1-2
午後の最初の時間割。一年B組の女子はプールの授業だった。
だが昼休み後に教室に戻るのが遅れてしまい、慌ててプールに向かったが、着替えの終わった更衣室には既に鍵がかけられていた。
だから授業を受けるために近場の部屋で着替えようとした。そういう事らしい。
「いや、見ちゃったのはホント、その、悪かったけども。それにしても、わざわざあんな部屋で着替えるなんて……」
「空いてたから」
それが鋭一にとって、かつて最も重要だった疑問の答えだ。
だが今はもう、そんな事はどうでも良くなっていた。
授業の後、鋭一と葵は高校を出て街を歩いていた。
放課後に女の子を連れて歩いている。「ゲームしか取り柄のない」普段の鋭一ならばありえないシチュエーションだ。
廊下での交錯の後。「これは……人を殺すための技だから」と、そう呟いた葵は会話を終え、うつむきながら今度こそ準備室に戻ろうとした。そこを鋭一が再度呼び止め、苦し紛れに誘ったのだ。
——俺がどうしてこんなに動けるのか知りたくないか?
と。
そして結果として、放課後に会う約束を取り付ける事に成功した。鋭一から見て、葵の得体の知れない強さは興味の対象だった。葵にとっても、そうだったようだ。これで何とか、あの場で関係が切れてしまう事はなくなった。
しかし、苦労はここで終わらなかった。何しろ相手は一色葵である。放課後の待ち合わせひとつとっても、一筋縄ではいかなかった。
HR後の教室、鋭一の席の周囲は騒然となった。
終業と同時に、隣のクラスで噂の美少女が音もなく現れて鋭一に声をかけたのだ。
「鋭一」
第一声、葵が相手の名を口にしただけでもちょっとしたパニックが起きた。
声すら聞いた事がないのに、誰かと会話しているのを見ることすら初めてなのに、男子生徒のファーストネームがその小さな口から飛び出してくるなど誰が想像しただろう。鋭一は慌てて葵を手で制し、
「い、一色さん? ちょっと待……」
瞬間、二本の指が彼の両目に向けて突き出された。爪の先端が眼球の至近にまで迫る。鋭一は即座に頭を後ろに倒し、横から手を出してなんとか葵の指を掴んだ。問答無用で失明の危機だった。
「うおおおおおおおお眼球!!!」
「葵って呼ぶ約束」
「い、いや分かってる。分かってるよ?」
「鋭一は記憶力が良くない?」
どうやら苗字で呼ばれたのが気にくわなかったようだ。葵は初対面でもそうしたように首をかしげた。おかっぱの黒髪が揺れる。表情はほとんど変わらないが、少し眉をひそめているようにも見えた。もしかして馬鹿だと思われただろうか?
「舐めるなよ。ゲームのスキルなら300種類以上暗記してる男だ俺は。ただこう、下の名前で呼ぶには場所というか状況というか」
「約束を守らないのは駄目」
「目潰しするのはもっと駄目だろ……」
鋭一はため息をつき、おそるおそる葵の指から手を離した。
その間も周囲のクラスメイトは大変である。教室には「一色さんからスキンシップしたぞ!?」「下の名前で呼ぶよう要求したわ!」「お前ゲームだけが取り柄じゃなかったのかよ」「爆発しろ! 俺も巻き込んでいいから今ここで」などの声が飛び交っていた。
しかし葵はその全てが耳に入っていないかのように
「放課後。行こう、鋭一」
と言って鋭一の腕を掴み、そのまま教室から連れ去ってしまったのだった。
そして今はこうして、二人で駅前を歩いている。
「いや、放課後にしようって言ったのは俺だけどさ、教室の外で待ってれば良かったんじゃないかな……」
「放課後になったから会いに行った」
「……クラスの人とは話さないのに、俺んとこには自分から来れるのか?」
「約束してたから」
「お、おう」
葵は何も気にしていない様子で言い切った。そう言われてしまえば、確かにそうだ。
「しかしなあ。準備室の時もそうだったけど、いきなり目潰しってのはどうなんだ」
「丸腰の時に後ろに立つから」
「そ、そんな理由で」
「反撃しなきゃと思って」
「そ……そうか」
鋭一が歩きながら話しかけると、葵は抑揚のない声でぽつりと返事をする。
彼女の人形のような顔にはおよそ表情と呼べるものはなく、何を考えているのか読み取るのは難しい。
音もなく後ろから着いてくる小柄な身体は、ついさっき稲妻のごとき動きを見せたものとはとても思えなかった。
葵について分かっている事は少ない。「”裏”の人」とは、「人を殺すための技」とは何なのか。
ただ、ひとつはっきりしている事もある。事情はわからないが、一色葵は「戦うための動き」ができる。今はとりあえずそれで十分だった。
大通りを曲がり、一本路地に入る。目的地はもうすぐだ。
「まだ着かないの」
「ん? もう少しだよ」
「もしかして場所を忘れた?」
「え、そんな事ないけど」
そんなに歩かせただろうか。鋭一は葵を振り返った。彼女は涼し気な目つきを少しだけ優しくして言った。
「鋭一は記憶力が心配だから」
「こ、コノヤロウ。お心づかい痛み入りますわ」
自らを「葵」と呼ぶよう頼むのと同時に、彼女は鋭一のこともごく自然に、特に断りなく下の名前で呼び始めていた。何か特別な感情があるというよりは、幼稚園児が男の子を名前で呼ぶのと同じようなノリを鋭一は感じている。微妙な空気の読めなさといい、葵はどことなく子供っぽいところがある。
「じゃあどこに向かってるの」
いつもの無表情に戻った葵が鋭一を見上げて聞く。鋭一は路地の先に見えてきた看板を親指で示した。
「俺がどうして強いのか、どのくらい強いのか。それを見せられる場所だ」
* * *
[FINISH!!]
