N2-3
翌週、月曜日。
平田鋭一の朝は、今日もギリギリの戦場だった。バタバタとアパートを飛び出す。
だが、今日はいつもと違う事情があった。
まずそもそも、眠れなかったのはゲームのせいではない。金曜に偶然見つけた有望な覚醒者候補にして、突然付き合うことになった「彼女」……一色葵のことが頭から離れなかったからだ。
土日の間ずっと、鋭一はベッドに寝転んで思い返していた。
忘れられるわけがない。あまりにも鮮やかな、あの動き。鋭い目突きに、紙一重の見切り。流れるような、止めの必殺技。そして——。
鋭一は右手を握り、開く。自然とその手は掌底の形を作っていた。クリーンヒットの感触はまだ残っている。彼女の「心臓の手前」の感触が。
……忘れられるわけがない!
全部夢だったのではないかという気すらしてくる。考えれば考えるほどに非現実的な出来事だった。睡眠不足ゆえに見ていた幻覚なのでは? 一色葵なんて女子生徒は、初めから存在しなかったのでは?
鋭一の、勢いだけの「付き合ってくれ」に真っ向から応え、自ら「こいびと」を名乗る葵。そんなことがあるものだろうか? 確かに「一撃ルール」の約束はあったが……。
何しろ「幽霊」と呼ばれることもある少女である。元々が学校七不思議みたいな存在だ。鋭一としても、こんな自分に「彼女」だなんて、夢オチにでもしてもらったほうがよほど納得がいく。
そりゃあ夢なら仕方ない。夢ならうっかり女の子の裸を見てしまうこともあるだろうし、その子と付き合うことにもなったりするだろう。後で夢診断でもしてみるべきか? 欲求不満とか、そんな結果が出たりするんだろうか……。
そんなことを考えて自分を納得させながら、鋭一は最寄り駅への道を急いでいた。最速で電車に乗っても、葵との約束の時間に間に合うかどうか。
が、その直後、彼は急ブレーキで止まることになる。
「鋭一」
突如、無から湧いて出た一色葵が、目の前に立ち塞がって彼の名前を呼んだからだ。
「……ええええ!?」
鋭一は驚きのあまり前につんのめり、葵に激突しそうになる。彼女は涼しい顔でそれをかわし、片腕で鋭一の体を受け止めた。二の腕のすべすべした肌ざわりを感じ、鋭一は慌てて飛び離れる。
どこからどう見ても葵だ。当然実体は、ある。鋭一はあたふたしながら話しかけてみる。
「い……一色、さん?」
瞬間、葵の指先が閃いた。
二本の指が鋭一の両目に向けて突き出される。爪の先端が眼球の至近にまで迫る。鋭一は即座に頭を後ろに倒し、横から手を出してなんとか葵の指を掴んだ。問答無用で失明の危機だった。
「うおおおおおおおお眼球!!!」
「葵って呼ぶ約束」
「そ、そういえばそんな話だったね!」
「鋭一は記憶力が良くない?」
どうやら苗字で呼ばれたのが気にくわなかったようだ。葵は困ったように眉をひそめて首をかしげた。仕草は可愛らしいが、繰り出す技に殺意がありすぎる。
「そんな急に出現されたら、記憶も飛ぶわ!」
「……相手に気づかれるようじゃ、暗殺者としては二流だから」
葵は目を伏せ、陰のある表情で言った。暗殺者としてのプライドを感じさせる雰囲気がある。が、朝の登校風景で暗殺者のプライドを出さないでほしいと思う。
「え、俺暗殺されるの……? ていうか待ち合わせ、学校の近くにしなかったっけ」
「待ってたけど、こないから。こっちの方からくるかなと思って走ってきたら……鋭一、みつけた」
「ここ、学校から三駅も離れてるよ!?」
驚いた。確かに自宅の最寄り駅は、雑談で話したかもしれないが……平然と走ってこれる距離ではもちろんない。しかも葵は、息ひとつ切らしている様子がないのだ。
「だいじょうぶ。らくしょう」
葵は笑いもせず、平然と手だけでピースした。鋭一はびくっ、と反射的に一歩後退する。彼女のチョキは、ちょっと恐い。
「……? どうしたの鋭一。学校、行こう」
そんな鋭一に、葵は不安そうに首を傾けた。
「あ、ああ。そうだな。遅刻しちまう」
「……鋭一」
鋭一は答えて歩き出そうとする。そこに葵は足取り軽く、ぴょん、と近づいた。
「鋭一、目つぶし、よけてくれた」
「避けなきゃ両目を失うからね!?」
葵はニコニコとして、妙に嬉しそうだった。自分の技をかわされるのが、そんなに喜ばしいのだろうか。
しかし視覚を失う危険の後ですら、葵の笑顔はあまりにも可愛らしい。これで許せてしまうのが恐ろしくもありつつ、それでも可愛いものには逆らえない。
二人はぎこちないながらも並んで歩き、学校へ急いだ。
そうして、葵との学校生活が始まった。
鋭一と葵は別のクラスだが、まさに「付き合っている」というのに相応しく、昼休みになるとさっそく葵は鋭一の前に現れた。
もちろん教室は騒然となった。休み時間が始まると同時に、隣のクラスで噂の美少女が音もなく現れて鋭一に声をかけたのだ。
「鋭一」
第一声、葵が相手の名を口にしただけでもちょっとしたパニックが起きた。
声すら聞いたことがないのに、誰かと会話しているのを見ることすら初めてなのに、男子生徒のファーストネームがその小さな口から飛び出してくるなど誰が想像しただろう。鋭一は慌てて葵を手で制し、
「い、一色さん? ちょっと待……」
直後、目潰しの洗礼を浴びる。ゾクリと悪寒が駆ける。鋭一はのけぞり、死神の指先をなんとかかわした。
「——眼球ッ! ねえ眼球はやめよう!?」
「葵って呼ぶ。約束、したのに」
そう、一色葵を苗字で呼んではいけないのだ。
相変わらず、一切の躊躇も容赦もない指先である。鋭一はバクバクいう心臓を押さえる。
「鋭一、やっぱり記憶力が心配」
葵は眉をひそめ、どこか悲しそうな顔で首を傾けた。どうやら彼女が首を倒すのは「疑問」「困惑」のサインのようだ。
「な、舐めるなよ。ゲームのスキルなら三〇〇種類以上暗記してる男だ俺は。ただこう、下の名前で呼ぶには場所というか状況というか色んな要因が」
「約束を守らないのは駄目」
「目潰しするのはもっと駄目だろ……」
「だいじょうぶ。鋭一、よけてくれるから」
鋭一はため息をついた。その間も周囲のクラスメイトは大変である。
教室には「一色さんからスキンシップしたぞ!?」「下の名前で呼ぶよう要求したわ!」「お前ゲームだけが取り柄じゃなかったのかよ」「爆発しろ! 俺も巻き込んでいいから今ここで」などの声が飛び交っていた。
また、それを離れた席から唖然として見ている女子生徒もいた。最上珠姫である。
「は、はァ……? 鋭ちゃん……?」
しかし葵は、全くそれらを気にするそぶりを見せない。彼女は何の雑念もない瞳で、
「おなかすいた。行こう、鋭一」
と腕を掴むと、そのまま鋭一をズルズル引きずって教室の出口に向かった。
「えっ……ちょっ、うおおお?」
葵は平然とした様子だが、ものすごい力だ。鋭一は逆らうこともできず、教室を後にするしかなかった。クラスメイトの「野良猫ちゃん、意外と積極的……」などの声を背中に受けながら。
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