第9話・トンボ
トンボを捕るのが子供のお仕事。そんな時代だ。近所の子供たちの狩り場は、ごぼさんの裏に広々とひろがるハス田周辺。初夏から晩秋にかけて、よしたか少年は、この一帯をくまなくパトロールして歩くのを日課としている。そしてT字形の機影を見つけると、右に左に虫捕り網を振って、この場所の統治者が誰なのかをトンボどもに理解させるのだ。
よしたか少年は小学校に進級している。彼が生まれた二年後に弟ののりまさが、そのまた二年後に妹のゆかが生まれていた。網の振り袖部分が深くてかっこいい虫捕り網を掲げる長兄の背後で、下のふたりは小ぶりなタモをかつぎ、付き従う。親分は、そんなかわいい子分たちに虫カゴを持たせ、獲物を捕らえては渡して、牢番の大役を担わせる。だが、子分はよく失敗をしでかす。せっかく捕獲したジッケンドーブツを、小さな指の間から逃がしてしまうのだ。そんなときはこっぴどく叱りつけ、げんこつを喰らわせてやる。よしたか少年にとって、捕らえた虫のカウントは重要だ。虫は、小さな暴君の気がすむまでいじり倒され、いずれは八つ裂きにされるか、飽きられてカゴの中で餓死するかの哀れな運命だ。かわいそうな話だが、そうすることで、暴君は欲望の昇華を得る。虫の獲得数は、よしたか少年にとって、充足感の数字的根拠なのだ。だから献体が失われると、欲求はそのたびに振り出しに戻ってしまう。再び得体の知れない意欲がカマ首をもたげ、執拗な狩りが開始されることとなる。
トンボは、際限なく眼前に現れては、飛び去っていく。子供たちの虫捕り網は、あちこちで始終に振り回されている。トンボたちは、その網の先を器用にすり抜けていく。そして間抜けなものは捕獲され、なす術もなくおもちゃにされる。灰色に近い水色で、シッポの先をチョンと墨壺に浸したようなのがシオカラトンボのオスだ。メスの方はオレンジっぽくて、そのボディを貫くように黒い線が走っている。秋が近くなると、アキアカネが増える。やつらは西の空から無数に飛来する。わが領土は、トンボの空に覆われている。まことに豊潤である。それゆえに、ますます暴君は飢えを、渇きを感じる。空ゆくあれなるを、一匹あまさずすべて捕獲したいものだ・・・と。
トンボは、ハス田一帯を一大繁殖地としている。その生態は興味深い。鋭い爪とたくましいアゴとで水場に集う小昆虫を捕らえ、ハスの葉の巨大なテーブルで食事をし、葉脈の間をしとねに眠り、茎の密林で愛を育み、ハスが根を張る泥の上澄みに卵を投下する。やがて力つきると、道端にぽとりと落ち、カサカサに乾いたからだを朽ちさせる。一方、卵はヤゴに孵り、やがて水中から地表にのぼり、瑞々しい羽をはばたかせて、世代交代を完了させる。人間の目をかいくぐりさえすれば、この場所はトンボにとってパラダイスと言える。
しかし人間も手ごわい。虫捕り網を手にした子供たちの鋭敏な五感をかいくぐるのは、至難の業だ。トンボの大きな複眼には、少年が油断なく哨戒する姿が映っている。あの子の狩りに対する執念は、侮れない。ほら、もう気づかれた。
「しっ!」
よしたか少年は身を伏せる。研ぎすまされたレーダー探知機が反応したのだ。トンボのにおいだ。目標を視界に捕捉。後ろに手を伸ばし、子分どもの頭を押さえつける。まるでジャングルにひそむハンターそのものだ。背後につづく小さなふたりは息を詰め、親分の行動をじっと見守る。スリルの瞬間だ。目の前の獲物にじりじりと近づく。色、形、寸法、速度、動き・・・即座に脳裏の昆虫図鑑がひもとかれ、識別が行われる。
「シオカラのメスや」
相手がザコと知れ、狩猟者は肩を落とす。それでも渾身の活動力で駆け、スナイパーの集中力で獲物の動きをトレースし、情欲にも似たしつこさで虫捕り網を振り回し、追いつめる。そんなとき、どこから湧き出るのか、謎の高純度のエネルギーが底なしに発散される。少年は、どこまでも追っていく・・・
そうまでしてやっと捕らえたところで、その先にどんな意義があるというのだろう?大切に愛でるわけでもなく、喰らって自らの血に取り込むというわけでもない。ただいじって、なぶって、飽きるまで弄んで、廃屋の網戸のようにズタズタにした挙げ句に、ポイと捨てることだけを目的としているのだ。が、その無垢な残虐性に罪はないと思いたい。とにかく、子供という生き物は、わけのわからない衝動を血管にみなぎらせては、無意味な労力を惜しむことなく乱費してかえりみない。食欲でも性欲でもなく、からだのどの部分の飢えを満たそうという営みなのか・・・とにかく子供とは、トンボにとっては実に迷惑極まる、悪夢のような存在なのだった。
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