3-3

 14歳の時に、父が死んだ。


 最初はただただ、わけがわからなかった。理解ができなかった。

 一週間ほどして父がもういない事を実感すると、その時になって悲しくなり、涙が止まらなくなった。

 そして一か月が過ぎ、涙も枯れ、父のいない生活がようやく日常となった頃。


 一色葵は、何もやる事がなくなった。


 物心ついた時からの葵の生活は、学校と修行だけだった。

 学校には欠かさず通い、授業はすべて真面目に受ける。

 授業が終わればまっすぐ家に帰る。そこには父が待っていて、家に伝わる「技」の練習が始まる。


 その生活がつまらないと思った事はない。目の前の課題をこなし、ひとつひとつ技を身に着けていくのはむしろ楽しいと言っても良いくらいだった。

 教わった「技」はどこにも使い道のないものだったけれど、できる事が増えていくのが単純に面白くて、葵にとってそれは生きがいに等しかった。

 葵のやるべき事は常にはっきりしていた。彼女の進む道は父が、一色家の血筋が、明確に示してくれていた。それで彼女は満足していた。


 なのに、その道は突然に消えてしまった。


 父がいなくなり、「墨式」が途絶えることが確定し、葵が技を継ぐ意味もなくなってしまった。墨式は完全な口伝かつ一子相伝であり、もちろん教科書もない。葵はここから先をどうやっても身に着けることができない。


 もう修行に時間を使う必要はない。葵は全てから解放された。

 だが彼女にとって解放とは、虚無そのものだった。


 とにかく、する事がなかった。

 学校から帰っても目の前には何もなく、今までのように身体を動かして覚えた技を復習してみても、ここから先に覚える技はどこにもない。

 とはいえ他に何をすればいいのかも、わからない。まず世の中にどんな「する事」があるのかを、葵は知らなかった。


 何もない。

 何もない。

 何もない。


 陽が落ちていく薄暗い部屋で、ただただ横たわった。

 そうしていれば時間は過ぎてくれた。


 見かねた母が漫画を買い与えてくれた事もあった。それはいくらか救いになった。

 一度読み終えても、同じものを何度も何度も読んだ。

 やがてそれにも飽きてきた頃、自分自身と漫画のキャラクターを戦わせるという遊びを見つけた。これは革命的だった。


 色々な技を覚えた自分は、フィクションの格闘家とも互角以上に戦うことができる。使いどころのなかったはずの技は、漫画の中でだけは使う事ができた。


 孤独な部屋の片隅で、彼女はほくそ笑んだ。


「……わたしの勝ち」



 * * *



 ヒットアンドアウェイ。

 それがデュエル・ルールにおいて鋭一が見出した戦い方だ。


 自分には、確実に初撃を決める力がある。ならば初撃の後、二度・三度と応酬を続けてやる必要はない。

 距離をとり、仕切り直し、もう一度初撃を決めれば良いのだ。

 それを繰り返せば……理論上、ダメージを受けるのは相手だけの筈である。


 そのための鍵となるのが<ショートワープ>。問答無用で距離を取ることのできる強力なスキルだが、発動時に一瞬の硬直が発生するのと、相手に掴まれていると発動しないという弱点がある。

 だから至近距離で確実に発動させるには、相手も硬直している時間を狙うしかない。例えば、こちらの攻撃が決まった瞬間——とか。


 A1は立ち上がり、再び構えた。アオイもまた自然体で立ち、用心深くA1を見ている。一瞬たりとも警戒は切らせない。アオイはいつ、突然のタイミングでアクセルを踏み込んでくるかわからない相手だ。

