第10話・王様
シオカラトンボは、捕っても捕っても次から次へときりなく現れる。いわば仮面ライダーでいうところの、ショッカーの戦闘員だ。よしたか少年は、軍団と闘いつづける。この地の支配をゆき届かせるため、くる日もくる日も飽くことなく、陽が暮れるまであぜ道を歩き、トンボを探し求め、その姿を追いつづけなければならない。だが彼は、こんなザコではなく、「王様」と対峙したいのだが。
ハス田には、暴君であるよしたか少年の他に、特別な尊敬を受けるものが存在する。それが、王様だ。王様は、年に数度しかそのやんごとなきお姿を目に触れさせてはくださらない。王様のご尊顔を拝する光栄に浴した子供は、その麗しさに恍惚となり、見惚れてしまって、虫網を伸ばすこともしばし忘れ、立ちすくんでしまう。からだがかちんと凍りつくのに、体液はふつふつとたぎり、心臓は掌中のアマガエルのように暴れだす。抑えられない高まり。そのうちに、魂がぽわ~んと抜かれてしまう。要するに、夢見心地の世界に連れていかれるのだ。王様には、それほどの絶対的な存在感がある。
この日、めくらむ昂揚感がよしたか少年を貫いた。それを見た瞬間に、全身の筋肉はきりきりと萎縮しだす。逆に、心は水平線のように開け放たれる。少年は今や、真っ青な秋空へあざやかなすじを引くそれに、完全に打たれている。それほどまでに「銀ヤンマ」は、おそろしく美しいトンボなのだ。巨大で力強く、風格があり、飛ぶ姿は優雅。そのからだは、エメラルドのグリーンと、澄んだ湖面の水色と、菜の花畑のイエローとで構成されている。まるで、風と光とを凝縮して物質化したようだ。そんな王様が、この日はなんと王妃をともなっておられる。はじめて見る光景だ。スキャンダラスですらある。ふたりは空中で品よくダンスのステップを踏み、深く青く乾いた空をわがものと、光のシュプールを描き出す。
少年はしばし、途方に暮れる。足は震え、ノドの奥が激しく脈打ち、胸はふくれ上がって今にも破裂しそうだ。
「お・・・お、おい・・・」
紺碧の空を舞うエメラルドに視線をクギづけにしながら、背後に呼びかける。ところが、返事はない。こんなときに限って、あのチビどもは指揮官の背を離れ、どこかで道草を食っているのだ。テントウムシを人差し指に這わせてぼんやりしているのか、くっつきムシを投げてじゃれ合っているのか・・・まったく使えないやつらだ。こんなときに・・・つまり・・・ひとりぼっちにさせるなんて。
胸の高鳴りに気が遠くなりそうな自らの貧血質を呪いながら、よろめく一歩を踏み出す。王様はまぶしいほどのスピードで、青空の点から点へと王妃をともなって移動する。縦横無尽。うっとりと見入ることしかできない。この場所はあの方らが治める国なのだと、はっきりと認識させられる。人間など、異物にすぎない。しかし少年は、自分は勇者である、と心を奮い立たせる。そして腹をくくる。
「やっ」
満身の気合いをみなぎらせた虫捕り網で、ひとはけ、秋風を切る。すると視界から、光の粒がふっと消えた。優雅な音楽が沈黙する。ハス田上空には、虚空がひろがっている。
「?」
よしたか少年は、自分の犯した罪に未だ気づかないでいる。しかし、地べたに伏せた虫捕り網の中にくぐもる羽音を聴き取ると、少年はついに感覚する。それはなぜだか、苦々しいものだ。その中に、王と王妃がおわすのだ。からだ中の血の気が引いていく。虚脱感にひざがわなわなと笑って、へたり込みたくなる。素直に自分を開放することができない。思い描いていた性的衝動の昇華は、ついにやってこない。逆だ。襲ってくるのは、吐き気と、自己嫌悪だ。それでもふるえる指で、地べたに伏せられた網の中身をさぐる。
「と、と、と・・・とったぞ!・・・銀ヤンマをとっちゃったぞーっ!おーい・・・」
狂ったように叫んでみる。自分ひとりでは、この恐るべき事態に対処できないのだ。網の中でもがき苦しむ羽音は、間断なくつづく。おさまることのない昂揚感とともに、怖くて逃げ出したい衝動に駆られる。
何度も何度も弟たちの名前を呼ぶ。が、助けはこない。よしたか少年はついにひとりぼっちだ。その間ずっと、自らの罪を懺悔しつづけている。
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