一色葵の好きなもの(2)

「はい、鋭一」

「おお、ありがと」


 例によって昼休み。学校。屋上に続く踊り場。

 パンを食べ終えた葵は、鋭一に煎餅せんべいを渡した。今日はチーズおかきだ。


 葵は煎餅が好きだ。いつも制服のポケットに持ち歩いているようだし、

 気に入った人にはそれを分けようとする。

 それが彼女にとって最上の贈り物なのだろう。


「……おいしい」


 葵は自分の分の袋を破き、ぱりぱりと齧った。

 顔をほころばせるその表情は、大変に愛らしい。


 好きなものに入り込んでいる時の女の子というのは、こんなにも微笑ましいものなのだ。


「……そうだ」

「む?」


 そこで何かを思いついたように、鋭一は手を打った。葵が首を傾ける。

 彼は思ったのだ。葵はいつも、鋭一の趣味であるゲームに付き合ってもらっている。ならば、逆があってもいいだろう。

 鋭一としても、葵のことは、もっと知りたいのだ。


「今日の帰り、ゲーム行く前にさ。ちょっと寄りたいとこあるんだけど。どうだ?」

「……寄る? お出かけ? デート?」

「えっ……えっと……まあ、そうだな!」

「楽しいところ?」


 葵は疑問の度合いをどんどん大きくしていくように、首をぐぐっと傾けていった。だが鋭一は胸を張って応えた。この質問の答えには自信があった。


「ああ。きっと――葵には、超楽しいさ」



 * * *



「お煎餅……たくさん……!!」


 葵は立ちつくしていた。

 そう。そこは、お菓子専門の量販店。破格の安値でたくさんのお菓子が売っている。この街でなくとも、どこにでもある店ではあるが……それが葵には、天国に見えた。


「どうだ、葵、普段より道もしないみたいだしさ。来たの初めてなんじゃない?」

「す、すごい……これは、すごい」


 葵はしばらく、放心したように店内を眺めていた。

 その聖域に触れるのをためらうように。


「鋭一。入って、いいのかな……?」

「ああ、もちろん。今日は奢るぜ? ……お菓子くらいだけどさ。俺だってプロだからな」

「えっ! ……いいの?」


 葵は目をいっそう輝かせ、顔を上げた。それと同時に、身を低くする。

 その動きに鋭一は違和感を覚えた。

 お菓子屋さんを前に、戦闘態勢をとる必要なんて――



 次の瞬間。

 葵の気配が消えた。



「あ、あれ……葵?」


 ”幽霊”の真価を発揮した葵は音もなく店に侵入。小さな頭がひょこひょこと縦横無尽に店内を動き回るのが見えた。

 だが店内は穏やかではなかった。興奮した葵はついにここで、暗殺者の「本気」を出してしまうのだ。


「――しょうゆ!」


 ボッ、と音を立てて葵の右手が突き出された。もしその軌道に人が立っていれば一撃で昏倒していただろう。だが葵が欲しかったのは人の命ではない。しょうゆ煎餅12枚入り1パックだ。


「のり!」


 さらに動きながら葵の目は、抜け目なく周囲の煎餅の配置を捉えている。次に右側に手を伸ばさねばならない事を彼女の身体は知っていた。そのために流麗な足捌きで体勢が変わっている。


「ざらめ!」


 そのまま流れるように半回転、左後方の商品に手を伸ばす。


「しお……カレー……チーズ……すごい、すごい!」


 他の買い物客をするりとかわし、ひとつ。逆の手でまたひとつ。空手の演武を舞うように素早く、鋭く、力強く。


 暗殺拳・墨式ぼくしきはその歴史の中で、ある程度は一対多も想定している。常に全方位に気を配り、狙うべき相手を見落とさない。次々と、煎餅を棚から『殺戮』していく。


「……えびせん……!」


 葵はここにきて真後ろに、次のターゲットを視認した。だが背後の棚との間には人が立っている。もちろん本来、ゆっくりと横を通らせて貰えば良い。だが葵はもはや、はやる気持ちを抑えられなかった。膝を曲げ、身を沈める。


 品物の補充にきていた店員は見た。ひらり、と頭上を舞う少女の背中を。


 葵は背面飛びで美しい曲線の軌道を描き、空中でくるりと一回転しながら棚の上部にあった煎餅の袋を掴み、


 そこで異変に気付いた。


「あ……」


 跳び過ぎた。らしくもなく、はしゃぎ過ぎてしまったようだ。このままでは着地予定だった通路を通り越し、さらに向こうの棚に激突してしまう。

 ……どうしよう。葵が後悔した、その刹那。


「……葵っ!」


 声が聞こえた。鋭一が店内に駆け込み、接近していた。

 鋭一は葵と違い、生身で鍛えているわけではない。ただのゲーマーだ。だが、ただのゲーマーにもできる事はある。


 鋭一は空中の葵に手を伸ばし、服を掴んだ。そのまま手を引き、葵の跳躍の勢いを殺す。落下する軌道が変化する。腕力がなくても、葵の動きを見切る動体視力さえあれば、それだけの事はできる!


 そのまま葵は鋭一のもとへ落ち、鋭一は葵を抱き止めた。



 店内に静寂が満ちる。



「「「お…………おおおおおお!!」」」


 そして直後、周囲から満場の拍手が起こった。


「……あ、危ないじゃないか……!」

「鋭一……ごめん」


 鋭一は慌てて周りを見回しながら言った。葵は少ししゅんとして、腕の中で縮こまる。

 こうして抱えてみると、あれほどの動きをする彼女の身体は本当に小さく、あたたかく、やわらかい。それが今さらながらに意外なように感じられて。


 しかし……本当に……やわらかい。鋭一は気が付いた。自分の手のひらが葵の「心臓の手前」にしっかり触れている事に。


「おわあ! ……ご、ごめんな、そろそろ離れようか」

「…………うん」


 鋭一が慌てて手を離すと、葵はなぜか、さっきの素早さが嘘のようにゆっくりと鋭一から離れた。


 彼女はぼうっと立ち尽くし、胸の前に手を当てている。


 鋭一は自らの手を見る。心臓の手前から感じた葵の心臓は、妙に脈打っていたように感じた。いや、日頃から他人の心拍に触れてるわけではないから、本当のところはわからないけれど。

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