はもうグチャグチャで言い終えた途端に嗚咽を漏らす始末。

 だけど、その言葉は真っ直ぐ俺の胸に突き刺さって、全身を駆け巡って俺に元気をくれ、涙腺を崩壊させる。


「……やっぱり、無理ですよね。こんな面倒くさい女」

「あぁ、確かにそうだな」


 我儘で、面倒くさくて、扱い辛い。

 それが水城美波。


「あはは……やっぱりそうですよね。迷惑ですよね。あたしなんかが……烏滸(おこ)がましいですよね」


 俯き、今にも消え去りそうな、吹けば消えてしまいそうな蝋燭の火のように儚く、弱々しい言葉を口にする水城。

 床に打ち付けられた涙は次々に新たな軌跡を作り、雨のように止まる気配がまるでない。

 我儘で、面倒くさくて、扱い辛い。

 きっとそれだけならこんなにも拘りはしなかった。

 だけどそれだけじゃないから。

 水城美波はそんな簡単じゃないから。


「そんなこと、ないよ」

「えっ……」 

「優しいのも、人に気を使えるのも、臆病なのも、しつこいのも、アホなのも、正直なのも全部ひっくるめて水城美波だろ」


 良い所も、悪い所も、全部ひっくるめて、理解して、それでも俺が伝えたい言葉は変わらない。


「俺にはそんな面倒くさい水城美波が必要なんだよ」

「――っぱい」


 そんな俺は水城に負けないくらいグチャグチャな顔で答える。

 そのグチャグチャな顔で言った俺の言葉を聞いて水城は膝から崩れ落ちる。

 遠慮なんて無しに、泣きじゃくる水城に、俺も水城の前に膝をついて寄り添う。


「何、汚い顔して泣いてんだよ水城」

「そんな先輩だって、充分きったない顔してるじゃないですかっ……」


 互いの顔を見合って俺達はそう告げると、次にきったない笑顔を互いに見せ合う。


「また、よろしくな水城」

「こちらこそ……お願いしますっ!」


 互いに言葉を交わすと、俺と水城は再びグチャグチャのきったない笑顔を交わす。

 傍から見れば気色悪い奇妙な光景にしか見えないだろうが、俺からすれば止まっていた時計の秒針が再び音を奏でて動き出した。

 そんな瞬間だった。



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