7.一匹の虫の名は、『罪』だった。
八年前の過去を僕は、一度も忘れたことがない。その記憶は、出口のない真っ暗な部屋の中で、無感情で佇んでいる。
その日は、世界が溶けて歪んでしまうんじゃないかと思うくらい暑い八月四日。僕は、海を見下ろせる高台の公園でベンチに腰かけ、一人の少女を待っていた。
彼女との関係は……なんといえばいいのだろう。友人というのも、恋人というのもなんだか違う気がしていた。
真夏の世界に蝉たちの喧騒が欠かせない、なんていうごく当たり前のことで、誰もが納得のいく関係だった。だけど、僕と少女の関係が、誰かに知られていたという訳ではない。ここでいう、誰もが納得のいくというのは、僕と少女、二人だけだ。
それに彼女との出会いも必然的だったんではないかと思う。
夏休み初日の午前中、せっかくの一日を室内で過ごしてしまうのは、なんだか夏に申し訳ない気持ちになって、突発的に外へ飛び出した。
そして、海が見下ろせる公園へとたどり着き、彼女――<佐波 ゆき>に出会った。
大きくて丸い瞳にガラス細工のように繊細な長い黒髪。彼女の双眸を見たとき、汚れのない海を見ているように可能性で満ち溢れていた。
そんな彼女が、一人でベンチに腰かけているのを見て、声をかけてしまったんだ。
「ねぇ、君は、一人?」
「うん。 でも、君が来たから一人じゃない」
ゆきは、「にひひ」と無垢な声で笑った。
これが、僕とゆきとの物語の一ページ目。僕とゆきは、どこか似ていたのだと思う。表面上は、全く違うように見えて、内面ではとても似ていた。
牛乳を温めたときにできる膜が嫌いだったりとか、猫のお腹のもふもふの毛並みが大好きだったりとか、真夏のヒグラシが連れてくる切なさが好きだったりとか。
だから、自然と二人が、この公園で会うことは多くなり、その度に、互いの感情も変わっていった。
そして、八月四日を迎えることになる。
午前中に出されていた課題を少しだけやり、お昼を食べ終えた午後一時過ぎ。僕は、いつも通りの公園へ足を運んでいた。
でも、その日は、なんだか冒険をしてみたい気分だった。夏の無責任に心を高揚させる空気感が原因なのか知らないけど、少しだけ冒険がしたかった。
別に、見えない空想上の悪と戦うために廃墟を練り歩きたいだとかではない。ただ、いつもは、右に曲がる道を左に曲がったらどうなるんだろう、という少年の小さな好奇心だ。
T字路とそこにある二首のカーブミラーと対面した。
右に曲がれば、いつも通りの道と風景が、公園へと続いている。
だけど、左に曲がれば、何か新しいものが見つかるかもしれない。
僕の好奇心は、決断よりも先に、足を左へと向けていて、ずんずんと先を進んでいた。
高級そうな車や見たことのない猫、焼き魚を焼く匂いや赤ちゃんの泣き声――右に進んでいた時には、見ることのできなかった風景が、たまらなく面白かった。
でも、それが、いけなかった。
もし、僕の心が荒んでいて、友情なんてものを安く見るような人間だったならば、一つの言い訳を思いつく。
――僕が生まれたこの街が悪い。
中学生だろうか、僕のすぐ先に数人の青年たちが、何かを取り巻くようにして集まっているのが見え、そこからは少しのざわめきも聞こえてくる。
僕は、横を通り過ぎるときに少しだけ歩くスピードを落とし耳を澄ませた。
これも、好奇心だ。僕の好奇心は、どうしようもなく無責任で、夏のせいだなんて屁理屈は通せない。
青年たちから聞こえた声は、一匹の虫の名前だった。
「なぁ、このカブトムシすごくね! 森で採ってきたんだよ!」
カブトムシ。夏の代名詞といっても過言ではないその虫に、僕の興味は持っていかれた。
海沿いの街は、その名の通り、海沿いになる街だ。内陸とは、高い山と分けられていて、それぞれを繋いでいるのは一時間に一本程度の電車のみ。
