第4話

俺は小さな声で、「どうも。」と会釈えしゃくをした。普段から友人がいないわけではなかったし、かといって人から羨望せんぼうの眼差しを向けられるほどのカリスマ性も持ち合わせていなかった俺が対人でできるコミュニケーションとやらを精一杯やった結果だった。椎日はそれに対して何の反応も示さなかったが、しばらく黙り込んだ後、口を開いて「こんにちは。」といった。ように聞こえた、といった方が正確かもしれないほどの細く小さな声で。対人でのやりとりにおいて、俺は相手の表情や声色からこちらが緊張するべきほどの人間かどうか見分ける節があった。単純に言えば、俺よりも堂々と話されれば少し怖気づいてしまうが、こちらよりも相手に余裕が見受けられない場合には少し強気になるということだ。浅はかな、と少し笑えてしまうほどではあったが椎日に対して、俺はどちらも判断ができずにいた、というよりも判断の土俵にすら上がってきてくれなかったのだ、椎日は。こんにちは、の一言で椎日から伝わったのは大きく一言で引かれてしまったであろう境界線と、人に対する極端なまでの不信感であった。だがそれでいて俺は不快ではなかった。むしろ其れほどに偏った椎日の壁の大きさに俺が大きな安心感を覚えるまでであった。少し目線を落とした椎日を俺はじっとみつめて「あれから、清水寺にはいきましたか。」と聞いた。ばかげた質問だと、矢張り今では笑ってしまうのだがあの頃の俺と椎日の共通の話題などさして興味もない清水寺しかなかった。椎日は一言、ああ、と呟いてから「行っていません。」と返した。俺は心持、恋だなあ、と情けなく思ったのを覚えている。之ほどまでに恋だなんだと言っているが、俺は決して同性愛者ではないし、だからといって其れに対して否定的な考えも持ち合わせていないことだけは断っておく。この頃は、今でもそうだが、俺の椎日に対しての気持ちを表すには「恋」というのが一番適しているように思えた。とかく、俺は椎日のたった一言の返事に対しても飛び上がりそうなほど喜びがあったし、それを自分で自覚するほどには客観性もあった。

其れからも他愛もない、というよりも脈絡のない会話をしたのだが、一つ、椎日から問われたことがあった。


「君は、自分を心底嫌いになったことはあるか。」


椎日はそういって唇をきゅっと結んだ。あのころはこの問いの本当の意味も、椎日の考えていることもわからなかったが矢張り椎日は恐ろしいと、漠然とした不安だけを感じた。ただどう扱ったものか、と手をこまねいていた俺には椎日が少しだけ心を開いてくれたように感じて、それすらも恐ろしいの一部であったのかもしれないが、少しうれしく思った。それと同時に俺は初めて人の問いかけに対して中途半端な俺を差し出すということができなくなった。今思えば俺は椎日と懇意こんいになる以前から、つまりこの時から椎日に対しては俺という人間を差し出すことに抵抗がなかったのだ、むしろそうしなければいけないとすら思っていたのだ。それを苦とも思わなければ、俺は今まで以上の積極性を持って俺を椎日の前に並べて見せたのだ。


「それ程の勇気はない。」


「勇気か。」


「ああ。俺が自分の愛する人を幾ら傷付けようとも、救いようのない不良品だったとしても、俺は、自分を嫌いになれる程の勇気をそもそも持ち合わせていない。」


「その勇気があれば、どうする。」


「死ぬ。自分を嫌いになる勇気は、自分を殺す勇気にもなる。」


俺がそう言い切って椎日を見上げた時の椎日の顔はなんとも、なんとも形容しがたかった。俺の言葉に真剣でありながら俺に対しては不誠実に振る舞うようであった。

そしてなにより、自分を殺すのに躍起やっきになっているようの思えた。ああ、こいつは今から死ぬ気であったのか、とふいに思った。悲しいともつらいとも思わずに俺は事実としてそれを感じたのだ。黙り込む俺と椎日の間に先ほどの女学生が数人、続けて横切った。その中の一人が俺と椎日を見て、くすっと笑った。不思議と俺は何も思わなかった。その時の俺は椎日のそれであったから女学生の下世話な笑い方を下等だと卑しむことも、腹を立てることもなかった。そこから俺と椎日は終点である京都駅まで、矢張り静かであった。



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