N2-6

 いよいよ、その時が来た。


 葵は自らVRゴーグルを頭に装着し、四肢にリングを嵌める。

 視界が黒に覆われ、そこに[SLEEPING]の文字が赤く表示された。


 初期設定が完了し、荒廃した未来に目覚める時がやって来たのだ。

 赤文字が、左から徐々に緑へと変わっていく。


 そして全てが緑色になると同時、[SLEEPING]の文字は[AWAKE]に変わった。

 今をもって、アバター「アオイ」は覚醒者アウェイクとなったのだ。


 ゴーグルと連動した左右のスピーカーから、ガゴン、という駆動音。さらに圧縮空気が吐き出される音が続く。

 目の前が徐々に明るくなる。その間も周囲の音は続き……



 ギ ギギギギギギ ギ ギ  ギ……ガ   ゴ   ン。



 視界が開けた。


 見えるのは、澄んだ青の中に薄く雲が浮かぶ、空。ただただ空。

 それで、葵は自分が仰向けになっている状態だということに気が付いた。機械製の棺桶のようなものに入れられていたようだ。


 起き上がろうとしてみる。実際の肉体を動かす必要はない。そもそも現実の葵は横になっていない。ただ「起き上がろうとする」だけ。それだけで、普段体を動かそうとするのと同じように「アオイ」は起き上がることができる。


 アオイは立ち上がった。


 立ち込める煙の向こうには、赤茶けた大地。遠く地平線からは埋まったビルやタワーが顔を出す。そして空には、現実より随分大きな半月が白く浮かんでいる。


 少し離れた場所で、砂埃が舞った。風が吹いたようだ。その距離で空気が動いたことがわかるほどリアルなビジュアルと音。土のにおいが漂っている気すらした。


 下を見て自分の体を確認する。黒いコスチューム、腰に巻かれたリボン。間違いなく自分でデザインした「アオイ」の体だった。

 アオイが感慨深げに自らの体をあちこち触っていると、近づいて来る人影があった。白を基調としたバトルスーツを着た少年のアバターだ。


「お、いたいた、アオイ!」

「……だれ」


 アオイは不審げに眉をひそめた。


「いやいやオレだよオレ。昨日も見ただろ」

「怪しい」


 瞬間、アオイの体が稲妻のように動いた。まったく予兆を感じさせない急襲での目突き。だが相手は避けるそぶりすら見せなかった。その必要がなかったのだ。アオイの二本指は相手の目の位置に正確に当たったが、指が刺さったりはしなかった。


「――うおおっ。ダメージがないとわかっててもやっぱ恐えーなそれ。いや俺だよ、エイイチ。ここではA1ってんだけど、まあ読みは変わらないしな」

「……そっか、鋭一。こっちの鋭一は強そう」


「悪かったな、どうせ元の俺は軟弱だよ。とにかく、ここじゃ目潰しは効かないぜ。非戦闘空間には当たり判定がないからな」


 A1は周囲を示すように指さした。ここからは距離があるが、赤茶けた大地のあちこちには人々がまばらにたむろし、椅子に座っている者もいる。ここは戦闘者の控室であり、広場のような役目も果たす場所のようだ。ここではプレイヤー同士の会話も自由に可能である。


 と、早速こちらに近づいてくる影があった。帽子にボロ布、長い髪。A1とよく対戦する女性ガンマンだ。


「あっ、A1さんじゃん。おはよー。女の子と一緒にインしてくるとか珍しくない?」

「あっ、おはよう」


「流石にチャンプともなるとおモテになるんですなあ」

「い、いやいやモテるとかそんな」


 A1は反論しかけた言葉を止めた。

 アオイがA1の服のすそを摘まんで引いている。


「鋭一」


 黒猫のアバターは、小柄な女子高生と全く同じ仕草で首を傾げた。


「はやく」

「あ、ああ、戦いたいのか? 説明も途中だったな。ごめんごめん」


 A1は振り返り、そういうことだからと謝ってガンマンと別れた。

 思った以上に、アオイが服を掴む力は強かった。こちらに構ってほしい、とでも言われているような気がした。


***


「さて、ここが『覚悟の門』だ」


 そう言ってA1がアオイを連れてきたのは、巨大な石造りの門だった。ただし門の周囲には塀も柵も、何も遮るものがない。ただ白線が引かれているだけだ。これでは横から通り放題に見える。


