第14話・英雄

 相手の戦意を奪うのが、ビンタの効果と罪悪さだ。ショックと屈辱感で、怒りよりも先に陰鬱な気分にさせられる。

 河合先生は、生徒全員の敵だった。ムッスリと笑みを忘れた顔には陰険なシワが刻まれ、首回りを脂肪塊が取り巻いている。筋肉量ゼロのだらしない中年太りのくせに、ビンタの際の力の入れようだけは熟知している。弱い者だけを殴ることができる、最低限の運動能力は温存しているのだ。社会科の教師だが、ボソボソとタバコに荒れた声で教科書を読むだけの授業は、退屈極まる。いつも中国の人民服に似たスモックを着ていて、発声にも動きにも表情にも、すべてにおいて抑揚がない。醜悪で、絵に描いたような愚鈍な大人・・・それがわれらの天敵、河合先生だ。

 さて、ここにひとりの男がいる。番長、などという言い方をすると時代がかっているが、「裏で学年を束ねるひとり」という者がいつの時代にも存在する。シバくんがそんな男だ。この侠気にあふれた同級生が、この時期、わが小学校の一学年を取り仕切っていた。クラスで一番か二番かというくらいのチビ助なのに、ケンカがめっぽう強い。のちに(中学校に上がってから)レスリングで日本一になるシバくんは、底暗さやズル賢さというワルの印象とは無縁で、頭の回転が速く、話が面白く、情にも厚いので、誰からも好かれていた。要は、正義の味方チックな裏ボスなのだ。

 シバくんは、いつもいつも河合先生に殴られている。ひっきりなしに呼び出されては、廊下で二、三発を食らい、頬を赤くして教室に戻ってくる。しかし、その目は死なない。そうされることで、むしろ生き生きと輝く。殴られるためにワルを働く、としか思えないようなところがある。殴られては反逆の闘志を燃やし、それをエネルギーにして、横暴な巨悪と闘いつづけているかのようだ。反骨を示すことによって、相手の理不尽を糾弾したいのかもしれない。しかし、シバくんによるレジスタンスは、暴力的なものではない。むしろ、笑いを禁じ得ないようなかわいらしい活動だ。その手口は、教室入り口の引き戸の頭上に黒板消しをはさんだり、背中に「のろま」と書いた紙を貼ったり・・・と、バカバカしいほどにオーソドックスなものなのだ。その悪辣すぎない子供じみた作戦もまた、彼が周囲から慕われる理由でもある。ただ、同級生たちの圧倒的な支持を受けているという点がまた、軍国主義者のビンタに力を込めさせる一因なのだが。それでもなお、ミサイルに対して石を投げるようなやり方で、シバくんは闘いつづける。

 ある日のことだ。その日は社会科の試験だった。河合先生は教卓に座り、試験監督をしていたのだが、その最中に寝入ってしまった。天井を仰いでナマズのような大口を開け、高いびきをかいている。ここぞとばかりに、われらがシバくんは挑みかかる。セロテープを持ち出し、先生のアブラ顔にペタペタと貼りつけはじめたのだ。なんて愉快なことを思いつくのだろう。オレたちは答案用紙に向かいながら、笑いをこらえるのに必死だ。

 敵は気持ちよく眠り込んでいて、なかなか起きない。シバくんは調子にのり、悪徳教師の醜い口をテープでふさぎにかかった。完全にそれが閉じられると、今度は鼻の穴にもテープを貼っていく。恐ろしいことが起きるぞ・・・という不安がよぎる。しかしそれ以上に、この画づらは面白すぎる。オレたち観衆は青ざめつつ、口を押さえて笑い声を押し殺す。

 セロテープは、完全に河合先生の気道をふさいでしまった。窒息状態に落ち入ったその顔は、だんだんまっ赤にふくらんでいく。おぼれる夢でも見ているのか、手が平泳ぎのように虚空を掻きはじめる。ついに耐えきれなくなり、先生は跳ね起きる。ぴょんっ!・・・呼吸の限界で水面に浮上したガマガエルのようだ。顔を必死に引っかいてテープをはがす。クラス中が、どっと大爆笑の渦に包まれた。

 シバくんは、顔面が変形するほど殴られた。ビンタが何往復もする間、彼はずっと薄笑いを浮かべていた。オレたちは、その姿を尊敬のまなざしで見つめた。事件は伝説となり、シバくんは英雄となった。

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