第12話・交通事故
自転車は「チャリ」ともいうが、この地方での呼び名は「ケッタマシーン」である。子供たちはみんな、ケッタ、と言う。
よしたか少年は、勇気を振りしぼり・・・というほどのことでもないが、広々とした運動場についにひとりで漕ぎ出している。自転車のスピードがのったところで、背後のお父ちゃんがひょいと手を離したのだった。おなじみのシーンだが、その感動はちょっと他の体験では類を見ないほどの得難いものだ。補助輪は、安全を確約してはくれたが、ひどく不自由なものだった。補助輪で四輪のくびきにつながれた自転車は、一次元を、つまり線上を動く。しかし二輪車は、二次元を、つまり面上を自由自在に、縦横無尽に動くことができる。少年が漕ぎ出したのは、自由の世界なのだ。スピードを出してみる。平気だ。右に、左に曲がってみる。補助輪を付けていた頃よりもむしろなめらかだ。ブレーキをかけて止まってみる。ちょっと危ないが、大丈夫だ。再び走り出してみる。感覚を知れば、もう決して転ぶことはない。安定した。自転車の運転も安定したが、ストレスがかかっていた少年の心もまた安定した。これで周囲のみんなに追いついたのだから。ハードルを越えた達成感は、自信というご褒美をくれる。よしたか少年は、ひとつの恐怖に打ち勝ち、胸を張る資格を得た。
しかし、恐怖に打ち勝ったはいいが、恐怖を忘れてはならない。自信を万能感と勘違いしてはならない。自転車を乗りこなせるようになった少年は、たかちゃんやこうちゃんとともに、街なかを爆走する愚連隊に成り下がっている。新しく買ってもらった自転車は、光り輝くなんやかんやで装飾されていて、まるでデコトラだ。こいつでぶっ飛ばすのがたのしくて仕方がない。たかちゃんもこうちゃんも、走りだしたら止まらない、土曜の夜の天使のようなやつらだ。その駆け抜けようときたら、突っ張ることが男のたったひとつの勲章、とでも言うかのようだ。その背中を追うよしたか少年は、交差点でもブレーキをかけないふたりを見て、なんてキレたやつらだ、おいらときたらチキンだぜ、と恐れおののいてしまう。おののきつつ、停止線できちんと止まって、右、左、もう一度右、と安全確認を怠らない子だ。しかし、いつかあんなブチギレた走り方をしたいもんだぜ、という憧れも抱いている。道路の舗装がゆき届いていないこの時代、町内に信号は皆無だ。交差点では、先に飛び込んだもん勝ち。そして、街角には自転車の子供たちがあふれている。自転車に乗った子供には、誰もかなわない。道路はまさに、ケッタの暴走天国なのだった。
その日、ついにそれは起こった。国道沿いに新しくできた百貨店(デパート)「ヤナゲン」に、お母ちゃんと買い物にいったときのことだ。ヤナゲンは、この地域ではありえない5階建てという高層の建物で、商店街からの入り口脇に「おもちゃの天狗堂」があり、また屋上にもせま苦しい遊園地や食堂を設けていて、まったく新時代がきたもんだぜ、と感じさせるパラダイスなのだ。華々しいその店内を見て回ったその帰り道。よしたか少年は、ケッタの前カゴに、前方が見えないくらいの荷を積んでいる。そうして、走りはじめたのだ。背後からお母ちゃんが、あぶないよ、と叫んでいる。しかしそこは、緩やかな下りスロープだ。スピードがのっている。高揚した少年は、目一杯にペダルを踏み込む。この直線道路は、十六銀行の前で交差している。
がちゃんっ・・・
「そのときのことは、まったく覚えていないのです・・・」
のちに少年は述懐する。脳震盪だろうか?とにかく、その瞬間の記憶が消えている。しかし、後ろを走っていたお母ちゃんによると、左側からきたセダンにぶつかった息子のからだは、10メートルほども飛ばされてころころと転がり、銀行の壁ぎわに横たわって止まったのだそうな。しんだかと思ったわ、とお母ちゃんは言う。記憶をなくしたよしたか少年は、それを聞かされてもキョトンとするばかりなのだが、とにかく、からだのどこも痛くないのに包帯でぐるぐる巻きにされて、不思議な気分だった。少年をはねた若い男が、カステラを持ってごぼぜこ通りの家まできてくれる。お母ちゃんが、もう大丈夫ですので、と笑顔で対応している。そして、「この子が本当にバカなことを」と、息子の方が逆に責められている。その顔は笑いながら、目の中に本気の色を宿している。こわい・・・この後にどやされるにちがいない・・・くれぐれも、交差点での飛び出しはいけない、と心する少年なのだった。
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