「変だろ? ぽつんと門だけあって。この線の向こうは戦場で、戦う覚悟ができた者だけが通っていい。横からすり抜けるなんて無粋なマネは、やっちゃいけないのさ……いや、システム制御されてるから実際できないんだけどね」


 と、説明しアオイのほうを見る。……彼女はもうそこにいなかった。

 既にその「覚悟の門」の入り口まで近づいている。


「……せっかく人がチュートリアルNPCみたいな役割をしてやってるってのに。やる気十分ってわけか」


 スタスタと歩いていたアオイは門番の目の前まで近づいたところで一度立ち止まると、A1のほうを振り返った。


「鋭一、戦うのどうやるの」

「はいはい、その門番に話しかけてみな」


 アオイが門番に話しかけると、空中にウィンドウが開いた。このあたりはシステム的である。

 ここで戦闘ルールや、フリー戦かランキング戦かなどを選ぶことができる。鋭一は、「デュエル・ルール」の「ランキング戦」を選ぶよう葵に伝えた。


 ランキング戦を選択したということは、先日のフリー戦とは違い、少なくともポイントのやりとりをする気のある相手と戦うということだ。


「で、『開始』のボタンを押せば、あとは対戦相手が見つかるのを待つだけだ。マッチングが成立したら、こないだみたいに合図があるから……あとは、相手をぶっ飛ばしてやればいい。OK?」

「がんばる」


 アオイは小さくうなずいた。コイツが頑張ったら怖いぞ、と鋭一は思った。


「葵の力ならまず大丈夫だと思うけど……流石にどんな相手が出てくるかはわからん。予想外の攻撃をされても、落ち着いて……」

「問題ない。お父さんが言ってた。墨式ぼくしきは――墨。ぜんぶ塗り潰すって」

「お、おお。なんかすげえな。じゃあ心配ない……のか?」


 アオイの瞳は平静そのもので、緊張も気負いも感じられない。

 そしてアオイが開始ボタンを押すと、システムによって自動的に体が門の中へ歩いていった。


***


 ――闘技場に二人の戦士が降り立った。

 アオイは前回と同じように、空中に文字が浮かび上がるのを見る。

 

 [DUEL RULE 1on1]

 [BATTLE RANK‐C]


 向かい合う相手は女性アバターだった。アラビアの踊り子のような衣装だ。胴も手足もスラリと長く、扇情的な笑みを浮かべている。


 [READY]


 アオイは両手を下げたまま動かない。相手は左手を前に、右手を上に、そして片足を上げた大仰な構えをとった。

 両者は同時に息を吸い――


 [FIGHT!!]


 開始の合図と同時に、動いた。


 アオイは大きく前方に踏み込み、相手に接近した。両手をだらりと下げた立ち姿から動いたとは思えない恐るべき加速だった。彼女は速度と殺気を、刹那の間に0から100まで引き上げることができる。正面から相対してこれに反応できる者は、そういないだろう。


 だが、この踊り子は幸運だった。彼女の戦闘スタイルは正面から相対するものではなかったのだ。

 踏み込んだアオイは攻撃に移ることができず足を止めた。相手の姿がない。


 頭上に空気の動きを感じる。すぐに葵は理解した。敵は戦闘開始と同時に垂直に跳び上がっていた。完全に視界から消えられた。


 さすがに虚を突かれた。いきなりこんな動きをする格闘技はなかなかない。

 しかも、さらに葵は立て続けにもう一度虚を突かれることになる。

 これが彼女の知らない世界――ゲームでの戦いであるがゆえに。


 相手の踊り子は垂直に跳んだ状態から、中空を蹴って前方へ回転した。

 スキル〈空歩くうほ〉。宙にいる間、一度だけ空中でジャンプできる。まさにゲームならではの動きだった。


 回転の勢いを乗せた踵がアオイの脳天めがけて振り下ろされる。ジャンプから繰り出す足技はどうやらカポエラに近い動きだ。


「げっ。こいつ、結構強いな……」


 鋭一は相手の動きが初心者のそれではないことに気がついた。画面端には、両プレイヤーのランキングポイントが表示されている。アオイはもちろん0。そして相手は……1640。


