第71話・大学生

 18歳。生まれてはじめて、家を出ることになった。これまで親に頼りきりだった身に少々の不安はあるが、生来の楽天家だ。心配を相殺して余りある楽しみに満ちている。心踊るひとり暮らしのはじまりというわけだ。

 引っ越し前に、再度、大学のある金沢におもむき、入学手続きをすませた。その足で、下宿先を決める。不動産屋をまわることもなく、学校が紹介してくれる「新入生受け入れのオススメ物件」のひとつに決めた。学校から徒歩5分ほどの場所にある、朝晩メシ付きの「学生寮」のようなところだ。人生最初のひとり暮らしなので、まるっきりひとりぼっちですべての生活を自分でまかなうよりは、まずは世話付きの下宿に住んで様子を見てみよう、というハラだ。なにより、親が安心してくれるのだった。家賃は、食費込みで4万5千円くらい。入り組んだ建物の中に50ほどの部屋が連なり、美大生の他にも、近くの金沢大学や医療短大の連中もごっちゃに住んでいる。値段のお手ごろ感も、にぎやかな感じも、なかなかいい。

 日を改めて、いよいよ引っ越し、となる。岐阜からの荷は、チャリ(カマキリ号)、勉強用のデスク、ミニコンポ、布団、それに衣類・・・そんな程度だ。食事が付いているので、調理器具や食器は必要なさそうだし、洗濯は近くのコインランドリーですませられる。冷蔵庫くらいは欲しいところだが、なにしろ四畳半一間なので、あまりごちゃごちゃと持ち込んでも手ぜまになるだけだ。「ものは持たないに越したことはない」というわが清貧の思想は、この部屋での生活から生まれることになる。

 さて、住んでみて驚いたのが、壁の薄さだ。ほとんどベニヤ板一枚という、いわば細長い空間が薄膜によって幾部屋にも分かたれているといったテイ。隣室の音が、全部まる聞こえに響いてくる。会話の一言一句の発音、オーディオの演奏の細かいディテールまでがはっきりと聞き取れるのだから、尋常ではない。これはつまり、こちらが部屋で行う一挙手一投足もまた、まるごと隣人の耳に筒抜けになるということだ。ひとり暮らしのあこがれと言えば、第一に「セックス」なわけだが、果たしてこの環境で、すぽんすぽんという物音も、「はあはあ」という荒い呼吸も、「あんあん」というあえぎ声も立てずに、行為が完遂できるものなのだろうか?経験はまだないが、いよいよどうしていいかわからなくなってくる。逆に言えば、お隣のセックスの音、声、息づかいが、まことに楽しみになってくるではないか・・・いやいや、耳をそば立てては聞くまい、聞くまい。それにしても、他人と隣り合わせて生活するというのはこういうことか、と、思わず息を殺さずにはいられなくなる。

 それはそれとして、すべての環境が新鮮だ。古くなじみ深い一切を捨て去り、知らない街ではじめる新品のひとり暮らし。この舞台転換によって、自分はまぎれもなく人生の第二幕に突入したのだ。街一面を覆っていたあの厚い雪が、解けはじめている。桜がつぼみをほころばせようとしている。いそいそとキャンパスに乗り込み、「大学生」になったわが身を不思議に感じつつ、その立場を満喫する。

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