第11話・自転車

 小学校での生活にも慣れてきたよしたか少年は、自転車に乗る練習をしている。なかなか補助輪を取ることができないのだ。ごぼぜこ通りに住まう周りの同い年たちは、すでに自転車を「二輪車」として乗り回しているというのに。臆病なこの少年は、後輪をサイドから支える小さな車輪を外すことが、まだできないでいる。

 ものすごくかっこいい自転車が流行った時代だ。「スーパーカーライト」という、ライトがランボルギーニやフェラーリのようにピョコンと飛び出す装置が超人気だ。その他にもいろいろと、無駄にピカピカした部品が標準装備されたものや、突拍子もないデザインのものが出回り、少年心が多いに惑わされる。どれもこれも、まるで戦隊ものに出てきそうなド派手な自転車だ。加藤くんが最初にそれを買った。そいつにまたがると、加藤くんの勇姿はまばゆい光にライトアップされる。かっこいいのだ。彼は底意地の悪いバカだが、ただそれに乗っている、という事実だけで、同級生たちのヒーローに躍り出ることに成功した。彼の高笑いの前で、よしたか少年は、補助輪付きの自転車をえっちらおっちらと漕がねばならない。この屈辱感は、耐えがたいものがある。練習をせねば!

 毎週末、お父ちゃんと連れ立って、小学校の運動場に通うことにした。昭和の運動場・・・つまりグラウンドは、チャリの乗り入れもオッケーなのだ。ここで、補助輪を取り払った自転車に乗る訓練を開始だ。お父ちゃんは、息子が乗った自転車の後ろの荷台をしっかりと支えている。少年はゆっくりとペダルを漕ぎはじめる。お母ちゃんが背後からカメラを向けている。あのカメラは古い白黒のもので、左手でレンズのピントを合わせる操作が難しい。記念すべき瞬間をピンボケにさせないために、よろめいてはならない。よしたか少年は、こういったところに妙に気を使う。そして、緊張してしまうのだ。よろめかないように、と思いつめれば思いつめるほどに、足が動かなくなり、スピードは落ち、よろよろのぐだぐだ軌道をなぞることになる。

「こげっ。力入れてこがなっ」

 お父ちゃんが背後から声を掛けてくれる。が、こける。

「こがなかんて」

 わかっている。わかってはいても、できないのだ。そうなのだ。おねしょも治らない。夜寝る前に、便所にいってすませておけばいい。わかっているのだ。ところが、それができない。夜のぽっとん便所は、ひとりでいくにはあまりに怖すぎるのだ。暗闇の中に、豆電球がいっこだけ点いている。その直下までヨチヨチとたどり着き、虚空をさぐって蛍光灯のヒモを手繰り寄せなければならない。それまでが怖い。ヒモの確保に手間取ると、永遠に光にありつけないのでは?とパニックになる。そのシーンを想像するために、少年は二段ベッドの上段から降りることができない。二段ベッド上の空間もまた、怖い。仰向けに寝ると、目と鼻の先にある天井板の年輪の渦巻きが迫ってくる。魔女の横顔、とよく表現されるが、この少年には、四次元トンネルの入り口に見える。そういう絵本を読んでしまったのだ。イメージができてしまっては、もう天井板に面と向かうことはできない。全身で布団にくるまり、朝まで顔を出すものか、と心に誓う。膀胱はパンパンだ。プラッシーを飲み過ぎてしまうのだ。やがて眠りに落ち、朝起きると、堤は決壊している。毎朝おなじみの風景だが、どうしても夜中に起き出すことができない。この臆病者は、恐怖に打ち勝つことができない。天井板の年輪があまりに怖いので、ついに弟にベッドの上下段をかわってもらった。ところが今度は、ベッドの下に生首が転がっているような気がして、寝つけない。落ち武者の首がコロリとそこに置かれていて、その見開いた目は真っ直ぐに上を向いているのだ。よしたか少年の方を。背中の下の底板越しに刺さるその視線が、不気味なことこの上ない。寝る前に必ずベッドの下をすみずみまで調べ、生首がないことを確認しているのだが、人間とは自分を苦しませるために限りない想像力を働かせる生き物である。そこに生首がある、と信じたら、実際に生首が出現するのだ。かくて少年は布団にくるまり、朝までついに起き出すことができない。そして気づくと、決壊しているのだった。生首に打ち勝つ、勇気の一歩が必要だ。その一歩を踏み出すことさえできれば、自分は勇者になれるのに。

 運動場に戻る。よしたか少年は、今から自分が自転車でたどる軌道の両脇には、マグマが煮えたぎっていると考えている。そこに落ちたら、しぬ。なので、安全運転をするしかない。安全を求めれば求めるほど、ペダルの踏み込みが慎重になる。慎重になればなるほど、スピードは上がらない。スピードのない二輪車は、バランスを失い、転倒するしかない。この延々とつづくジレンマから、少年は抜け出せないでいる。

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