第22話・海

 毎年、夏休みになると、家族そろって一泊二日で海にいくのが恒例だ。お父ちゃんの会社が、福利厚生というやつで、愛知の半島の先っぽの民宿を何部屋か借り切ってくれるのだ。子供たちは、この行事をなによりもたのしみにしている。

 お父ちゃんは「ダイハツ・フェロー」という可愛らしい軽に乗っている。そこに大人三人、小学生男児二人が乗り込み、お母ちゃんのひざの上に小さな妹がちょこんと座る。さらに一家六人分の着替えやら浮き輪やらを詰め込むと、マッチ箱のようなフェローは、はち切れんばかりの風船形に変形する。このギュウギュウ詰めで、いざ出発だ。

 名古屋周辺の重工業地帯をヨロヨロと進む。外はとてつもない濃度の排気ガスが渦巻いているので、窓は閉じきったままだ。この時代の軽に、エアコンなどは付いていない。暑さとすし詰め状態で、からだ中から汗が噴出し、意識が朦朧としてくる。絶えず水筒のお茶で水分補給をしなければならない。そのお茶がまたアッチッチなものだから、車内はほとんどがまん大会の様相を呈する。その上、お父ちゃんがへなどをこいた日には、深刻な生き地獄となる。

 こうした難行苦行をこらえるうちにゴールが近づくが、その頃には、家族全員がひからびてやせ細っている。そこで、海辺の手前にある、灯台を模した塔が目印の「灯台」というラーメン屋に飛び込んで、札幌ミソラーメンをすする。これも恒例行事となっている。すり鉢のような大きな丼に、シコシコの麺、巨大なチャーシュー、鳴戸巻き、てんこ盛りのコーン、すれすれにこぼれんばかりの濃厚なミソスープには、バターがたっぷりと溶かし込んであり、とろりと粘膜を張っている。ごぼぜこ通りの子供たちにとっては、外食といえば年にこれ一度きりなので、このミソラーメンは臓腑に染み渡るようなおいしさだ。

 腹もいっぱいになり、フェロー車内はさらに息苦しくなる。しかしぼくらの夏はすぐそこだ。海鮮みやげ物屋や釣具店の横を通り、細い路地をすり抜けると、民家の庭先にひろがる干物の向こうに小さな水平線が見える。

「わーっ!」

 みんなが歓声を上げる。岐阜は完全な内陸部なのだ。愛知が腹にかかえる太平洋の内海は、憧れでさえある。

 「いろはや別館」というボロボロの民宿では、毎年同じ一階の角部屋で過ごす。色褪せてすり切れた古ダタミに座ると、尻の下は砂でじゃりじゃりだ。潮のにおいがぷんとする。だけど窓を開け放つと、目の前には海の家が展開し、その向こうに広大な海がひろがっている。視線はどこまでも伸びていく。遠く山の稜線に囲まれた濃尾平野で暮らす子供たちにとって、そんな無辺際は信じがたい光景だ。ちんこを放り出して、海パンに着替える。お父ちゃんは浮き輪を膨らませ、お母ちゃんはサイフの用意をする。いよいよ出動だ。民宿のゲタをカラコロと鳴らして、百歩も歩けば、もう砂浜だ。

 ところが、この海が汚いのだ。湿った砂は茶色で、水平線はネズミ色。足を突っ込むと、水面を海藻がうようよと漂い、足裏にはゴロゴロとした貝殻の層。それでも、海は海だ。やんちゃな兄弟は躊躇しない。薄い胸を浮き輪に通して飛び込み、無邪気にじゃれ合っては叫声を上げる。若いお父ちゃんは、子供たちをかかえ上げ、投げ飛ばす。しぶきの中で、まっ青な空と輝く入道雲がひらめく。浮かび上がったときに、顔中に藻が張り付いていることだけが残念ではあるが。それでも、最高の夏休みだ。

 お母ちゃんとばあちゃんは連れ立って、アイスキャンディーを買ってきてくれる。海辺が広すぎて、海の家や売店はとてつもなく遠い。それでも献上品は、炎天下の浜をアチチと歩いて、王子の元に届けられる。とろけて形を失いかけているそれは、頬張ると気絶しそうになほど甘い。大アサリの焼いたのも、焦げた醤油の香りが効いていて、絶品だ。カラカラののどに流し込むファンタもたまらない。「太陽がいっぱいだ・・・」と、アラン・ドロンのようにつぶやきたくなる。

 昭和の日光は、なんの遮蔽物にも邪魔されず、激烈な濃い影を落とす。パラソルもなにもないそんな浜で、一家は一日中、飽きもせずに過ごしている。直火にあぶられ、時々刻々、クロパンのように肌が焦げていく。そんなからだで、夕方に宿に帰り着くわけだが、風呂の湯がこれまた熱い。どういうわけだか、激烈に熱い!痛感神経がむき出しになった皮膚から湯がチリチリとしみ入り、歯痛のようにからだを侵す。まるで拷問だ。うおう、とか、あおう、とか、弟とうめき合っていると、となりでお父ちゃんも同じ声を出すので、オレたちはゲラゲラ笑いながらがまん比べをする。そして、夜の食事だ。薄いトンカツ、シミったれた刺身、プラッシー・・・チープでやっつけな膳が出されるが、家族そろっての旅という異空間で見るそれは、すばらしいごちそうだ。お父ちゃんの膳の前には、ささやかなタイの舟盛りが据えられている。キリンビール。大人たちもまたこぼれるような笑顔で、そいつにありついている。実に幸せな気分だ。

 一家六人で枕を並べ、パリパリのシーツで深ーい眠りに落ちる。潮風が鼻先を漂う。みんな同じ夢を見る。家族っていいなあ。

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