第54話 王子と従者④

〈ナジィカ視点〉


 彼女の手はかさついて氷のように冷たく、僕を見下ろす二つの目は、狂気に歪んでいた。


『殺さなきゃ殺さなきゃころさなきゃころさなきゃコロサナキャ』


 まるで命懸けで果たすべき使命であるかのように、彼女は同じ言葉を繰り返し唱え続ける。わたしが殺さなきゃ……と、そう何度も何度も繰り返した。

 おやすみなさいと彼女が囁いて、首に添えられた手に力が籠められた。

 僕も心の中で彼女に別れの言葉を返した。

 何度も何度も、繰り返し見るあの日の夢。

 僕は何時だって彼女の望みが叶うことを願っている。だけど夢は、現実を繰り返すだけで、一度も僕の望み通りの結末を見せてはくれなかった。


 彼女の体が炎に包まれた。

 叫び、のたうつ彼女の目からは、僅かな憐憫れんびんの情さえも消え失せた。

 

 憎しみだけが、最後に残される。

 激しい憎悪の宿った目で、彼女が僕を見た。


『あ゛ああぁ゛…………なぜですか王子さま。何年も何年も貴方さまを慈しんできたわたしに、どうしてこのような、恐ろしいことが出来るのですか?』


 真っ黒に焼け焦げた彼女が、地面に黒い跡を残しながら這いずり、近づいてきた。

 炭化した手が僕の足を掴み、あっけなく崩れる。


『お前が、死ぬべきだったのに……わたしではなくお前が、お前がお前が!!お前が死ぬべきだ!!お前のせいでみんなが壊れるんだ!お前のせいだ!お前が死ぬべきだ!人殺しっ人殺し人殺し人殺し人殺し!!』


 彼女の体が崩れ去り、巨大な山のような闇が眼前に聳え立った。

 それに僕の体はすっぽりと飲み込まれて、目に見えるものが何もなくなって……そしてまた、夢は最初の場面に戻る。

 

 彼女のかさついて氷のように冷たい手を感じ、狂気に歪んだ二つの目を見上げた。


『お前が死ぬべきだ』


 そうだ、僕が、死ぬべきだった。

 だけど、生き延びてしまった。

 最愛メアリーして、生き延びた。

 僕は笑ってはいけない。

 僕は望んではいけない。

 僕は幸福を、感じてはいけないんだ。

 彼女から全てを奪ったのだから、僕も全てを手離すべきだ。

 神の思惑で死ぬことが出来ないならせめて、心だけでも死んだままでいるべきだ。

 永遠に、罪の記憶の中で彼女と眠り続けるべきだ。永遠に、彼女だけのモノで……。


「ナジィカさま!!」


 誰かが僕の名を呼んだ。

 体にのし掛かっていたものが無くなって、誰かの小さな背中が僕と彼女の間に立ち塞がった。


「ナジィカさまは俺が必ず御守りします!」


 目の前に立つ彼がそう言った。

 名前も、顔も知らない子どもだ。

 彼は僕とメアリーの世界に無理矢理入ってきた、侵略者で破壊者だった。


「望んで、いない」


 僕は、幼い少年の背中にそう投げ掛ける。

 そんなことは、望んでいないと、そう告げる。

 けれど、彼は僕の声に答えない。

 ただまっすぐ目の前の闇を見据えている。

 自分よりも何倍も大きなそれを前に、揺るがず剣を構えた。


「やめ、ろ。僕は望んでいない。君を、望むことなんて、ないんだ」


 君のあたたかな手はいらない。

 やさしい言葉も聞かせないで。

 まっすぐな眼差しも僕には向けないで。

 どんなに心を尽くされても、なにひとつ君には返せない。なにも返せない。

 死を引き寄せることしか、僕には出来ない。


「俺はナジィカさまの騎士だ!どんなことがあっても誰が相手でも最後まで主を守る!」


 そんなものは要らない、と声にならない叫びが体の中で木霊した。

 剣を構えた少年は、振り返らずに駆け出した。

 山のように大きな真っ黒な闇が、彼に襲い掛かった。

 僕を飲み込む筈だったそれが、少年の体をすっぽりと覆い隠す。


 グシャリと、なにかを捻り潰す音が、僕とメアリーの世界に響いた。


「…………て」


 バキバキとなにかが砕ける音が聞こえて、クチャクチャと咀嚼する音が聞こえた。


「……め……て」


 真っ黒だった闇が、深紅に染まっていく。

 闇から落ちたあたたかな滴が、僕の頬をポタリと濡らした。


「やめて……メアリー!やめて!」


 深紅の闇に向かって僕は叫んだ。

 闇はぐにゃりと歪んで、最愛の人の姿を造り出す。

 静かに微笑む彼女が『いいえ』と軽く頭を振ると、闇の中から幾つかの塊が落ちてきた。

 目の前にガラクタのように投げ出されたそれらに視線を落として……僕は頭を抱え込んだ。


『いいえ、王子さま。この世に憎しみをもたらすのも悲しみをつれてくるのも死を撒き散らすのも、貴方の従者を壊すのも、いつだって【誰か】ではなく【ナジィカさま御自身】なのですよ?』


