第34話


 キスをされた――と、思った。

 けれど、唇が触れる寸前で私の唇は奏多の右手で覆われていた。

 ……新からは、見えない角度で。


「っ……!!」

「シッ……」


 慌てる私にウインクすると……奏多は新の方を向いた。


「これがお前の望みだろ?叶えてやるよ。その代わり……」


 そう言うともう一度私に顔を近づける。

 思わずぎゅっと目を瞑った私に……奏多が小さく笑った気がした。

 ――その瞬間、何かがぶつかったような鈍い音がすぐそばで聞こえた。


「えっ……!?」

「っ……!」

「旭から、離れろ!」


 目を開けるとそこには……頬を押さえて座り込む奏多と、見たこともない表情で怒鳴る新の姿があった。


「なん、だよ……お前が望んだんだろ?」

「違う!俺は……俺は……」

「違わねえよ!お前が旭から逃げるってことは!誰かに旭を奪われて、誰かに旭が笑いかけてもいいってそういうことなんだよ!」

「俺……俺は……」

「そんなことっ……!お前も!それに旭だって望んじゃいないだろ……!」


 奏多は立ち上がると、呆然と立ち尽くす新を見つめた。


「それに、そんな覚悟するぐらいなら……旭に本当の意味で向き合う覚悟をしろよ」

「本当の、意味で……」

「お前は出来てないかもしれないけどな、旭はとっくにその覚悟、出来てんだよ!」


 奏多は吐き捨てるように言うと、公園の出口へと向かって歩き出した。


「奏多……!」


 そんな奏多を、思わず呼び止めてしまった。

 振り返りながら私を見ると、奏多は殴られた頬を押さえながら歪んだ笑顔を私に向けた。


「もう大丈夫だと思うから、俺は帰るよ」

「あり、がとう……」

「……そいつ、さ。バカだし意気地なしだしなんでも自分で抱え込んじゃう困った奴だけど……いい奴だから。俺の親友のこと、よろしくね」


 そう言って手を振ると、こちらを振り向くことなく奏多は去って行った。

 公園に残されたのは――私たち、二人だけ。


「…………」

「旭、俺……」


 何か言おうとする新の手を、私はもう一度握りしめた。


「新……私は、新が好きだよ」

「旭……」

「それだけじゃ、ダメ?好きだからそばにいたい。それじゃあダメなの?」

「……さっきの話、聞いただろ」


 苦しそうに、新は言う。


「あいつの言う通り、俺は病気なんだ。それも……あと何年もつか分からない。そんな奴と一緒にいたって……」

「それでも!私は新と一緒にいたい!」

「旭……」

「辛くて、苦しい日が来るのかもしれない。悲しい思いをする時が来るかもしれない。でも!それでも!……私は新と一緒にいたいの」


 泣きたくなんかないのに、涙が溢れてくる。

 きちんと話をしたいのに、声がどんどん掠れる。


「新が苦しい思いをしていることを知らずに、新のいない生活をして笑ってる……そんなの、全然幸せじゃないよ!」

「…………」

「そばにいさせてほしい!新のそばで、楽しかった思い出や嬉しかった思い出を作りたい!些細なことで喧嘩して仲直りして、また笑い合いたい!……何度も――何度でも、新に、大好きだよって伝えたい……」

「旭…………ごめん」

「っ……!」


 謝る新の言葉に……これでも想いが届かないのかと、それほどまでに頑なに拒絶するのかと悲しのか悔しいのか分からない感情が溢れ出てくる。


(これでもダメなら……どうしたら……)


 そう思った瞬間……私の身体は、優しい温もりに包まれていた。


「あら……た?」

「ごめん、ホントにごめん!俺……俺……!!」

「新……」


 小刻みに震える新の身体……。私は、背中に手を回すと……新をそっと抱きしめた。


「旭……」

「大丈夫だよ。私は、何があっても、新のそばにいるよ。新の隣で笑ってるから……だから、一緒にいさせて……?」


 うん――と頷く新の頬から流れる涙が、私の肩を濡らしていた。



 ――どれぐらいの時間、そうしていたのだろう。

 身体をそっと離す新の目は、少し赤くなっていた。


「ごめん……」

「大丈夫?」

「……俺、逃げてたんだ」

「…………」

「旭の為、なんて言って……ホントは俺が、病気のことを旭に打ち明けるのが怖かったんだと思う。


 ポツリ、ポツリと……新は絞り出すように話し出した。


「病気が分かってから母さんがずっと泣いてるのを知ってた。だから旭のことも泣かせたくなかった。それも本当だよ。……でも」

「でも……?」

「本当はきっと、ちっぽけなプライドだったんだ。……笑わない?」

「笑わないよ」

「……旭に病人扱いされたくなかったんだと思う。可哀そうな奴って思われたくなかった。同情の目で、見られたくなかった」

「新……」


 新が痛いぐらい固く自分自身の手を握りしめるから……その手に、そっと私の手を重ねる。

 そんな私の温もりに、新は力なく笑った。


「腫れ物みたいに扱われたくない。旭とは笑い合って、病気のことも何にも気にせず俺自身としてそばにいたかったんだ」

「可哀そう、なんて思わない」

「旭……?」

「でも、心配はさせてほしい」

「っ……」


 新の心に届いてほしい。

 どれほどまでに私が新を想っているのか。

 どんなに新が、必要なのか……。


「例えば新だって、私が風邪ひいて寝込んだら心配するでしょ?足を骨折したら走っちゃダメだよって言うでしょ?それと一緒だよ」

「…………」

「新の隣で笑ったり、喧嘩したり、心臓のことだけじゃなく風邪を引いたら心配したり、転んだら手を差し出したり……そうやって新の一番近くで、新と一緒にいたい」

「旭……」


 新の固く握りしめた手を解くと……私は、自分の手を絡ませた。


「こうやって……手を繋いで、一緒に歩いて行きたいの」

「……死ぬかも、しれないよ」

「先のことなんて誰にも分からないじゃない」

「…………」

「例えば明日交通事故にあうかもしれない。例えば、急病で死ぬかもしれない。例えば……バスジャックに巻き込まれるかもしれない」

「ふっ……バスジャックって……」


 突拍子のない例えに、思わずといった様子で新は笑う。


「でも、そんなこと言ってたらなんにもならないよ!私は……私が一緒にいたい人といたい!新と!一緒にいたい!!」

「旭……」

「新が一緒にいたいのは誰?」

「……旭」

「新がそばにいてほしいのは……?」

「全部……全部、旭だよ!」


 そう言うと……新はもう一度、私の身体を、強く強く抱きしめた。


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