[WINNER A1]
試合開始からわずか五秒。A1の掌底が相手の心臓を打ち抜いていた。
戦いの余韻を少し味わってから鋭一はゴーグルを外し、葵を振り返る。
彼女は先ほどまで鋭一の戦いが映されていたディスプレイを、未だ食い入るように見つめている。
画面は観戦モードに切り替わっており、現在行われている別の試合が表示されていた。画面の中のアバターが動くたびに葵の身体も左右に揺れる。
駅前のレンタルVRルームの個室は、二人で使うには十分すぎる広さがあった。壁際に大きめのディスプレイとゲーム機器がひとつあり、画面と向かい合うようにソファが配されている。
自前で機器を買えるようになるまでは、ここにもよく通ったものだ。カラオケや漫画喫茶のように、それなりの繁華街ならばどこにでもあるのも嬉しい。
ただ、顔なじみの受付のお姉さんが何やらニヤついていたのは頂けない。後で弁解しておく必要があるだろう。
ソファで横並びに女子と座っているというのは少々落ち着かない気もする。だがとにかく今は、目的を完遂する事だ。
鋭一はゴーグルを見せびらかしながら葵に話しかけた。
「どうだ? これが『プラネット』……仮想空間で本気で戦う、ゲームだよ」
「……ゲーム」
「でも、実際に俺が戦ってるみたいなもんだぜ? 景色も、音も、全部リアルに感じられる。それで俺がこう動こう、って思うと、キャラクターに伝わって動くんだ」
鋭一はゆっくりと掌底のモーションをとって見せた。少し興奮気味だった。自分がハマっているゲームの話をしているのだから当然ではある。だがプラネットは、鋭一にとって単なる娯楽以上の意味を持っている。
サドンデス・ルールは通常の「デュエル・ルール」に比べると若干マニア向けな競技だが、それでも世界中の人間が参加している。そして彼はその国内トップだ。VR格闘は鋭一にとって競技スポーツでもあり、プライドをかけて戦う真剣勝負の場だ。
だから説明にも熱が入る。
「もちろん殴り合うのはアバターだから、俺みたいにガタイが良くない奴でも、女の子や子供でも、純粋に格闘センスを競えるし、鍛えられる。ゲーム始めてから体育の成績が上がったって奴も多いんだぜ。俺は、ここで強くなった」
彼は誇らしげに笑って言った。
「凄えだろ。そうだ、俺の最高記録の動画見る? 0.6秒で決着する、それはもうヤバイやつが」
「凄くない」
そして、少女の冷たい声にあっさりと否定された。
「……なにィ」
流石に少しむっときた。
葵は画面に視線を固定したまま、
「今の相手は全然凄くなかった。遅いし下手」
「ほう」
彼女にとって、このゲームがどういったものかというのは、どうでも良い事のようだった。問題はそこにある戦いが凄いか、凄くないか。そういう事かと納得しつつ、鋭一は口の端を釣り上げて笑った。
「なるほど。じゃあ、やってみて貰おうじゃねーか」
実はそれこそが、彼女を今日ここに連れてきた真の目的だ。
VRの操作感覚は、現実で身体を動かすのとかなり近い。つまり現実であれだけ動ける葵ならば……絶対に、ゲームも強い。それが見てみたかった。
鋭一はVRゴーグルを両手で掴むと、葵の頭に強引にかぶせた。
突然視界を遮られた葵が驚いて跳ねる。
「!?」
「大丈夫。このゲーム、操作方法とかねーもん。ゴーグルと、あと手首と足首にリングつけとけば、身体を動かそうと思うだけでアバターが勝手に動く。『動かそうとするだけ』だ。実際に動く必要はないからな?」
「……戦うの、わたしが」
「その通り。アバターはサンプルがあるし、フリー対戦なら、まあ……今くらいの全然凄くない奴と戦えるだろ」
言いながら、画面上のタッチパネルを操作してフリー対戦に接続する。ルール指定はサドンデスの一対一。フリーは負けてもランキングポイントの変動がないため、カジュアルなプレイヤーや初心者が数多く潜っている。
すぐに対戦相手が見つかり、戦場のローディングが始まった。鋭一は葵の肩に手を置く。
「本当はスキルとか、もうちょっとゲームっぽい要素もあるけど……今は気にしなくていいよ。とにかく目の前の相手をブッ飛ばしてみてくれ」
「……ぶっ飛ばす」
「学校で見せてくれた動きを、もっかいやってくれれば良いからさ。目潰しだって本気でやって構わないぜ? そういうゲームなんだから」
その言葉に、葵がぴくりと反応するのが肩から伝わった。
「……いいの?」
「いいさ」
「首も折っていい?」
「へ?」
突然出てきた別の残虐行為に、鋭一は即座に返事ができなかった。
ローディングが完了し、闘技場に二人の戦士が降り立つ。
鋭一は試合が始まる前になんとか、一言だけを返した。
「良……いよ」
「わかった」
葵はこくりと頷いた。画面の中のアバターも同じ動きをした。
[SUDDEN DEATH 1on1]
[READY]
[FIGHT!!]
