第32話・加納高校

 朝起きると、寝グセ頭が跳ねっぱなしのままメシを秒殺の勢いでかき込み、学ランのそでに細腕を通す。そのままチャリで猛ダッシュ。あぜ道を疾走すれば、駅までは最短で5分の道のりだ。最後の商店街でラストスパート。最終コーナーを曲がると、眼前で赤い車両がまさにホームにすべり込もうかというタイミング。焦りつつ、月極めの駐輪場にチャリを突っ込む。ひなびた半無人駅である「竹鼻(ちくび、ではない。たけはな、だ)」駅に、電車がくるのは30分に一本だ。遅れるわけにはいかない。いつもギリギリに改札を突破して、閉まる寸前のドアに飛び込む。車内は、通勤のお父ちゃんと高校生たちで満杯だ。汗をぬぐいながら、必死に吊り革につかまる。貧血質で倒れそうなのだ。くらくらチカチカと眼華が散るのに耐え、荒い呼吸を整える。とにかくこの日も、朝イチの生き残りレースには勝利した。あと1分だけ早く起きればいいのに、と毎朝思うのだが、それができないのはなぜだろう?

 電車はのんびりと田園地帯を走りはじめる。名鉄・竹鼻線は、すれ違いのできない単路のローカル線だ。車両は普段だと二両編成だが、通学時間だけは四両が大サービスでつながっている。その車両を埋めるむさ苦しい黒制服たちは、終点の岐阜市内にあるさまざまな高校へ向かう連中だ。わが町周辺には野蛮な高校が二、三校あるばかりなので、ほんの少しの野望を持つ者なら誰でも、この無骨な赤い車両で都市部へと移送されるしかない。

 路線の終着駅である「新岐阜」駅前が、県の主要機能を集中させた人口の最大過密区だ。新岐阜百貨店をはじめ、パルコやダイエーだってある。立派な十六銀行の本店も。ごぼぜこ通りや狐穴に比べたら、めくるめく大都会だ。そこからさらにバスに乗り換える。その路線バスの車両には、オレの通う加納高校の制服を着た生徒がみっしりと乗っている。男子は、通常の学ラン。品行方正、学力最優秀の学校なので、誰もが襟首のカラーをしめ、しゃんと背筋を伸ばして乗車している。女子は、県下で唯一のセーラー服。清楚で落ち着いたたたずまいの彼女たちは、さすがは優等生集団と感じさせる知的雰囲気を漂わせている。しかし同じ加納高生の中でも、少数の学生は制服を着崩したり、カラーをだらしなく開けて悪ぶっている。その襟元を見ると必ず、オレ自身が着けているのと同じ「美術科」のバッジが輝いている。「美」の文字を象形に還元したデザインのこのバッジは、あの親しみ深い昆虫を彷彿とさせるため、そのまま「ゴキブリバッジ」と呼ばれている。真面目なお坊ちゃんお嬢ちゃんと、ゴキブリ。左様に、わが校には二種類の人種が存在する。

 加納高校には、自由な校風の伝統がある。生徒は教師から無理に抑えられることもなく、大らかに過ごす。校則はゆるく、服装や立ち居振る舞いの制約に対するそこそこの抵抗は、本人の自己判断と自己責任に委ねられている。が、聡明な学生たちは、物事をわきまえ、自らを律する能力があるため、問題などほとんど起こらない。何事かが起こるとすれば、それは美術科の生徒のしわざというのが通り相場だ。それでも、自由意志は創造性の飛翔に不可欠なものである、という覚悟が学校側にある。なかなか尊敬できる姿勢ではないか。かくて我々は、自由に過ごしながらも、逆に問題を起こすことができない。礼儀知らずの我々とはいえ、礼を失することは控えねばならない。そんな自覚を促す校風は、やはり優れたもの・・・というか、うまいやり口と言える。

 科は、東大、京大、早、慶、それに名大などの最高学府に多くの卒業生を送り込む普通科と、音楽のスペシャリストを育てる音楽科、そしてわが美術科に分かれている。音楽科には、防音設備の整った練習室や音響効果抜群のコンサートホールが与えられ、また美術科にも、実技に必要な美術棟、デッサン棟などが備えられている。ただ、普通科と音楽科は同じ校舎内に同居しているが、美術科だけは別棟の教室に隔離されている。両者の間には広い中庭が横たわり、なんとなくお互いの行き来に遠慮がはたらくような構造となっている。かしこい人々や、見目麗しい音楽科のマドンナたちにちょっかいを出すな、という無言の圧力なのかもしれない。バカぞろいの美術科は、その社会的地位も一段下に置かれているようだ。まあそれはそれでいい。品行方正、人畜無害の温室から遠くへだてられ、代々、美術科は独自の文化を醸成している。この文化圏で、オレは三年間を過ごすこととなったのだ。

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