第3話

清水寺で出会った後、俺は椎日と二度と会うことがないと思い込んでいたし、勿論もちろん会う予定などもなかった。ただ、普通の、並みの、つまらなくもなく面白くもない高校に通いながら俺は椎日に恋い焦がれた。だがその思いも、椎日に出会った後、一か月も続かなかった。一か月も経てば自分の生活のサイクルに椎日は入ることができなくなっていた。俺は俺の車輪を作って進み始めていたし俺の中の椎日はその車輪にはじかれていまだに清水寺に取り残されていた。


俺がふと、そんな椎日を車輪に組み込んだのは本を読んだからであった。主人公は俺より少し年上の大学生の男で、死神にりつかれていた。たしか洋書を翻訳したもので俺はたまたま手に取った。これといって惹かれるものもなく眺めるために買ったような本だった。ただ一言、あえて惹かれたとするのならば主人公が発した、冒頭の一文だった。「牛乳が腐ったから、僕はもうすぐ死ぬのだと思った。」という言葉だった。理解はできなかったが頭からこびりついて離れなかった。と同時に俺が椎日のことを置いてきたはずの清水寺から引っ張ってくるきっかけになった。そうして俺は日に日に椎日に恋をするかの如く、事実あまりにも恋心に似た狂おしさを持っていたのだが、椎日のことを思い続けた。ただその思いを持ちつつも椎日の存在に対する衝動は実際の行動として俺のサイクルの中には組み込まれなかった。思いだけが募り続けた。清水寺で椎日と出会ってからすでに一か月と少しが終わっていた。そんな思いがどこかの神様、俺はそういった類のものは全く信じないようなませた餓鬼であったが、伝わったかのように天から椎日はふってきた。


俺の通う府立の高校から桂川かつらがわを渡るように歩いて15分程度、最寄り駅である千代川駅ちよかわえきにつく。千代川駅は山陰本線さんいんほんせんの一部で俺の家がある円町えんまち駅までは30分、電車に揺られなければいけない。遠い、と思うかもしれないが俺はこの登下校が苦ではなかったし、むしろ好きだった。俺が利用するのは園部そのべ駅から京都間を走る嵯峨野線さがのせんと呼ばれる区間だけだが、山陰本線の本当の姿はこれだけじゃない。俺の住む京都駅から始まる山陰本線は本州、西の端っこ、山口県の下関しものせき市まで伸びている。彼の有名な志賀直哉しがなおやの小説、「城崎きのせきにて」の城崎温泉へも行けてしまうのだ。俺は山陰本線に初めて乗ったとき、何処に行ってしまうのかという不安と何処かへ行ってしまえるという開放感がない交ぜになっていた。結局のところは嵯峨野線の最後、園部駅にすら行かずに学校の最寄り駅で降りる結果になったのだが。京都市内から抜け出したことのなかった中学終わりの俺は、それでも自分でどこか遠くへ行ける手段の一つとして、大きな自立への、大人への一歩のような気がして山陰本線がとても大きな存在であった。入りがそれだけの高揚感こうようかんを伴ったのだからそれ以降の山陰本線への愛情は変わることはなかった。


その日、俺は下校途中の電車の中で、例の本を読んでいるうちに眠りこけていた。最寄り駅である円町駅に着いたときに目を覚ましたのだが間に合わなかった。結局俺は、一駅だけ寝すごす羽目になり次の二条駅で降りることにした。二条駅について自動ドアが開閉した処で、俺は降りようと席を立ちあがった。何の気なしに目線を向けたドアで俺の細胞は今まで何をしてたのか、と思うほどに自分たちを主張し始め一点に向かって開いて見せた。


そこに居たのは矢張り、椎日であった。


椎日は俺を覚えていた。いや実際には覚えておらず、あまりにも俺が椎日を見詰めるものだから不審に思ったのかもしれない。ただ椎日は俺を見て、ゆっくりと此方へ近づいてきた。俺と椎日は矢張り静かであった。小さな液晶から目を離さずに自分の世界を作り上げる車内で、ドアの付近だけが人の出入りによって騒がしかった。俺は勿論、既にその駅で降りることなど考えていなかった。ドアが閉まると二条駅から乗り込んだ女学生の集団がまるでこの車内には自分達以外いないかのように下世話な話を大きな口をあけてしはじめた。相反するように、俺と椎日は依然として静かであった。電車はゆっくりと二条駅を離れ、南へ南へと、京都駅へ向かって進み始めていた。俺は椎日に対して、以前と変わらずある種の恐れというものを抱いていたし、常以上に臆病であったことも自覚していたので椎日を前にして口を開くこともできなかった。椎日はというとこちらの様子を窺うように、それは少しの懐疑的かいぎな意味を含んでいるような、そんな目で俺を見ていた。今思えば椎日はこの頃から人のことを信用していなかったし、特に人の好意というものには非常に強い猜疑心さいぎしんを持っていたように思う。事実、俺は初めて会ったとき、椎日に大きな壁を作られていた。それでいてその壁を不快に思わせないのが椎日であった。加えて、其の頃の俺は17歳特有の、誰かの特別になりたいなどと云うあのいやしい感情もなければ、自分だけ、なんていう言葉に優越感ゆうえつかんを覚えるような子供でもなかった。だから椎日の壁に対して俺だけには心を開いてもらいたいという浅はかな自己満足を満たす気にもならなかった。椎日にも俺のその心持が伝わったのかは知れないが椎日は俺から目をそらさなかった。結局、あまりの無言に耐えかねたのは俺の方だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る