「ーーーーーー」


 声にならない何かが、体の奥から込みあげてきた。

 光を失った赤い目が、じっと僕を見上げていた。



 



「ーーーーっ!!」


 目を開けると、心臓は早鐘のようだった。

 身じろぎすると、枯れ葉が擦れてかさりっと鳴く。真っ直ぐ見つめる視線の先には、何かに遮られて僅かに差し込む光が見えた。

 ゆっくりと慎重に体を起こす。

 ここは……そう、ここは巨木のうろの中だ。

 従者が、僕をここに隠した。

 光が見えるところは、洞の入り口だ。従者が入り口を塞いだ。獣がこの中に入らないように……そして彼は……。


「……っ」


 光に向かって、四つん這いで移動する。

 入り口を塞ぐ木々の枝を押し退けようとして、手に傷を負った。けれどどんなに頑張っても、僕の力でそれは少しも動かなかった。


「ねぇ……。ねぇ君!いるの?」


 そこに、いるの?と、問い掛けた。

 だけど、外からは何の返事もなければ、何の音も聞こえてはこない。

 耳を澄まして神経を集中させて、微かな鳥の鳴き声をわずかに聞いた気がする。その程度だ。しかも確信は持てない。それほどに、静かだった。

 出入り口を塞ぐものは押しても、引いても動かない。ならばどうする?


「……っ」


 重なった枝を掴み、足で枝を踏んで折り曲げた。

 勢いあまって後ろ向きに倒れたけれど、敷き詰めた葉っぱのお陰で痛くはない。

 押すことも引っ張ることも出来ないのなら、入り口を塞いでいるものを壊すしかない。


 それは、気の遠くなるような作業だった。

 重なった木々の枝や葉を、少しずつ折って道をつくる。

 尖った枝が皮膚に突き刺さり、掌は数えきれない裂傷で真っ赤に染まった。血で滑り、枝に上手く力が伝わらない……。

 ドレスの裾を噛み切って手にくるくると巻き付けた。これで少しはマシになるだろう。

 力も体力もない僕は、すぐに息切れを起こす。狭い塔の部屋で生きていくだけなら、なんの支障もなかっただろうに、今だけは、軟弱な自分の体が疎ましかった。

 もう一人の【僕】が言うように、この体はもっと体力なり腕力なりをつけるべきだ。


 どれくらい時間がたったのかわからない。

 目の前を塞ぐ枝を折って、徐々に外へと進む。あまり大きな道をつくることは、非力なこの体じゃとてもじゃないが無理だ。

 這いつくばって、ようやく進めるくらいの、狭いトンネルのような道を時間をかけてつくっていく。

 腕の力で折れない枝は、足を使って折るしか方法がないのだけれど、体の向きを変えられるくらいの横幅をつくることは不可能だ。

 僕にそんな体力は残されていない。

 だから、何度も頭から入っては戻り、足から入っては戻りを繰り返した。

 息が切れて、血と混ざった汗が、地面や服に染みをつくる。

 着ている服は泥だらけで汚いし、そもそも女物の服は無駄にヒラヒラして色んなところに引っ掛かって面倒だ。まぁ、どうしようもないから我慢するけど……露出した部分の防御力が低すぎて傷だらけだな。

 あちこち痛いし、汗まみれで気持ち悪いし、暑いし、頭はくらくらするし、ほんと最悪だ……。


「なん、で……僕が……こんなっ面倒な!ことをっ!しなきゃ!いけないんだ!」


 ふつふつと沸き上がる感情のままに、枝の根本を何度も蹴って折り曲げる。

 寝転んだままプミラの実を齧って喉の乾きと、飢えを紛らわせた。

 なんで僕はこんな事をしているんだろうと、冷静にならなくても自分の行動がおかしいことくらい自覚出来た。

 何にも感じない、なんにも持たない空っぽの僕でいたかったのに。ずっと空っぽの僕で居たかったのに、彼のせいでぐちゃぐちゃだ。【僕】と一緒だった時より、今の僕はぐちゃぐちゃだ。そう、全部、彼のせいだ!


「くそっ……このっ!」 


 怒りにも似た感情。

 それに突き動かされて、枝を蹴り抜いた。

 靴底が、空気を踏む。

 足首までのショートブーツは、十分に役にたった。もしこれが踵の高い細身の靴だった場合、僕の足は今ごろ枝に突き刺さって穴だらけだったはずだ。

 方向転換するために一度、洞の中に戻る。

 地面に放り出していた彼の上着を腰に巻き付けてしっかりと縛り、茶色の布を折り畳んで厚みを持たせる。

 布を口に咥えて、腹這いでトンネルを進む。

 飛び出した枝が目に刺さらないように、注意しながら進んだ。

 僕は多分死なないし、通常より早く傷が癒えるけれど、大きな怪我にはそれなりの時間を要するはずだ。

 致命傷は避けて、けれど小さな切り傷には構わずに、出口を目指して僕は進んだ。

 重い体をまさに引きずって、トンネルの出口まで辿り着く。踏み砕いて開けた穴の近くに畳んだ布を押し当てて、手や頭部で穴を広げていく。

 バキ、バキリと音をたてて枝を折り、頭が外に出た。最後は、殆ど無理矢理で、力任せだった。

 残った力のすべてを出しきって、僕は外に這い出した。

 

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