第2話

 エリは別れを告げて帰って行った。ソニアは仕事に戻り、そのうちエリとの奇妙な会話のことは忘れてしまった。


 しかし夜寝る前になってふとテーブルの上を見ると、彼女が置いていった箱がある。ソニアは何気なくふたを開けた。ふたの裏側に注意書きの文字が彫られていた。おおむねエリが言ったとおりの内容だった。


一、ひとつの石が中央にあるとき、他の十二の石は必ず定位置になければならない。

一、どの色の石を用いてもよい。ただし十三番目の無色の石は決して使用しないこと。

一、この箱は破壊できない。手放す唯一の方法は次の持ち主に譲ることのみである。


「破壊? 誰がそんなことするかしら。こんなに綺麗なのに」


 ソニアは仕切りの一つから紅い石をつまみ上げた。ひっくり返してみると、裏側に文字が彫ってある。


「キクノジョウ……?」


 ソニアは首をかしげた。どういう意味だろう?彼女は装置の中央に、その石を嵌め込んだ。


 すると、装置全体がうっすらと光りはじめた。何かの機械仕掛けが作動し、石をのせた中央部分が華奢な金属の脚に持ち上げられて高くせりあがる。石から夕陽のような紅い光が溢れ出し、大きく波打ったかと思うと、縦にのびて四角くなった。


 光が消えて暗くなると、後には幻影で形作られたような見慣れない扉が残された。部屋の真ん中に、唐突に古い木の引き戸が出現した有様だ。


 おそるおそる触ってみる。不思議なことに、本物の木の感触がした。ソニアは溝に手をかけて、それを動かしてみた。扉は何の抵抗もなくするすると開いた。


 次の瞬間、彼女は思わずあっと声をあげた。


 自分の部屋にいたはずが、石畳の玄関に立っていたのだ。目の前には磨き上げられた板張りの長い廊下が奥までまっすぐに続いている。両側には色鮮やかな絵が描かれた紙の扉が並び、どこからか不思議な音楽や人のざわめきが聞こえてくる。


 そのとき、すぐ手前の襖が開いて、真紅のキモノ姿の女があらわれた。すらりと背が高く、長いまっすぐな黒髪を後ろでゆるくまとめている。

 顔は真っ白で唇は真っ赤、涼しげな切れ長の眼は、黒くきらめく夜の泉のようだ。キモノには花と月と雲が描かれ、金色の幾何学模様のふちどりがしてあった。


 ソニアを見ると、女は優雅にひざをつき、両手をそろえて深々と頭を下げた。

「ようこそいらっしゃいました」


 ソニアはあわてふためいた。

「ごめんなさい、お邪魔するつもりじゃなかったんです」


 女はつつましく目を伏せて、ささやくような、低くやさしい声で言った。

「何をおっしゃいます、奥方さま。お待ちしておりました」


「あなたはどなたですか? わたしの言うことがわかるのですか?」


「菊の丞と申します。もちろん、あなたの言葉はわかります。ここはわたしどもの世界。いかなる境界も超える場所なのですから。どうぞ、遠慮せずにお上がりください。今宵一晩、ともに宴を楽しみましょう」


 ソニアは中に入ってみたくなった。しかし相手がこれほど着飾っているのにたいして、自分がネグリジェ一枚の姿なのを思い出した。


「でも、こんな格好なので……」


「お召し物ならお貸ししますよ」

 女は愛想よくそう言って、ソニアを奥の部屋へと導いた。


 しばしの後、ソニアはネグリジェの上から浴衣をはおり、この不思議な女と並んで縁側に座っていた。

 

 目の前は砂利を敷き詰めた庭だった。岩、きれいに剪定された松の木、石灯籠などが、それぞれ絶妙に配置されている。空には満月が輝き、庭の池の水面にも同じ月が揺れている。池のほとりには菖蒲が咲き乱れ、蛍が飼われていた。


 空気はとても澄んでいたが、ほのかなぬくもりと、しっとりした重みがあった。屋敷のどこからか、三味線や琴の音色、人々の笑い声が、なまあたたかい風にのって切れ切れに流れてくる。


 菊の丞は二人の間に小机を置き、白い杯に透明な酒を注いでいた。彼女はソニアの髪を主題に和歌を詠み、長い袖に半ば隠れた手であっという間に小さな紙の鳥を作った。


ソニアは笑みをこぼした。


「あら! どうやったのかもう一度見せてください」


「ええ、お見せしますとも。なんなら一晩中じっくりと」

菊の丞は立ち上がり、重たげな金色の帯に手を触れた。

「その前に失礼して、そろそろ着替えてまいります」


ソニアは驚いて一緒に立ち上がった。

「遅くまですみません、持ち合わせがないんですのに」


「お代は必要ありません。箱の所有者にお仕えするのがわたしのつとめなのですから。どうかそのままでお待ち下さい」


 菊の丞はついたての後ろに姿を消した。化粧を落としているのか、水を使っている音がする。


 見ると、いつの間にか座敷に布団が敷いてある。ソニアはその上に座って、赤い絹の手触りを確かめながら呟いた。


「箱の所有者ですって! あらまあ。きっと本当は男が所有者になるべきなんだわ」


 その独り言がきこえたらしく、ついたての向こうで穏やかに答える声がした。


「いいえ。歴代所有者の中で殿方は三割ほどにすぎません」


 次の瞬間、ソニアは腰が抜けるほど驚いた。


 ついたての後ろから出てきた菊の丞は、東洋人の若い男性だった。今はそでの短い、暗い色の簡素なキモノを着ていた。いかにも若者らしい腕がむきだしになり、ゆるく開いた襟元から平たい胸の、なめらかな淡金色の肌がのぞいている。


 髪はかつらだったらしく、今は短くて、頭のてっぺんでひとまとめに結っていた。きらめく切れ長の眼だけが、さきほどの女と同じだった。化粧のなくなった顔は意外にもいたずらっ子のように活発そうで、同時に繊細で愛らしかった。そうでなければあれほど見事に変装することはできなかっただろう。


 彼は微笑み、庭に面した障子を閉めた。ちらちら揺れる行灯の明かりだけになった。


 ソニアは赤くなって立ち上がり、廊下に続く戸をあけた。

「もう戻らないと――」


 出て行こうとしたとき、背後から若者の両腕がのびてきて、彼女に巻きつき、抱き寄せた。あの魅惑的な声、だが女に扮していたときとはまったく音色の違う声が耳元でささやいた。


「つれないことをおっしゃいますね。まだ宵の口じゃありませんか」


 ソニアはとっさに浴衣を脱ぎ捨てて身を振りほどき、廊下を駆け抜け、玄関から飛び出した。

 すると、そこは見慣れた自分の部屋である。急いで戸をぴったりと閉め、箱の装置から紅い石をひったくるように外した。すると木の扉も消えてしまった。


 ソニアはしばらく息を切らして、呆然と突っ立っていた。そして次の瞬間、小娘のように笑い転げてベッドに倒れこんだ。


 楽しい、こんなに笑ったのは数年ぶりだ。あれはなんと奇妙な、不思議な場所だったのだろう。


「……それに、なにも逃げることはなかったんだわ。あの子が男だからなんだっていうの? ばか亭主のルークに比べたらまるで天使じゃない」

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