7-2
墨式が暗殺拳として大いに振るわれていた時代と現代には、ひとつ決定的に大きな差がある。
殺人拳を受けておきながら、生き残ってしまう人間の存在だ。
暗殺稼業時代の墨式。その技の内容を知る者は、一色家にしか存在しなかった。技を受けて、生きて帰る者がいなかったからだ。
情報がないために、墨式の奥義は受ける者にとって常に未知であり、使い手は存分に初見殺しを決める事ができた。
今は違う。
VRだからこそ存在を許される暗殺拳は、しかし同時に「技を知られる」という代償を背負う事となってしまっていた。
墨式を受け、その凄まじさを知った者は他人に語るだろう。どのような技だったか。何をされたか。
加えて、現代には動画撮影技術というものがある。「プラネット」の動画再生機能は優秀だ。あまりにも、優秀すぎる。
ひとつの技を俯瞰でも主観でも鑑賞できるというのは、技を分析する者にとってはありがたく、技を使う者にとってはこの上なく恐ろしい事だろう。
優れた格闘者が繰り返し「体験」すればすぐに技は解剖され……少なくとも「何をされているかわからない」という事はなくなる。
nozomiなど一部のプレイヤーは、己の技を隠すようなスキルの使い方をする事もある程だ。
もちろん技を知る事と、それを破れるかどうかは別の問題だ。
しかし。然るべき対応力を備えた人間ならば……その技を事前に知ってさえいれば、実際に受けるのが初めてだとしても対処する事は可能だろう。
格闘家・山本道則のように。
山本には、プラネットの対戦動画を肴に酒を飲む趣味がある。
ある日、特に興味深いものを見つけた。噂のゴーストニンジャガールだ。
その技を一見し、日本酒をあおりながら彼は呟いた。
「これは面白い……だが、わかる」
* * *
「――ここからは、俺の時間でいいか?」
山本の声を聞くまでもなく、アオイには彼が背後に居る事がわかっていた。溢れ出す攻撃的な意思が、余すところなくアオイに向けられていたからだ。
背中を灼かれるような、熱を持った殺意。痛みすら感じたかもしれない。
アオイはすぐに振り返ろうと、反射的に身を起こしつつ腕を持ち上げる。
素晴らしい反応速度だった。鋭敏な感覚を持つアオイだからこそできる、人間の限界に近い超反応。
それが仇となった。
神速で反応したとしても、背後から技をかける方が当然速い。まして、技をかけるのは山本道則。
左腕で首を抱え込みにかかっていた山本は、アオイの腕が上がっているのを抜け目なく捉えた。
彼は腕の動きを、すくい上げるような軌道に変更する。アオイの左腕を自らの腕で絡めとる。
――そこからは、様々な事が起こった。
山本はアオイの片腕と首をまとめて捕らえた。
そのまま絞めにかかる。右腕が使えないため、肩と頭とで自らの左手首を挟んで固定。ネックスリーパーが決まった。
その時、同時に足も出ている。後ろから相手の内股を刈り、立ち上がりかけていたアオイのバランスを崩す。
再びうつぶせとなるアオイに覆いかぶさるように、山本は彼女を押さえ込んだ。
そして相手の両脚の間に自らの両脚を差し入れ、左右の足首に自分の足を絡めて固定する。
全ての動きが並行し、相手の全身を機械的に制する。
時間にして1秒以下。こうして、山本の寝技が完成した。
今やアオイは片腕を万歳した状態で腕と首を絞められ、下半身も封じられている。
もはや左右に身をひねる事すら満足にできず、自由なのは右腕のみ。とはいえ、これほど密着した相手にはヒジ打ちも当たらない。
頭部も左腕とセットで抱え込まれているため、かなり動きが制限される。後ろの相手に頭をぶつける事すらかなわない。
まさに完封。
右腕を欠いてなお、この完成度で技を決められるのが山本道則だ。
「おっと……これは見事! もはや詰んだか?」
「そうかもしんねえな。ここまで極まっちゃうと俺でも……あ、まてよ。右腕が動くなら……いや、やっぱダメだ。詰んでるわコレ」
実況席にて。ランキング1位「Z」は、検討の末に逆転の可能性を却下した。
やはり熟達者の寝技は恐ろしい。一度技を完成されてしまうと、状況を覆すのは相当に難しくなる。
――左腕は? 何もできない。
――頭は? 動かせない。
――両足は? 封じられている。
――肘は? 膝は? 首は? 指は? 肩は? 胴は?
