第55話 王子と従者⑤

〈ナジィカ視点〉 


 洞の外へと這い出て「フーフー」と獣の威嚇音にも聞こえる荒い呼吸を繰り返しながら、地面を爪でかき、歯を食いしばって何とか体を起こした。

 つんと、血の臭いが鼻の奥を刺激した。

 手足から流れる血でとっくに嗅ぎ慣れたと思ったのに、もっと濃厚なその臭いに重い頭を持ち上げてまわりを見渡した。

 あちこちに、血の溜まりが出来ていた。

 数頭の獣の亡骸の向こう側に、人の影を見つける。彼の背中が、そこにあった。

 地面に突き立てた剣に、すがりつくように膝をついていた。


「……っ」


 目が覚めてからいままでの、いや、今もなお、僕を突き動かすこれは何なのだろう。

 怒りなのか?それとも憎しみなのか?

 腹の奥から沸き上がるこの衝動は一体なんだ。


「僕は……望んでいなかった……!」


 吐き出さずにはいられない、この熱はなんだろう。空っぽのままでいたい僕の中で暴れる、この熱はなんだろう。


「僕は君を、望んでいないっ、助けなんて求めていない!願っても命じてもいない!」


 無駄だと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。

 足を引きずって彼に近いて、身じろぎひとつしない彼に向けて、僕はわめいた。


「僕はっ、君を望んでいない……他の誰かも望んでいない。君や、誰かの死を悼むことはない。僕自身の命にも興味ないんだ……僕は君のために泣いたりしない、ただ、空っぽの……メアリーだけの僕でいたい」


 剣にすがりつく彼を見下ろした。

 傷だらけで、血塗れだった。

 顔の半分は大きな爪で引き裂かれ、剣を握る手の指も、三本しか残されていなかった。

 ぎゅっと服の裾を握り締めた。そうしなければ立っていられないような気がしたから。

 歯を食い縛る。涙が勝手に流れて落ちた。

 なんで泣いているのか自分でもわからない。僕は、メアリーが幸せならそれで良かった。誰かの死を望んだことはない、けれど彼女以外の幸せを願ったこともない。誰かの死を悼む心なんて、僕は持っていなかった。持っていなかった、はずなのに……。

 

 メアリーだけの、僕でいたかった。

 ただ彼女を想って、眠っていたかった。

 それなのに、君が僕をぐしゃぐしゃにする。


「勝手に命をかけられても迷惑だって、言ったのに」


 どうして、僕は彼を引き留めなかったんだろう。こうなることは予想できていたのに、彼の手が震えていることに、気づいていたのに。

 怖くないはず、ないよね。

 だってどんなに強くても、たくさん訓練をしていても、彼は僕とそう変わらない年の、まだ幼い子どもなんだ。たったひとりで、暗い夜の森の中で、獣を相手に戦った彼は、どんなに心細くて怖くて苦しかっただろう。

 だけど彼は逃げなかった。最後まで命がけで戦った。僕を守るために戦った。死なない僕を守るために、彼は戦った。


 どうして、止めなかったんだろう。

 守らなくてもいいと、そう伝えなかったんだろう。守る必要なんてない。だって僕は死ねないんだから……。


「ああ、そうか……僕は怖かったのか」


 不意に僕は、知りたくもなかった答えに辿り着いた。


 僕は恐れたんだ。


 父上も異母上ははうえ異母兄弟姉妹きょうだいたちも、僕の側にはいてくれない。抱き締めることはない。

 メアリーも、僕を置いていった。

 もう二度と、誰も、僕に……もうひとりの【僕】じゃなくて、僕に、笑いかけたり、守ると言ってくれるひとなんていないと、そう思ってた。

 側にいるとそう誓ってくれる人なんて、いないと思っていた……だけど、君は僕を抱き締めた。


 彼女以外に、僕を抱き締めてくれた君に、守るとそう言ってくれた君に、人ではないと知られるのことが、恐ろしかったんだ。


 だから、逃げた。

 目を閉じて、耳を塞いで、普通のか弱い子どものふりをして、現実から逃げた。

 だってそうすれば、君は僕をバケモノと呼んだりしないでしょ。僕を怖がったりしないで、守ってくれるでしょ。側にいて、くれるでしょ。


「……な、さい」


 ひとりになりたくなくて、そんな身勝手な僕の心が、彼を死地に向かわせた。そして、彼はいなくなって……やっぱり僕はひとりだ。

 引き留めれば良かった。

 引き留めて正直に話せば良かったんだ。僕は死なずのバケモノだと伝えれば良かった。嫌われてもいい。怖がられてもいいから、そうすれば良かった。そうすれば、君を失うことはなかったのに。


「ごめんな、さいっ……ごめんなさいっごめんなさい、ぼくのっせいだ、ぼくが君を殺、したっ……全部、ぼくのせいだ」


 立っていられなくなって、彼の前に崩れ落ちる。

 許しは請えなかった。ただただ「ごめんなさい」と繰り返した。悲しむ資格も、泣く権利も僕には無いのかもしれない。それでも嗚咽が止まらなかった。


 もうひとりの【僕】なら、【僕】ならどうしていた?

