第6話・登園

 よしたか少年は、布団で寝ていられない子だ。ひとりにされると泣いてばかりなので、いつもお母ちゃんにおんぶしてもらっている。お母ちゃんのあったかい背中にしがみついてさえいれば、しあわせなのだ。その割りを食うのは弟で、お母ちゃんの背中が兄によって占領されているために、時点の者はいつも布団に寝かされたままでいる。そのために弟の後頭部はゼッペキになった・・・と、のちにお母ちゃんは語ることになる。しかし、お母ちゃんの愛の独占は、よしたか少年にとって、実に気分のいいものだった。

 仏壇の前に、枯れ枝のようになったひいばあちゃんがいつも寝ている。その寝たきりのひとに、お母ちゃんは「吸い口」という道具を使って、水を飲ませる。枯れた植物に水を差してやるようなものだ。えらいな、と思う。お母ちゃんは、自身が中学校に通っていた頃から、このひとのお世話をしつづけているのだという。よしたか少年は、このミイラのように老いさらばえた人物の姿を異様に怖がったが、そんな抜けかけの魂に命を吹き込む母親の行いは尊いと感じている。感じていつつ、怖くて仏壇の前には近づけず、隣の部屋で白黒テレビを観る。「マッハGO、GO、GO」には、まったく心ときめかされる。

 保育園には、たのしく通っている。遊具やおもちゃで遊ぶのも好きだが、アブラ粘土でラーメンをつくるのがいちばんたのしい。お絵かきも得意だ。ひょいひょいと描くだけで、先生にも友だちにもほめられ、家族からも絶賛を浴びる。

「こんなにまっすぐに線が引けるなんて・・・」

 と、大人たちは驚くのだ。それくらい簡単なことなのに。ただ、お絵かきがもっと上手なゆうじくんにはかなわない。まったく惚れ惚れとするような仮面ライダーを描くのだ。ゆうじくんは、4歳にしてすでに昭和の大スターのようなたたずまいで、憧れると同時に、にっくきライバルでもある。そんな対外的ななんやかや、感情のなんやかやを覚え、よしたか少年は一歩一歩、よちよちと社会の勉強をしはじめている。

 そんなある日、彼は突然に保育園にいくことができなくなった。それまではなんの問題もなく通えていたのだが、その日以来、なぜか朝起きてみると、おなかが痛くなるのだ。どうしてもお家から外に出られない。自分でも訳がわからず、どうしようもない。毎朝泣きわめいて、登園を断固拒否するようになった。

 困ったのは、お母ちゃんだ。ただでさえ、介護があり、内職仕事があり、家事で忙しく立ち働かなければならない。そこに、降って湧いた長男の反抗期だ。「ええ子にしたらアメ買ったるから」だの「ミニカー買ったるから」だのとなだめすかして保育園に連れていこうとする。しかしよしたか少年は、それを母の自分に対する裏切りと感じている。なぜお母ちゃんは、その手から自分を切り離そうとするのか。いよいよガンとして動かない。保育園の美しいシブヤ先生までが様子を見にきてくれるが、彼の抵抗の意志は固い。周囲は困り果ててしまう。もはや打つ手はないのか?

 ところが、最後に母親が出した条件に、彼は聞く耳を持ちはじめる。

「だったら、お母ちゃんも保育園についてったるわ」

 魅惑的な条件に、少年の心がピクリと反応したのだ。しかしもう少々ごねて、さらなる譲歩を引き出す。

「保育園でも、お母ちゃんがずっとそばにおったるで。それであかん?」

 すばらしい妥協案。快諾だ。要するに、彼は母親から離れたくないのだ。常に視界内にいてほしいのだ。甘えんぼの少年はこうして、お母ちゃんとお手てつないで、笑顔で保育園に出かけることにした。

 園にいきさえすれば、大好きなお友だちが待っている。よしたか少年は、あっさりとご機嫌を取り戻している。みんなとたのしく遊ぶこともできるし、気が向いたときに外を見れば、グラウンドにお母ちゃんが立っている。手を振れば、手を振り返してくれる。なんていい心地だろう。まるで王様にでもなった気分だ。

 ところが、集中力をピンポイントでしか発揮できないのがこの少年だ。お友だちと一日を過ごすうちに、母親のことなどすっかり忘れてしまった。夢中で教室を駆けまわり、おやつをもりもりと食べ、お昼寝でこてんと眠り、また遊ぶ。そうして、さあ帰ろう、とお教室から足を踏み出した瞬間だ。その風景が、ハッと少年の胸を突く。

 夕焼けを背景に、お母ちゃんがブランコにひとり座っている。その影は、手にしたおにぎりを食べている。内職仕事も、病床のひいばあちゃんをもほっぽらかしてわが子につき合った彼女は、本当にこの日一日をその場所で過ごしてくれたのだ。自分の視界の中で。愛のとどく範囲で。それを、なんとしたことか、忘れていた・・・

 よしたか少年は激しく動揺し、思わず泣きだしてしまう。しかしそれは、毎朝だだをこねていたときの涙ではない。生まれてはじめての、痛恨の涙だ。そして、彼にはまだ理解できてはいないが、母の愛への感謝もあるのかもしれない。彼はこのとき、深い深い感情を知る。

 その日からわがまま少年は、とてもいい子になったんだとか、ならなかったんだとか。とにかく、少しだけ大きくなったのだ。

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