第7話

 俺はこの「箱の中」を、発売前日に椎日から手渡された。そうして椎日は「読んだら、」と言いかけて口を閉じてしまった。俺は「読んだら感想を言おうか。」と椎日が続けたかったであろう言葉を椎日に言った。そうすると椎日は小さく頷いて、背を向けて立ち去った。


 次の日、俺は約束通りに椎日の部屋を本を持って訪れた。椎日は俺の様子に、理解したと言わんばかりに自分の座布団の前に一枚の紫をした座布団をひいて、俺をそこへと促した。椎日の部屋、といってもこの頃には俺と椎日は同居していたし細い廊下を少しばかり歩いて障子を開ければ墨と紙の匂いがこびりついた椎日の部屋へといけた。小説家の部屋といえばいかにもな、すこし本に溢れた荒れた部屋が想像できるが、どうも椎日はそうではなかった。こじんまりとした机の上に少量の紙と必要な分の墨と筆。机の横に数冊、向きまでそろえて重ねられた本と、その横には様々な形の手紙が本と同じ高さになるくらいの量で重ねられていた。それ以外のものと言えば、押し入れに入れられた布団と、畳まれた服。それだけだった。


 俺が座布団に座っても椎日は依然として黙ったままであった。俺も、同じであった。いくらか時間が過ぎて、漸く椎日が口を開いた。


「君は、どう思った。」


 椎日はそういって俯いた。相も変わらず振れ幅の広い質問に俺は少し黙り込んだ。どう思うとは、小説に関してか、けれど俺の中ではあの青年の言葉についてとも取れた。少なくとも、良いか悪いかを聞いているのではないとわかった。椎日は決して意地の悪い問いかけはしなかっったし、俺も椎日も同じであるはずのない他人の価値観を態々問いただすことに意味を感じてはいなかった。そうなれば、俺の答えは一つしかない、おもったことを言うまでだった。


「箱の中は、居心地が良い。青年は、それに気付いてしまったのだな。」


 俺のその答えに、椎日はすっと顔を上げて俺の顔をみた。そうして、「ああ」と呟いた。やはり、青年は椎日であったのだと思った。何を意味するのかはわからないが、俺が猫であったなら、あの青年にそう答えただろう。自分の居場所があるというのは居心地が良い。けれどその居心地の良さに気づいてしまえば、ひどく微温湯につかっているのだと感じてしまうだろう。学生という時代を終えてみれば、優しい社会の中だけで生きていたのだと感じるのだ。それが羨ましくもあるけれど、どうにも今の自分では入りきれない。箱の中にはもう戻れないと知るのだ。青年はきっと、学生ながらにして、入れなくなってしまったのだ。当事者であるのに、当事者にはなりきれなくなってしまったのだ。深くは知らない、けれど椎日の学生時代が、椎日にとって微温湯に浸りきれない、どうにもアンバランスなものであったのだろうと俺はこの時思ったのだ。それを椎日は、学校を知らない。と。そう言葉にして見せたのだ。


「思春期に溺れて、子供の儘でいるのだ。」


 黙り込んだ俺に、椎日はそういって、「やるせない。」と呟いた。今度は俺が俯いて椎日を直視できずに、紫色の座布団を見た。濃い紫が、今の俺達だと思った。


青春なんぞという不確かなものが、俺たちを繋ぎとめてくれたのだろうか。


椎日も、きっとそこらの餓鬼だった俺と同じように何度も背伸びを繰り返して、子供の儘では駄目だともがいたのだ。あの頃、俺より遥かに大人に見えた高校生の椎日がふいに愛おしく思えた。



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