 相手の呼吸を読む。吸う。吐く。吸う。吐く。吸う。吐く。吸


 アオイが動いた。


 呼吸のリズムと関係ないタイミングでの動き出し。間違いなく意図的にやっている――なんて技術だ。アオイは真横にステップしA1の視界から消えた。

 どこから来る? A1は構えを維持したまま真後ろに跳び、間合いをとる。


 両肘を引いた前傾の構え。界隈では「飛蝗バッタ」などと揶揄されるこの構えにはいくつかの戦術的意図がある。

 正面からこの構えに対する場合、顔面だけが極端に狙いやすい形となっているのだ。逆に手足は後ろに引っ込んでいる形のため、四肢は狙いづらい。

 この構えは足元がかなり無防備になるが、ローキックなどを決めようとするとかなり近づく必要がある。だがそこは既に、A1の掌打の圏内である。


 視界の端で、花びらが散った。


 ――アオイの装束がちらついている。A1はそちらに向き直る。次の瞬間には、顔面に向けて回り蹴りが迫っていた。

 A1が止まる。蹴り足が鼻先を通過する。相手の狙いを顔面に絞ってしまえば、見切りは容易になる。……かなり、度胸は要るが。


 蹴り足を下ろして大地を踏み、アオイは接近しながら再びの目潰しを繰り出す。

 ここだ。

 A1が閃光を放つ。同時に、彼は自らの眼前を横切るようなコンパクトな掌打を出した。瞬速の掌が、アオイが攻撃のために出していた右手を打ち抜く。


 これもまた、一撃。


 そのまま繋ぐように<ショートワープ>を発動。後方へ距離を取る。

 完全にパターンに入った。思った以上に形になっている。

 これならば——と鋭一は手応えを感じ、みたび構えを取った。


 アオイの姿が無い。


 背筋を悪寒が駆けた。この構えは、横や後ろからの攻撃には対処できない。

 だから間合いには常に注意を払い、相手を視界に収めておく必要があるのだ。敵が地を蹴る音を探す。……真横。右だ。


 アオイのアバターのカード構成はスピード1、パワー1、テクニック1。対するA1はスピードに3。速度ならばこちらに分がある。


 右へ向き直る。<フラッシュ>発動。みたび、閃光。アオイは構わず、A1の顎を狙う前蹴りを放つ。A1はわずかに下がる。蹴り足が空振り、上に突き抜ける。A1はここで前進に転じ、反撃の掌打を——違う!


 ギリギリで前進をやめたA1の目の前を、もう一度蹴り足が、下から上へと通り過ぎていった。アオイは前蹴りの後、軸足でも地を蹴ってバク転しながら、二連続の攻撃を出したのだ。


 ぞわり。


 鳥肌が立った。鼻先を、彼女の爪先が掠っていく。ダメージにこそならないが、A1は掌打を出せないまま先に相手に触れられた。初めての事だった。

 やはり……アオイは、一色葵は凄まじい。


 目を見開く。緊張感に肌がビリビリと震える。

 ふと、A1は自らの頬に水滴がついているのに気が付いた。プラネットのリアルな再現性は、アバターに汗すら流させる。

 自分では汗をかいているつもりはなかったが――

 アオイがバク転から着地する。彼女は再び立ち上がり、顔を上げた。


「…………えっ」


 鋭一はぎょっとした。思わず声までも出た。

 アオイは瞳を潤ませ、目尻からこぼれそうな程の涙を溜めていた。

 彼女は地を蹴り、真横に跳んだ。A1は慌てて構えを取る。


 次はどこから来る? どうやって来る?

 音で相手の動きを探ろうとするA1の耳に……あろうことか、声が届いた。


「…………鋭一」


 若干震えて、かすれた少女の声。

 今度は左からだ。アオイは一度離れ、助走をつけてからの飛び蹴りを繰り出す。

 A1は手を抜かず<フラッシュ>。


 閃光の中から、迫る蹴りとともに、声が続く。


「楽しい……」


 掌打でアオイの蹴りを横から打ち、狙いをずらす。


「どうしよう……わたし、今、楽しいよ…………!」


 ぱたぱたと、A1の頬に水滴が付いた。涙の雫がこちらにまで飛んでいた。

 A1は<ショートワープ>を使おうとした。その前に、二本目の足が彼の腕を蹴った。重い衝撃に腕が痺れる。


 そのままアオイは地面に落ちたが、間髪入れずに手をつき、足元すれすれを刈るような足払いを出す。ワープを使う暇は与えられない。A1は短く跳んでかわす。そのまま、攻めるアオイと避けるA1という形で戦いは続く。


「凄い、どうしよう、楽しい、楽しい……!」


 凄まじい連続攻撃をかわす。そのたびに涙が飛ぶ。

 ああ、ああ。

 鋭一にはその気持ちが伝わった。


 戦うというのは本来、大変な快楽の伴う行為だ。持てる力を尽くし、互いの全霊をぶつけ合い……敵を倒す。そこには根源的な興奮と悦びがある。

 もちろん日常でそれは許されない。だがVRでなら、できる。


 目の前に倒すべき敵、倒してもいい敵がいる。

 それは全力で「ぶっ殺し」ても構わない相手だ。

 ここには痛みも怪我もない。

 ここでなら、人はどこまでも獰猛になれる。電気のヒモに対してシャドーボクシングするくらいの気軽さで、人を殴れる時代がやってきた。


 ”プラネット”は、戦いのメリットだけを人々に与えたのだ。




 一色葵はいま、戦いを心から楽しんでいる——!!




