第2話・おぞうきん
「よしたか」が、自分史において覚えている最古の記憶は、3歳頃の保育園の風景だ。薄暗いお教室。芳香剤の匂い。みんなの前で、よしたか少年ひとりが立たされている。見上げたそこには、大きな口。ノッポで、面長で、タバコに荒らされた声をしたノノムラせんせい(♀)に、よしたか少年は叱られている。
「おぞうきんを持ってらっしゃい、ってあれほど言ったでしょう」
・・・というシチュエイションだ。よしたか少年はクラスでひとりだけ、自分のおぞうきんを持ってこない子なのだった。毎日毎日ノノムラせんせいに催促され、そろそろやばい立場になっている。生来、ぼんやりした子なのだが、ノノムラせんせいのこのブチギレ感には、本物の怒りの気配を感じ取っている。ここらあたりで、きちんと対処した方がよさそうだ。くわばら、くわばら・・・ではなく、保育園からの帰り道で「おぞうきん、おぞうきん・・・」と唱えて歩く。今日こそは必ず、このことをお母ちゃんに伝えなければならない。さもないと、ノノムラせんせいのあの大きな口に喰われてしまうかもしれない。幸い、保育園のある寺院からおうちまでは、目と鼻の先の距離だ。その間、忘れないように一生懸命、おぞうきん、おぞうきん・・・とくり返しにつぶやく。
ところがそんなときに限って、不意に目の前をシオカラトンボがかすめ飛ぶのだ。
はっ。
たちまち少年の頭の中は、灰ブルーの閃光に満たされてしまう。その誘惑に打ち勝つことなどできない。意識は即座にそちらへと移り、少年はトンボの追尾を開始する。
「シオカラ、シオカラ・・・」
いっこ前に集中していたおぞうきんのことなど、すでに頭の中から追い出されている。彼の関心はいつも、目の前にある、より重要な対象へと向けられるのだ。それ以外のことは、忘れてしまってかまわない。彼は、恐るべきピンポイントの集中力を発揮する才能を持っている。ただし、世間のひとに言わせれば、それは「うつりぎ」と呼ぶべきものだったかもしれないが。
シオカラトンボは、よしたか少年の関心の中でも、常に最上位にランクされる重大事だ。あの風のようなスピード、青空に溶け込む水色のボディ、イカツイぎょろ目玉・・・なんと心乱させる存在なのだろう。目線が追いつく間もなく滑空し、見失ったかと思えば、再び見つけてほしいとでも言うかのように、空中で静止している。手を伸ばせば届きそうなのに、追えば、逃げる。そのくせ、あきらめれば、鼻先に近寄ってくる。悩ましい。地団駄を踏みたくなる。一度でいいから、あいつに触れたいものだ。シオカラトンボを追って、よしたか少年はハス畑をさまよい歩く。
「もう、うそでしょう?どうしてお母さんに言えないの?」
翌日、ノノムラせんせいが地団駄を踏んでいる。おぞうきんを忘れた少年は、今日も大きな口を見上げながら、ダミ声を浴びせられている。が、彼にとって、そんなのはどうでもいいことだ。関心はすでに、別の重大事に向いているのだから。
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