何かできる事はないのか。コンマ1秒にも満たない時の中でアオイの中に様々な案が生まれ、次々に否定されてゆく。
状況を打破する光が見えかけては消える。重苦しい闇のトンネル。
さらに、残された時間も少ない。
例えば頸動脈を絞めた場合、現実において人間の意識が「落ちる」のにかかる時間は数秒から十数秒。
プラネットにおける絞め技も、概ねそのくらいでHPが尽きるように出来ている。
アオイはそれまでに、この技から逃れねばならない。
頬が、首筋が汗ばみ、熱を持った吐息が漏れる。プラネットのVR技術は汗すらも再現する。
操作者に痛みはなく、心肺への負担もない筈。しかし……ゲームでも興奮し、緊張すれば息は荒くなり、汗も出るだろう。
必死になるとはそういう事だ。全力で勝利を求めるとはそういう事だ。そしてそれは、強者との闘いでこそ味わうことができる。
アオイは今まさに没入していた。過去の彼女の人生に存在しなかった、勝負の世界というものに。
少女は盲目的に答えを探す。勝利に繋がる答えを。
――右腕。唯一動かせる、右腕は?
苦しげに空を掻いていたアオイの右手が、後ろに向いた事に山本は気が付いた。その時点で彼は、相手の狙いに思い当る。
山本よりも幾分か小さな手が、側頭部に触れる。やはりそうだ。
眼球。
(……いいだろう)
山本は覚悟を決めた。
自らの手首を固定するのに使っている以上、頭を動かす事はできない。目の一つくらいはくれてやる。
彼が考えるVRと現実の最も大きな違いは、痛みの有無だ。
そもそも格闘技の技というものは大半が、相手が痛みを感じる事を前提に出来ている。常に痛みと向き合っている格闘者は痛みを恐れないのでは? などと言われた事もあるが、何をバカな、と思う。ヒトは誰であれ根源的に痛みを恐れる。
が、VRにはそれがない。
つまり、HPさえ尽きない限り、いくらでもダメージ覚悟の無謀な立ち回りができる。腕が折れようが、片目を失おうが、次の試合には元通りだ。選手生命に関わる事もない。
即ちここでは……「あえて己の片目を潰させる」選択すらも可能となる。
アオイの親指が山本の右眼を探り当てた。直後。右目の視界が赤く明滅し、ブラックアウトする。……潰された。
初手から目突きをかけてきたような少女だ。このくらいはやるだろう。だが、問題はない。片目を失おうが彼の寝技には一切の支障がない。
彼女の攻撃は命には届かない。山本の締めは届く。それが現実である。
そしてここでは、過程で何があろうが最後に命を取ったほうの勝ちだ。
山本は勝負を決めるべく、さらに締めを強めようとした。左腕に力を込め、頭部でぎっちりと固定する。
その頭部が、突如として外側へ引っ張られた。
「――ッ!?」
何が起きたのか、山本が理解したのはコンマ1秒後。目を潰したその手を、アオイは離していなかった。どころか、そのまま顔を掴んで動かしたのだ。
そこには情けも慈悲もない。一切の躊躇もない。
それは山本の想定にない行動だった。VRとはいえ、そもそも本気で相手の眼球を潰そうなどという気持ちに、人はなかなかなれるモノではない。まして、眼孔ごと相手の顔を掴もうなど!
控室で観戦していた鋭一は改めて戦慄した。
アオイ……一色葵は、ただの格闘者ではない。ただのゲーマーでもない。
彼女が使うのは――人を殺すための技!
山本の頭部を右手で引き剥がすと同時、アオイは拘束されていた左腕を思い切り下げる。二点同時の動作により、強引にスリーパーが外される。
アオイは自由になった左手を地面について身体を反転、地を蹴ってその場を離れた。本来ならば山本は、彼女を掴むなり殴るなりして妨害しただろう。だが、左腕は振り解かれたばかりで届かない。そして右腕は既に壊されている!
