第29話


 目の前の光景が信じられなくて、身動きが取れない。


「え……?」


 ――理解が追い付かない。

 だって、今ここで新は笑っていたのに。


「あっ……んっ……はっ……」

「あら、た……?」


 席を立った私の目に映ったのは……胸を押さえて蹲る、新の姿だった。


「新!?新!?」

「お客様!?大丈夫ですか!?」

「だ、いじょ……っ」

「きゅ、救急車呼びますね!?」

「待、って……!」


 手を伸ばした新は私の肩を掴むと、苦しそうに顔を歪めた。


「新……!?」

「薬……鞄……」

「あっ……!」


(あの時の、薬……!!)


 慌てて新の鞄の中を漁ると、小さな袋に入った錠剤があった。


「これ……?」

「あ、り……がと……」


 受け取った薬を、新は必死に口の中に押し込んだ。



 …

 ……

 ………



 ……どれぐらいの時間が経っただろう。

 ほんの数分かもしれないし、数十分は経ったような気もする。

 どうしていいか分からず、薬の入っていた袋を握りしめていた私の手に、新が触れた。


「ご、めん……もう、大丈夫」

「新……!!!」

「すみません、ご迷惑おかけしました……」

「大丈夫ですか……?本当に救急車を呼ばなくても……?」

「だいじょ、ぶ……です。……いつもの、ことなので」


 そう言う新の顔は血の気が引いたように真っ白で……なのに言葉だけは淡々と冷静だった。




 私の手を握りしめて、新はカフェを出る。

 そして少し歩いたところにあったベンチに座ると、新は額の脂汗を拭った。


「あら……た……」

「……びっくりさせて、ゴメンね」

「わた、し……新が……死んじゃうんじゃないかって……」

「バカだな……大丈夫、ほら生きてるでしょ?」


 そう言って新は笑うけど……私は、笑う事なんて出来なかった。

 それどころか、全身の震えが止まらない。


 目の前で、新が死にそうになっていた。

 新の命が、消えようとしていた。


 なのに私は、


 それなのに私には、


 何も……何も、出来なかった。


「旭」

「っ……な、何……!?」

「ごめん、今日は……もう帰るね」

「あ……うん、その方がいいよ……」

「なんかごめんね……こんな感じになっちゃって……」

「私こそ……ごめんね……」


 思わず、言ってしまった私に……新は自嘲気味に笑った。


「なんで旭が謝るの。……ダメなのは、俺の方なんだから」


 そう言った新の顔があまりにも辛そうで……私は、何も言う事が出来なかった。



 ◇◇◇



「あら、た……」


 あの後、どうやって家まで帰ってきたのか覚えていない。

 ただ気が付くと私は、“現実”へと戻ってきていた。


「まだ……夜中……?」


 月明かりで照らされた部屋で目に入ったのは、机の上に置いたままにしていた日記帳だった。


「……そうだ!日記……!」


 私と別れた後、新がどうしたのか知りたかった。

 大丈夫だったんだろうか、元気になったんだろうか……。



◆―◆―◆


 4月29日


 今日は旭の誕生日だったらしい。

 朝、深雪と奏多がお祝いしているのを見て初めて知った。

 ……深雪はともかく、奏多のやつ知ってたのなら教えてくれたらいいのに。


 でも、二人で放課後お祝いをした。

 プレゼントもあげることが出来た。

 幸せ、だった。


 ……こんな幸せが続くわけないことは、俺が一番よく知っていたのに。


 母さんの連絡を無視して、昨日言われてた病院に行かなかった罰だろうか。

 旭にもきっとバレたよね。


 最悪だ。最悪だ。最悪だ。最悪だ。最悪だ!!!


 でも、どうしても一緒にお祝いしたかったんだ。

 旭の喜ぶ顔が見たかったんだ。


 明日は大事を取って休むようにって言われた。

 旭にどういうこと?って聞かれずに済んでよかったのかもしれない……。

 もう少しだけ、答えを考えさせて……。


◆―◆―◆



「内容が、全く違うものになってる……?え、それよりも病院って何のこと……?昨日……?」


(昨日は二人で映画に行ったんじゃなかった?新が映画を見て泣いて……それで、明日もまた遊ぼうねって……)


 ドクン……ドクン……


 心臓の音がいつもより大きく聞こえる。

 そっと1ページ前をめくった私の目に飛び込んできたのは……4月28日の日記だった。



◆―◆―◆


 4月28日


 旭と今日もデート!