 アオイは右、正拳。A1はかわす。

 続けて左、中段の回し蹴り。A1は腕でガード。

 アオイは片足立ちのまま、もう一度左足を下段へ。

 連続蹴り。ローが入った。


「うおっ、ぐっ、ちッくしょう……!」


 A1は構えを解くのを余儀なくされた。ある程度間合いを保っていなければ、あの構えは意味をなさない。

 つまり、地力を比べ合う絶望的な殴り合いをするしかない。


 アオイは嵐のような連撃を繰り出し続ける。思うがままに、全力で体を動かした。攻撃を一発当てるごとに、突き抜けるような快感が身を貫く。


 一筋縄ではいかない、鋭一のような相手。

 出会ったことのない戦法。

 それを連撃で崩した時の達成感。


 漫画の中でしか使えなかった技を、全力で振るうという事。

 その全力をぶつけるに値する相手、応えてくれる相手がいるという事。

 そしてその相手を——戦いで上回るという事。


 全てが葵にとって鮮烈で、世界が開けたような感覚だった。喜びが身体中に満ちていく。我慢できない。


 容赦のない打撃の渦。一撃一撃が重い。A1のHPが、ガリガリと削られていく。

 攻撃を受けるたび、アオイの顔が目に入る。


「ははっ……葵、このやろう……」


 A1は力の差を思い知りながら、歯を食いしばって笑った。


「そんな顔も……できるんじゃねぇか…………!!」


 アオイがハイキックを放つ。スラリと伸びた脚、全身にみなぎる躍動感、そして……表情。一枚の絵画のように美しい姿だった。


 A1は反撃に転じるべく、その蹴り足を掌打で横から打ち、方向を変えた。

 しかし罠であった。

 アオイは弾かれた脚を戻しながら腕を伸ばし、A1の手首を掴んだ。


 彼女に捕まるという事……それは死の宣告に等しい。


「……鋭一」


 アオイは目を細め、恍惚とした表情を浮かべた。

 それは初めて見る、彼女のはっきりとした「笑顔」だった。


「ありがとう」


 その瞬間。鋭一は初めて、本当に初めて——

 負けてもいい。そう思えた。


「……ああ、どういたしまして」


 彼は目を閉じた。そして笑った。

 直後、天地が逆になった。

 頭部に重い衝撃。


 それと同時に、鋭一の見ていたゴーグルの視界はブラックアウトした。




 [FINISH!!]


 [WINNER AOI]



 * * *



 その日の試合は、その一戦のみとなった。

 一方的だった今までの戦いとは、消耗の度合いも違う。

 どちらかというと疲れ切っていたのは鋭一の方だが。


「いやー、すごいね……! なるほど鋭ちゃん、あたしも理解できたよ」

「だろう」


 珠姫は素直に驚いていた。練習中と言っていた鋭一のデュエル用スタイルは、決して完成度が低くはなかった。それを数回の交錯で、しかもスキルも使わずに攻略した葵のセンスは瞠目どうもくに値する。

 当の葵はゴーグルを脱いでから、放心したように座って宙を見ていた。たまに、思い出したように手元のお茶をすすっている。


 予想通り……いや、見立て以上に彼女は強かった。

 そして、あれほどに戦いを、心から楽しむ精神。

 全身で喜びを表現するその戦いぶりに、鋭一は追い詰められながら、気持ち良いとすら思っていた。


 だから、もう一度あの質問をしようと思った。


 実力があるから、だけではない。

 もっと単純で強い理由ができた。

 彼女が勝つところをもっと見たい、見続けたいと、そう思ってしまったのだ。


「葵」


 鋭一は葵の隣に座った。気が付けばそこは定位置になりつつあった。


「……鋭一」


 葵はいつもの表情に戻っていた。どうやらそうそう、あそこまでの表情は出ないものらしい。


「これは俺の勝手な希望……エゴだ。嫌だったら断ってくれていい」

「?」


 鋭一はここで一呼吸置き、そして言った。


「やっぱり本気でこのゲーム……やってみないか?」


 葵は顔を変えないまま、ぱちくりと目を瞬かせた。


「本……気」

「つまり、そう……一番を目指す。最強になろうって事だ」

「一番」

「今日、楽しかっただろ? アツくなれただろ? 上にはもっと面白い相手もいっぱいいるし、勝てたらきっと……楽しい。どうかな」


 葵は再び宙を見て、少し止まった。もっと面白い戦い、というのを想像してみたのかもしれない。少しして彼女は顔を下ろし、横の鋭一を見た。


「……条件、いい」

「じょ、条件?」


 少し意外な単語が返ってきて、鋭一はやや狼狽えた。

 何だろうか。可能な範囲でなら、もちろん叶えてあげたいが……。

 が、そんな心配はすぐに霧消した。

 それはとても自然な、彼女の願いだった。


「明日もまた……遊んでくれる?」


 とても楽しいゲームをみつけた。

 とても楽しい遊び相手をみつけた。

 だから、遊びたい。明日も明後日も、ずっとずっと。


 一見当たり前で、でも、一色葵にとっては当たり前でなかったもの。


 そうだ、恵まれた環境にいて確かに忘れていた。気軽に楽しく、そして本気でゲームで戦える相手……それは本来とても得難く、大切なものだ。彼女が望むなら、自分は、そういう存在になろう。

 鋭一は笑いかけた。


「もちろんだ」






 VR個室を出て、駅前で二人は向かい合う。

 帰りはここでお別れだ。鋭一は徒歩で、葵は電車で帰る事になる。

 珠姫は別の商談があると言って、一足先に街へ消えていた。


 改札を通る前、葵は一度振り返り、ばいばい、と手を振った。

 鋭一も応えるように軽く手を振り返す。

 すると葵は、ぎりぎり鋭一に届くくらいの小さな声で


「……また明日ね」


 と呟いた。

 ――何だよ、約束したんだから、そんな遠慮がちになる事なんてないのに。

 鋭一はわざと、大きな声で返事してやった。


 そう、約束しよう。明日からまた始まる日々を。


「おう! また明日な!」

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