だが、逃がすわけにはいかない。右眼と右腕の死んでいる山本は、このまま立ち技での応酬などに持ち込まれれば勝ちの目が消える。
「ウ……ウオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
山本が吼えた。
実況席が、観客席が驚き、身を竦ませた。これまでの山本の戦いぶりは常にクレバー。乱れる事などまず無かった。その山本が、猛っている。
叫ぶ彼の肩が、背中が、僅かに震えている事に気づいた者はいただろうか。咆哮し、突撃する彼の首からは汗が滴る。
山本がなぜ叫んだのか。激戦による興奮。勝利への必死さ。それもあるだろう。だが、もう一つ。
それは、恐怖。
彼は恐れていた。どこまでも冷徹な目の前の少女が、怖かったのだ。
飛び離れたばかりで体勢が十分でないアオイの横から、山本は低い姿勢のタックルを仕掛ける。組み合いにもつれ込めば勝機はある。
アオイは山本へ向き直る事はせず、横向きのまま腰を浮かせて移動の姿勢を取る。足は、爪先立ちの形。
山本が迫る。彼は目前の相手の腰を捕まえるべく両腕を前に構え、
――キュッ。
直後、その相手を見失った。
山本の顔に影がかかる。眼前にいた筈のアオイは、彼の真横に移動していた。何の予備動作もなく、瞬き一つにすら満たない間に。
瞬間移動としか思えない。だが<ショートワープ>でもない。
横を向いたまま平行移動したアオイは、山本の隣で彼を見下ろす形になっていた。山本はアオイへ向き直ろうとした。だがそれは叶わなかった。彼の反応よりも速く、重い手刀が首に振り下ろされた。
元々、『
だから彼の首は、その加撃に耐える事はできなかった。
「…………見事、だ」
それだけ言うのがやっとだった。彼が口を閉じるよりも早く、その身体は爆発した。
[FINISH!!]
[WINNER AOI]
アオイは直立姿勢に戻り呟く。最後に使用した移動技の名を。
「――墨式、『
実戦でも、通用した。問題なく使えると考えて間違いないだろう。
「できた……」
急速な移動のため着地に難がある技だ。だが、<ストロングガム>――足裏を固定する接着剤のスキルを使って着地する練習を、彼女は積んできた。
一色葵は『
「ありがとう、鋭一」
アオイはこの試合を観ているであろう、スキルを教えてくれた友人に感謝を伝えた。
* * *
完全にブラックアウトしたゴーグルを脱ぐと、目の前には試合前と変わらぬ少女がいた。涼やかで感情の薄い目つき。水色のワンピースを着た小柄な体躯。
これが山本道則を倒した……そして恐れさせた存在。
「いや、参った――な。本当にただの女の子じゃないか。ハハ」
自嘲ぎみに山本は笑った。対する葵は首を傾ける。
周囲……実況席や観客席からはどよめきが起こっていた。
正体不明の”ゴーストニンジャガール”。強いと言われてはいたが、まさか「確かな強さを持った上位者」の見本とも言える山本を倒すとは思っていなかったのだろう。
だが山本はもう理解していた。目の前の少女はただの強者ではない。その小さな身体の中に、いったいどれほどのモノを棲まわせているのだろうか。先ほど見たので全てだろうか?
――違うはずだ。彼女はさらに深い。なんとなく、そんな気がした。
「まったく、今までどこに隠れていた? お前ならこっちでもきっと――」
「……わたしは」
アオイは思わず口を挟んだ。
現実で技を振るった時の事が頭をよぎった。鋭一に止められた時の事が。
「わたしは、ここでしか戦えないから」
「……そうか」
「うん」
山本は少し残念そうに葵を見た。いや、理解はしている。戦う場所は本人が決める事だ。
彼にしても、ゲームに
「わかった。なら、また
「うん」
山本は握手を求めた。その大きな手を、少女の小さな手が握り返した。
こんな小さな手が、本気を出せば山本の眼球を貫く事ができる。
まったく、恐ろしい話だ。
ベスト4へ進む1人が決定した。
残る準々決勝は、あと3試合。
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