試合が始まった。
相手は両手にサラシを巻いた拳闘士。葵は何の変哲もない、デフォルトの道着を着た女性アバターだ。
対戦相手はボクシングスタイルの構えをとっていた。
軽やかなフットワークで身体を右、左、再び右へ。
フェイントを交え踏み込みながら、目にも留まらぬジャブが放たれる。
当たれば試合が終わるその拳は、しかし、
葵のアバターの眼前でピタリと止まった。
――いや、違う。
相手の拳の射程ギリギリまで、葵がわずかに身を引いたのだ。
しかも身体は引きながら、右手は前に出ている。伸ばされた指は二本。
拳闘士の動きが硬直する。眼球に指先が迫れば誰だってそうなる。目潰しに慣れている者などそうはいない。それがたとえ……VRの中であっても。
しかし当然それが、致命の隙となった。
そこからは、様々な事が起こった。
葵の右手がチョキからパーに変わった。
目潰しは隙を誘うための布石にすぎなかった。
眼球よりも上に狙いが変化し、相手の頭を掴む。
同時、ジャブで目の前に迫っていた右拳を葵の左手が捕らえている。
さらに相手の頭部と右手を手前に引き、鋭いヒザ蹴りを鳩尾に突き刺す。
そしてそのまま残った軸足で地を蹴った。相手の体が後ろに傾く。葵の体が浮く。
変則の投げ技だった。
葵は拳闘士の背中を地面に叩きつけながら、左手を強く引いて敵の右肩を壊しつつ、鳩尾に埋まったヒザを押し込み、頭部を掴んだ右手を捻って首を破壊した。
全てが、瞬きひとつ許されない重要な出来事の連続だった。
敵のHPが1から0に変わる。
減った数字はたったの1だが、今の技ひとつでいったい何度相手を殺しただろう。
決着と同時に敵アバターが爆発する。爆煙の中、葵が呟いた。
「できた……
瞬間、鋭一の全身は、同時に襲ってきた悪寒と興奮によって飲み込まれた。
「な……なん……っ」
思わず声が出たが、何と言っていいかわからない。
今のは何だ? どういう技だ? どうしてそんな動きができる? こんな技があるのか。目突きからこんな繋ぎ方があるのか。目突きから……ということは、
場合によっては、この技を食らってたのは、俺だったんじゃないのか――!?
「…………っ」
汗が噴き出した。想像しただけで寒気が背中を走った。
葵もまた、彼女なりの加減をしていたのだ。鋭一は優しく床に倒されただけだった。本当は『こう』できたのに!
鋭一は口を開いた。何かを言おうとした。だが感嘆の言葉を吐くのがやっとだった。
「すっ……げえ……!」
「…………。」
葵は無言で、右手を握ったり開いたりしている。
鋭一はおろか葵本人ですら気づいてはいなかったが、この時、葵のゴーグルの下の瞳は恍惚と輝いていた。
鋭一は身震いした。凄い……とにかく凄い。恐い。だが凄い。
出会った時、鋭一は彼女を「
まだ「プラネット」をやっていない人間で、これだけの実力者がいる。それは可能性だ。そう思った。
相対しただけで呑まれそうになるあの殺気は、デュエル・ルールの「レベルA」たちと同質のものだ。憧れの強者である彼らと同じ殺気を、こんな身近で見つけるなんて。もしかして葵なら……彼らにも、通用する?
鋭一は頭を振って正気を取り戻した。そして、ようやくゆっくりとゴーグルを外しにかかっていた葵の両手を掴んだ。
「……なあ!」
葵は少し驚いたように一歩引いた。ゴーグルが乾いた音を立てて床に落ちる。だが鋭一は躊躇っていられなかった。
だからとにかく、言いたい事を言った。
「本気でこのゲーム……やってみないか!?」
二人の目が合った。
——そしてここから、様々な事が起こる。
瞬きひとつ許されない、様々な事が。
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