海が近い、この街に住む僕が、カブトムシを見たことはなかった。小学生の少年にとって、カブトムシがどれだけかっこよく映っていたのか考えてみてほしい。
少なくとも、過去の僕は、憧れのヒーローを見る時と同じ感情を抱いていた。
――僕も、カブトムシが捕まえてみたい。
心を埋め尽くしたそれは、すぐに行動へと変換された。
このあたりでカブトムシを捕まえることが出来るのは、内陸と海沿いの街を分けている山だ。
そうだ、今日は、ゆきとカブトムシを採りに行こう。きっと、あの子ならついてきてくれるはずだ。
女の子にとってのカブトムシは、虫と一括りにした気持ちの悪い生き物でしかない。
だけど、僕には、ゆきが嫌な顔せずについてきてくれるとわかっていた。
彼女は、僕の言葉を笑顔で肯定し、後ろをトコトコと歩いている。僕の歩くスピードが、彼女より早くても、彼女は、一生懸命についてきてくれていた。
それなのに、僕は、感情だけで突き進み、後ろを続く彼女のことなど考えず、道を荒らしていた。
少しでも振り返っていれば、そして、立ち止まっていれば――魔女なんかを頼ることなかったのに。
そうして、ゆきが待つ、公園へとたどり着き、僕は言った。
「ゆき、カブトムシ捕まえに行こうよ」
「カブトムシ……ソウタが欲しいなら私も行く」
やっぱり彼女は、笑顔だった。
山へとたどり着くまで、僕とゆきはどんな会話をしていたのだろう。
今日食べたお昼の話だったような気もするし、世界にいるカブトムシの種類だったかもしれない。それとも、そのどちらも話したのかもしれない。
思い出せなかった。
僕が、彼女に別れを告げられた日の出来事を鮮明に思い出すことが出来ても、他愛の会話までは思い出せない。
それが怖かった。このまま、風化する金属みたいにゆっくりと記憶が消えていくと思うと助けを求めたかった。
忘れるというのは一瞬で、人生みたいだ。
死んでしまったら、それが、最後。生き返ることはない。
しかし、ゆきが言ったひとことだけ覚えている。あれは、山の中に入る前に言った言葉だ。
「明日は、私、ソウタとお勉強したいな」
その時、僕は、なんて答えたのだろう。
これが、ゆきとの最後の会話だった。いつもなら、午後五時のチャイムが街中に響いたとき、「また、明日」と別れていたはずなのに――八月四日の午後五時は、嗚咽交じりの僕の泣き声だけが響いていた。
山の中に入った後、カブトムシを捕まえることだけに視線が向いていて、ゆきのことなど考えてもいなかった。
きっと、後ろを振り返れば、「ついてきているよ」と言っているような笑顔を向けてくれる……そう思っていた。
でも、僕が、振り返った時、ゆきは、そこに居なくて――一週間後の午前七時、僕らが入った山の小さな崖下で、右足が折れたゆきの死体が発見された。
ゆきは、僕の誘いに笑顔で頷いただけなのに、辿り着いた場所は、<死>という真っ暗な場所だった。
僕が、死ぬことで、ゆきを暗闇から助けることが出来るなら、そこには、僕が行くべきだ。でも、そんなことは出来ない。だから、ゆきを含め誰も、そこに行くべきではない。
「佐波さんのところのゆきちゃんが無くなったのは、事故だ」
ゆきの死体が見つかった日の夕方、父親が僕に言った。
「うん」
僕とゆきの関係を知る大人は誰もいなかった。きっと、たまたま森に入った不幸な少年少女くらいだと思う。だけど、泣きじゃくる僕を見て父は、分かったのだと思う。
僕とゆきの不思議な関係と二人だけがわかる暗黙の感情――
この日を境に、僕は、夕暮れが大嫌いになった。もっと言えば、八月四日の蝉時雨が、切なさを運んでくるヒグラシの声に変わる夕暮れ時が大嫌いになった。
魔女の未完成タイムマシーンを使わなくては、僕が、夕暮れを好きなることは出来ないのだ。
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