第5話

 今、俺と椎日は20の頃もはてしなく過ぎて30に近づきつつある。俺が椎日と出会ってから既に10年目を迎えていた。あの時、死を思わせた椎日は未だ生きている。生きて、俺の隣にいる。死ぬように感じたのは俺の取り越し苦労だったかのように、俺は京都駅で別れた椎日と再び出会い、そうして縁あり、今では同じ家に住むまでの関係になっていた。とはいえ、察しの通り恋愛的な関係ではない。お互いが高校を卒業し、俺は当たり障りのない、平々凡々とした大学へと進んだ。椎日は、何も教えてはくれないが、大学ヘは行かなかった。どうやら、高校を卒業して、家を出たようであったから、そのまま一人暮らしを始めた俺の家に半ば強制的に住まわせた。


椎日のことについて、10年間で知り得たものは少なかった。少ない、と言うよりも、全くと言っていいほどであった。事実、俺は未だに椎日の本名すら知らないのだ。とは言え、椎日について、高校を卒業してからのことは俺が誰よりも詳しいのだからそれで十分に思えた。学生時代のことを俺は椎日に問うたことは無いが、20を過ぎた頃、その頃には既に椎日は小説を書き出していたのだが、その椎日が自分の高校時代のことについて触れたことがあった。


「学校はどうだった。」


唐突に、俺は椎日にそう聞かれた。


「学校?高校のことか?」


 余りにも脈絡のない質問に俺は椎日の意図が理解できず、いやいつも大して理解できてはいないのだが、特にこの質問に対しては全く読み取れずに咄嗟に問い返した。椎日は俺の問いかけに、そうか、と呟いてまた黙り込んだ。その時の椎日は何かに悩んでいるようにも見えたが、少なくともその悩みがマイナスの方向へ向かうような類のものではないことも見て取れた。つまり椎日の純粋な好奇心からくるものだと思えた。


「そう、君の、府立のだ。」


 椎日は俯いて考えたまま、そうつぶやいた。依然、質問の意図を掴みそこなったままの俺は仕方なしにそのままを答えることにした。


「普通だ。面白い仲間に、面倒な授業に、加えて定期的にやってくる有難迷惑な試験に。全部が混ざり込んでどちらかに傾くこともなく真ん中だ。行きたい訳でもなければ行きたくないわけでもない。あれほど俺の中で中立な場所はそうそうないだろうな。」


 そう言った俺に、椎日はとても不思議そうな顔をした。その顔を見て、間違ったか、と俺が少し後悔するほどにその顔は困っていた。だが俺には間違った言い訳はなかったし椎日の質問の意図が分からなかったからだと自分を納得させる気もなかった。加えて、椎日のその表情は時間がたつにつれて俺の答えに対する困惑や疑問ではないことが分かった。というより椎日が俺の答え一つごときで表情を変えることも滅多にないのだから、つまりは椎日の中で依然としてぼやけた何か黒いものがつっかえているのだろう。


「学校は、四角い。」


 そんな俺を他所に椎日は一言、そうつぶやいた。俺に言ったつもりではないだろう声であったから俺はそれについて何も反応を返さなかった。漠然と小説家とはこういうものか、と納得したりもした。今思えば、小説家は、というよりか、椎日は、という方が正しいが。四角いというのは物の形としてか、はたして心持のありようとしてか、俺には判断しかねるところだったがあえて問い返すこともしなかった。ただそう言った椎日の言葉一つに、わからないなりに俺は椎日の高校生活を見た気がしたがきっと窮屈だったのだろうと、一度ほどしか見た事のない椎日の通っていた高校の姿を思い出してから推測の域を超えることのない考えを俺はそうそうに放棄した。俺の一般的な考えが椎日に通用したことは今までで一度もないのだ。只管に俺はこの可笑しく愛しい小説家の目の前で黙り込むだけであった。




 それから暫く経って、その出来事から一番新しい小説が販売された。その小説は俺にはよくわからないがどうやら何か賞をとったようで、それが椎日のデビュー作となった。椎日は若干20過ぎにして周囲から注目を浴び、「先生」と呼ばれる人間になったのだ。






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