第8話

「箱の中」はデビュー作にしてかなりの評判となった。無名だった椎日の名前が、書店に行けば必ず見かけるようになったしそれが店頭に置かれていることもあった。それに伴って、椎日を取り巻く環境も急激に変化した。家には毎日のように人が訪れた。あるときには新聞や雑誌の記者が、あるときには椎日に恋をしているかのような熱狂的な読者が、またある時には椎日を師と仰ぐ小説家の卵が。もとより、人と関わることを拒んではいなかったから自然と椎日の周りには人が集まる様になった。椎日は人間が嫌いではなかっただろうし、周りに影響を受けるようなやつではなかったから椎日自身に対して変化は見られなかった。けれど椎日を慕う人間が出来たことに関してだけは別であった。椎日は、人間の「好意」というものが何時如何なる時も簡単に「狂気」へと変わることを知っていたし、またそれを他の人以上に恐怖に感じてその可能性の高さを危惧していたのだ。椎日にとって、無遠慮な他人からの好意や愛情は、恐怖と苦痛を伴うものであった。その思いが強ければ強いほど、その好意は椎日に深く突き刺さるのだ。椎日が実際に俺に対してそういった愚痴のようなものを吐いたことはなかったが、もとより猜疑心の塊のような椎日が、自分に向けられる興味の目を素直に喜んでいるとは思えなかった。


一作目が発売されてから一か月かしたころ、椎日は急に俺の部屋にやってくるやいなや、「出かける。」と言った。今までも椎日が何処かへ行くことは頻繁にあったし、それを俺が引き留めることもなければ椎日が数日どこぞに出かけていなかろうが気にしたこともなかった。ましてやこのように椎日の方から声をかけてどこかへ行くなど言ってから家を出るとは思ったこもなかったのだ。驚きで椎日を見たまま黙り込む俺に、椎日は口をきゅっと唇を絞めて目を伏せた。その顔を見て、ああ、限界か。と漠然と俺は感じた。簡単に言えば、周囲の目から逃れたかったのだろう。けれどそれならそれでいつも通りに何も言わず出掛ければいいものを何故俺に、と考えたところで俺は口を開いた。


「俺も行くのか。」


その言葉に椎日は絞めた唇を緩めて、小さく頷いた。それじゃあ、わからんだろう。と言いそうになるのをこらえて俺はそそくさと出掛ける準備を始めた。その間、何処へ行くのかとも、どれくらい行くのかとも俺は聞かなかった。椎日が俺と一緒に行くことを選んだのだ。それがどこであろうと、何日だろうと、俺にはどうでもいいことであった。




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箱の中 浅治 ユウ @____um_04

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