 きっと彼をひとりで行かせたりしなかったよね。ふたりで生き延びる道を探したよね。

 ああ、そうだ、【僕】には助けてくれる精霊もいた。僕には見ることも触れることも声を聞くことも出来ない存在が、きっと君たちを助けて、無事に森を抜けることが出来たはずだ。

 ここにいるのが僕じゃなくて【僕】なら。はじめから僕じゃなくて【僕】だったら、きっとなにもかも違っていた。みんなから愛される、明るくて優しい【僕】が最初から【ナジィカ】だったら、メアリーが死ぬことも彼が死ぬこともなかったのかも知れない。


「僕が……いなかったら、君は死ななかったのに僕がいなかったら良かったのに、ごめんなさい」


 ごめんなさい、ごめんなさい……僕がメアリーを殺した。僕が君を……ルフナードを殺した。


「……そ、んな……悲しいこと、言う、なよ……おーじ、さま」


 あふれる嗚咽の音に掻きけされそうなほど、弱々しい静かな声が、降ってきた。

 目を見開いて顔をあげた。

 濃く変色した赤の中に、炎を宿した鮮やかな二つの色があった。

 なによりも憎んだその色は、もう少しも恐ろしく無かった。それどころかその輝きは、いままでに感じたことのない、あたたかな何かを僕の胸に宿した。

 それは闇の中に灯った、希望の星のようだった。


「る………ふなーど?」


「は……い」


 吐息をこぼすように彼は返事をした。

 傷だらけの顔を、痙攣させながら不格好に笑って……それから、ごぽりと血を吐いた。


「るふなーど!ルフナード!」


 彼の体を支えようと、思わず抱き締めると、弱々しい声が耳元で発せられた。


「……でて、きたらだ、めだって……いったのに」


 仕方ないなぁと笑う気配を感じて、なんでこんなときに笑えるのかと僕は悲しくなった。でも……ああ、そうか。彼が笑うのは、僕のためなのか。

 僕を怖がらせないため、不安にさせないために、彼は笑っているんだ。

 そう気づいた。【僕】の記憶の中の彼はそうだったから。主のために、痛みを隠して笑うような男だった。

 炎の精霊王と融合しても、していなくても、ルフナードの本質は変わらない。彼は、優しくて勇敢な気高き騎士だった。


「ご、ぶ……じ、ですか」


「無事だ、君が守ってくれたから僕は無事だっ」


「よか、た……です。ま……もれた」


 安堵の混じるその声音に、心が引き裂かれるほどに痛んだ。

 彼の体を横たえようと、剣を掴む手をほどこうとするけれど、固く握られた指をつかから離すことは出来なかった。


「るふなーど、剣を、離して」


「おう……じ、さま」


「るふなーど、剣をっ」


 ぎゅっと、片手で抱き締められた。

 どこにそんな力が残っていたのかと不思議に思うほどに、強く。


「命……を、果た、せません……でした」


「なに?ルフナード、何を?」


「生きて……お側で、お守り…………できま、せん、でした」


 命令を果たすことが出来なかったと、彼は言った。

 生きて、最後まで側にいることは、出来ないと……そう、彼は言っているのだ。

 自分は助からないと、言外にこめて。

 まだ、生きて、ここにいるのに。


「これから、果たせばいいっ……!この先もずっとそう努力するんだ。ルフナードっルフナードっ……僕の望みを叶えて。僕は君を望む。君にしか、叶えられないんだ」


「おうじ……さま……なじ、か、さま」


「諦めちゃ駄目だ!ここで死んだりしないと誓って!生きて、側にいるとそう誓って……僕は、君を望むっ。僕は君を望むよ、ルフナード」


「い、き……て、な、じ……さま……」


 するりと、背に添えられた手が滑り落ちる。

 互いの頬が触れあうほど近くにあるのに、彼の呼吸と心音は、聞き取れないほどに弱々しい。


「だ、めだっ、だめだ!生きるんだ、ルフナード!僕は、君を望む。ただ君だけを、望むっ。お願いだから僕の声を、きいて……!」


 死は、もうすぐそこまで迫っていた。

 死の神は、まるでそうすることが慈悲であるかのように、容赦なく幼い命を奪っていくだろう。


 神が僕たちを嘲笑う姿が見えた気がした。

 どんなに叫んでも願っても、決して救いの手を差しのべてはくれないだろう。知っている。別にそれでいい。絶対に、僕はお前たちにすがったりしない。赦しも請わない。この先僕が赦しを請う相手は、ひとりでいい。生きる理由も、彼だけでいい。


 彼の頭を掻き抱く。そのまま、視界にいれたのは左手に埋まった赤い石。精霊の成れの果てだ。【僕】の願いを叶えるために姿を変えて、僕の体の一部となったそれ。死なずの体の一部になったそれ。


 目の前にかざしたそれをじっとみる。腕の中の彼の命は、死へと向かって落ちていく。迷っている暇はない。


「これから先、僕は……君だけに、赦しを請うよ」


 赦されないと、わかっていても……それでもうしなうよりはずっといい。

 僕は、左手の甲に埋まった石を、皮膚ごと噛み千切った。

 走る抜ける激痛も、僕を止めることは出来なかった。

 彼の頭を持ちあげて、顔を見下ろす。

 うっすらと開いた唇は、色を失って痛ましかった。その上に、ぽたりと僕の血が落ちる。

 焦点の合わない彼の眼に、それに真っ直ぐ見詰められたことが、どれ程の幸福であったのかを知った。

 僕は、もう、迷わない。


「生きるんだ、ルフナード……僕を憎んでもいいから、生きて」


 僕は彼に口づけた。

 吐息を注ぐように、精霊の玉を彼の口へと舌で押しやった。

 生まれてはじめての口づけは、どちらのものともわからない、苦い鉄の味がした。


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