「Cランクでもそこそこやる方だな。これが倒せれば……なかなかだぞ」


 アオイの頭上、死角から致命的なかかとが落ちてくる。頭部にまともに受ければかなりHPを持っていかれそうだ。

 流石の葵でも、現実の人間に不可能な動きから知らない技を叩きこまれては厳しいだろう。ゲームの勉強にはなったと思うが……。


 そう鋭一が考えたのとほぼ同時だった。


 アオイの頭で、猫耳がピク、と動いた。少女の腕が動く。手を真上に。そして――

 奇襲の踵を、なんとアオイは素手で掴んだ。

 ガードするどころか、ピンポイントで摑まえている。


「……何!?」


 鋭一が叫ぶ。思わず、リアクションが声に出た。


「今のをかわすんじゃなく、掴むだって……?」


 ――相手の攻撃が読めたわけではなかった。もちろん見えてもいない。ただし葵はある程度、殺気というものを察知できる。自らの殺気を鍛えた者は、他人の殺気にも詳しい。葵には「上から足を振り下ろすぞ」という声までも聞こえたかのような気がした。


 踊り子の目が驚愕に見開かれる。彼女は慌てて空中で体をひねり、アオイの手から逃れた。そして一度着地して仕切り直そうとする。呼吸を整えるべく息を吐き、

 だがそれ以上の時間は与えられなかった。


 次の瞬間にはアオイの二本指が彼女の両目を突いていた。


「え…………ッ!!?」


 踊り子から声が漏れた。急速に踏み込んだアオイの一撃だった。

 感じ取る暇もないほどの、速度の速い殺気。そう、彼女は速度と殺気を、刹那の間に0から100まで引き上げることができる。元が0であるからこそ100が生きる。


 ――墨式ぼくしきおもて』。


 絶対先手のこの技は、タイミングと速度で不意を突くことにより「真正面から奇襲する」奥義だ。なお日頃、鋭一に見舞っている目潰しもそれである。彼はその全てを今のところさばけているが……それが誰にでもできると思ってはいけない。平田鋭一は、サドンデスの絶対王者なのだ。


 踊り子の視界は今頃、赤く明滅しているであろう。ゲーム的な配慮から指が眼孔に突き刺さることこそないものの、目を突かれればもちろん視力が奪われるようには出来ている。


 無論、そこを逃すアオイではない。間髪入れず前に出る。

 一発。腹部に思い切りめり込むボディブロー。200以上のHPが削れる。

 二発。相手の肩口に強烈なハイキック。これも200近いダメージ。さらに敵のバランスを大きく崩す。


 そして、三発目。

 アオイはその場で両手をついて逆立ちすると、両脚をスラリと天にめがけて伸ばした。足首をクロスさせ、二発目の衝撃で体が傾いた相手の頭部を挟み込む。


 そしてそのまま両脚を――振り下ろす!


 受け身すら許さず、踊り子の頭部が地面に激突した。500オーバーの大ダメージ!


 アオイは動かない敵を背に着地した。

 背後で、相手のアバターが爆発する。そして中空に勝利を告げる文字が出た。


 [FINISH!!]

 [WINNER AOI]


 結局、アオイはノーダメージ。完封での勝利だった。


「な……何だよ最後の。あんな綺麗な連続攻撃、俺にだってできるか……!」


 ぞわっ、と、観戦していた鋭一の全身を震えが走る。昨日味わったのと同じ興奮だ。


 倒した。初試合で、1600ポイント超えの相手を、ノーダメージで。

 もしかして、とは思っていたが実際に勝たれてみると、目の前の少女がいかに恐ろしい存在かよくわかる。

 鋭一は己の目が間違っていなかったことを悟った。



 この少女は……「上」に行ける。

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