第31話・高校入試

 黒板に落書きをしているときでさえ、見栄えの美しさよりも、人間の正しい骨格と筋肉と、それらの連結した正確な運動を意識している。美術の時間では、子供の手なぐさみじみたレクリエーション的カリキュラムよりも、素朴な鉛筆スケッチの方が好きだ。家に帰っても、そろそろマンガのマネごとは卒業し、酒ビンやらヤカンやらといった身のまわりのものを細密描写したり、テニスボールと野球ボールを並べて「手触りの違い」を描き分けたりして、自己流でデッサンの腕を磨いている。そうして「画がうまいね」「よ、画伯」とおだてられるうちに、やがて自分の進むべき道が決定づけられた。岐阜市内の高校に「美術科」という特殊な科があることに聞き及び、自分の受験先はそこしかない、と思うようになった。

 岐阜県立加納高校は、県下でも最優等の頭脳を集結させる、偏差値がトップレベルの高校だ。昭和も終わりのこの当時、高校受験の格付けピラミッドの上位に「一群」「二群・・・」などというあからさまなヒエラルキーが存在したのだが、その最上位の「四・五群」双方に属する、県下で唯一の学校だったのだ。東大などに人材を送り出す供給源としても他の追随を許さず、ブランド力においても掛け値無しの最高峰と言える。しかしそれは普通科の話であって、美術科の偏差値はそこまで高くはない。感性だけが持ち味の芸術家の卵たちに、県下で頂点の偏差値まで求めるのは酷というものだ。とは言え、学力的には中の上程度は必要だ。天才であるオレは、まあこのあたりのレベルならのんびりしていても入れるだろう、とタカをくくっている。しかし、念には念ということもある。一応、受験勉強というやつをしてみることにする。自室のデスクで教科書をひろげ、ざっと目を通していく。ところが、オレは本の字面と対峙すると、たちまち眠くなってしまうのだ。正直に言うが、この中学三年に至るまで、小説どころか、児童文庫の一冊も読み通したことがない。子供の頃の絵本さえも、退屈すぎて最後のページまで起きてはいられなかったものだ。そこへもってきて、夏休みのおなじみの宿題である「夏の友」を白紙で提出してしまうほどの勉強嫌いだ。たちまち教科書などそっちのけで、爪を噛むのに熱中し、ラジオに聴き入り、マンガを描きはじめて、やがてなんの圧力に邪魔されることもなく寝入ってしまう。授業で一度耳にしたことは必ず覚えている「はず」という自負がある。大丈夫な「はず」。油断などしてはいないが、とにかく自信があるので、バカバカしいことはやらないのだった。

 こうしてのぞんだ受験当日だ。倍率は、定員40名に対して43人が受験ということだから、まったくたいしたことはない。およそ、なんの障害物もない野をゆき、気づいたら門の中だった、というようなものではないか。これで落ちたら、本物の恥というものだろう。しかし、席に着いて周囲を見渡すと、目をギラギラさせた野心家たちがひしめいしている。こいつらもまた、黒板に描き殴るマンガの落書きなどを、クラスメイトにほめそやされてきたにちがいない。そうして勘違いをし、この道にドロップアウトしてきたわけだ。間抜けなことだ。が、あなどるわけにはいかない。どんなバケモノが潜んでいるか知れないのが、この芸術の世界なのだ。しかしまあ、賢そうな顔はいない。普通に試験用紙に向かい、普通の解答をし、あたりまえに通り抜けるまでだ。

 試験は、五教科の学科テストと、二次でデッサンの実技テストがある。学科は、かつてのどの模試でもそこそこのラインを常にキープしていたので、問題はない。少し点が下がれば、次の機会にちょこっとがんばり、少し上がればすぐになまける、といった絶妙のサジ加減で、きちんと中盤プレイヤーの位置を維持できるのだ。必死でがんばってしまうと、たちまち優等生になってしまう恐れがあり、するとあの「エリート」というくだらない地位に堕落してしまう危険性が生じる。それだけは避けようと、細心の注意を払って、恥ずかしくない程度の水準を漂いつづけた。おかげで受験本番のこの学科テストでも、中盤あたりにつけることができている「はず」だ。

 勝負はデッサンだ。こいつの評価が重要なのだ。こここそが、才能の発揮のしどころだ。本気を出す。鉛筆を手に画用紙に向かうとき、オレは没入しきって、時のたつのも忘れてしまう。そしてふと気づけば、驚くべき傑作を描き上げているのだ。まったく恐ろしい能力と言わねばならない。この日も手が勝手に動き、自動的にデッサンを描き上げていた。受験ということも忘れ、自分の作品にほれぼれしてしまう。ほんとオレ、天才でよかった、ふーっ、といったところだ。周囲のギラギラした凡百の人々もまあまあのものを描いているが、やはり自分の作品がいちばんだ。ありがとう、神様。

 そんなわけで、オレは田んぼのまん中のド田舎から、晴れて県庁所在地という大都会にある名門高校(のエアポケット学科)に進学を果たすことができた。いよいよ隠していた爪をさらし、進撃のはじまりだ。

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