 幸せだな……なんて思っていたら、夜になって発作。

 最悪だ。

 薬で治まったけど、一度出ると頻発する可能性が高いから明日は放課後病院に行くことに。


 最近ちょっと落ち着いてたから油断したのかも。

 ……せっかく明日も旭とどこかに行けると思ってたけど、しょうがないか。


◆―◆―◆



「何、これ……」


(こんな日記、私……知らない)


「だから、お母さんから電話がかかってきてたの……?」


 ――病院に、行かなかったから?


「私の、せいで……」


 私のせいで、新は……。


「戻らなくちゃ……」


 一度戻った日には戻れないことは知っている。

 なら……


「4月28日……この日になら……」


 今、初めて見た日記の内容を――私は指でなぞる。


「待ってて……新……」


 そして私はもう一度、過去へと旅立つために目を閉じた。



 ◆◆◆



 目の前を風景が通り過ぎていくようなこの感覚を、私は知っている。


(どうして……!!)


 私の手の届かないところで、私が4月28日を――あの日記に書かれていた内容を繰り返している。

 まるで録画番組を再生するみたいに。


(あの時は一度過ごした過去だったから……でも、今回は違うじゃない!!)


 私は4月28日に戻ってはいない。

 ――ただ1ページ先の日付を、誤って読んでしまっただけ…。


(それも……ダメなの?)


 過去に戻ることは出来ても……一度過ぎ去った過去へとさらに戻ることは出来ない。

 そういうことなんだろうか……。



 ◇◇◇



「っ……!」


 目覚めた私はもう一度日記帳を見る。

 ……けれども、そこに記された文字には、何の変化もなかった。


「なんで……!!どうして……!!」


 ぽた……ぽた……と、落ちる水滴で新の文字が滲んでいく。


「私の……バカ……!!」


 どこかで油断していた。

 気が抜けていた。


 あまりにも幸せだったから。

 あまりにも……上手くいきすぎていたから。


「ページが……重なっていることに、気付かなかっただなんて……」


 もっと丁寧にめくればよかった。

 この一枚一枚が新との過去に繋がる唯一のものなんだと、もっともっと意識しなければいけなかった……!


「そうしたら……こんなことにならなかったかもしれないのに!」


 知っていたら、新の誘いを断った。

 知っていたら、お祝いなんてしてもらわなかった。

 知ってさえ、いたら……!!


「新……ごめん……」


 私がしたことで、新がいい方向に向かうどころか、一つ間違えば……。


「私、の……せいで……」


 日記帳を持つ手が、震える。


(ページをめくるのが、怖い……)


 どうにかして新との未来を作ろうと思ってきた。

 でも……。


 私のせいで、新の未来を奪う事もあるのだと……

 私のせいで、その日が、早く来ることもあるのだと……。


 そう思うと、日記帳の存在が、急に怖くなった。



 ◇◇◇



「旭……大丈夫?」

「深雪……」


 教室でボーっと外を見ていた私に、深雪が心配そうに声をかけてくれる。


「なんか、あったんじゃないの?」

「…………」


 ――新のことを殺しそうになったの。

 そう言ったら深雪は、どんな反応をするんだろう。


「なんでも、ないよ……」

「…………」


 あの日から、一週間が経った。

 けれど、まだ私は次のページをめくれずにいた。

 新の日記帳に、触れられずにいた。


「私じゃ、さ」

「え……?」

「私じゃあ頼りにならないのかも知れないけど、そんな顔してるぐらいなら話してみなさいよ」

「深雪……」


 深雪は私の頬にそっと触れると……ギューッと横に引っ張った。


ひ、ひらひ……い、いたい……

「あんたにとっては違うのかもしれないけど……私は、旭のこと大事な親友だって思ってるんだからね」

「…………」

「なんにもできないけど、心配ぐらいさせなさい」

「ありが、とう……」

「まだ何にもしてないけどね」


 そう言って深雪が笑うから、ほんの少しだけ、気持ちが軽くなるのを感じた。




「それは……キツイわね」

「ん……」


 放課後、深雪と二人でカフェに来て先日あったことをそのまま話した。


「私の、せいで……私が浮かれてたせいで……」

「旭……」

「私知ってたのに。新が心臓が悪いこと、知ってたのに!何もできないなら!知らなかったころと何にも変わらないじゃない!!」

「そんなことないわよ!」


 声を荒げた私を、深雪は真剣な顔で否定する。


「そんなことない。私が知ってるあんたたちは――旭といるときの新は、いつだって楽しそうだった」

「それは――!」

「今の私の中でも、よ?」

「え……?」


 私の中の記憶は、あんたが変えた過去の記憶なんでしょ?――そういう深雪の表情は、少し寂しそうに見えた。


「だから……」

「――深雪の言う通りだよ」

「あら、遅かったわね」

「うちの学校からここまで遠いんだよ」


 そう言って私たちのテーブルにやってきたのは……奏多だった。


「だいたい、深雪は突然すぎるんだよ」

「あら、ごめんなさい。旭のことが心配だったから」

「ったく」


 深雪の隣に座ると、奏多は私を見た。


「この間ぶり。――今日呼ばれたのは……4月29日の件、かな」

「っ……」


 心配そうな視線を向ける奏多から思わず目をそらしてしまう。

 何も言わない私の代わりに、深雪が口を開いた。


「あんたの方はどうなってたの?」

「……最初は普通の内容だった。学校でこういうことがあった。ホントそれだけ。でも……先週末にちょっと気になって開いてみたら、新が発作を起こして病院に運ばれたらしいって。夜にも大きな発作を起こしたらしく夜中に――」

「ちょっと待って!?夜にって……そんなこと新の日記帳には一言も……」


 日記の中身を思い出すけれど、そんなことは書いていなかった。明日は大事を取って休むように、と書いてあったから具合はよくなったものだと……。


「――もしかしたら、日記を書いた後に発作が出たのかもしれないね」

「新……」


 大丈夫じゃなかった……。

 あの後、私のせいで新が……。

 私の、せいで……。


「あさ……」

「――約束」

「え?」

「約束してたのに……!新にもっとたくさんの思い出をって言ってたのに……!!全部、全部私が壊しかけた……!」


 私の行動のせいで――新の未来を作るどころか、新が歩んできた過去までもなくしてしまうところだった……。

 私の、せいで――。


「……そんな顔、しないで」


 感情を抑えられず、声を荒げた私に……優しい声で奏多は言った。


「過去を変えるってことは、いいこともあれば悪い事もある。それは分かってる。……旭、君も分かってただろ?」

「それは……」

「……これから先も、こうやって苦しむこともあるかもしれない。それでも……それでも、君は新を諦めずにいられない。そうだろう?」

「奏多……」


 顔を上げるとそこには、あの頃よりもずいぶん大人びた奏多が、あの頃と同じように微笑んでいた。


「だったら、旭。新を諦めるな。決して、何があったとしても……旭、君だけは新を諦めちゃいけない」

「奏多……」

「改めてお願いするよ。……新のことを、頼む」

「私……私……絶対に、諦めない……新のこと、絶対に諦めないよ」


 自分に言い聞かせるように何度も何度も呟くと、私はもう一度覚悟を決めた。


(絶対に、私だけは、諦めない)




「――そういえば」


 そろそろ帰ろか――と、カフェを出ようとしたとき、ふと思い出して奏多に聞いた。


「この前のメッセージ、あれなんだったの?」

「ああ……あれね」


 チラッと深雪の方を見ると……奏多は聞かれたくなさそうに、小声で言った。


「君が過去に干渉することによって俺たちの気持ちも変わる。……だから」

「奏多……?」

「……いや、なんでもない。……あまり、無理しないようにね」


 何ともいえない表情を見せると……それ以上奏多は何も言わず、私たちはカフェをあとにした。


(奏多……?)


 気にならないと言えば嘘になる。

 けど……。


(今は、新の元に!一秒でも早く……!)


 机の上に置いたままになっている日記帳のことを思いながら私は、家への道を全力で走った。


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