心臓

花森 待音

出会い、

 夜の帷を切り取ったようなボロボロの黒いマントが翻る。それは「彼女」が捕食の時間を始める合図だった。タタタタッと勢い良く、辺りでも大きい方の建物の壁を駆け上がると、屋上から屋上へと音を鳴らして、跳んで、飛ぶ。いくつかの屋根を伝い、それからマントをバサバサと鳴らして落ちる。石畳に音もなく足を置き、人気のない裏路を真っ直ぐ駆ければ、そこには無防備で可哀想な、彼女の今日の食事。本日めでたく選ばれた贄は、丸々と太った人間の男だった。背後から頭目掛けて振り下ろされるのは、大きな"ツメ"。そのツメを、ただ一人で彩るように真っ赤に輝いていたネイルは、飛び散った液体のくすんだ点と線を迎え入れた。そのうち、くすんだ色はどす黒く変わるのだろう。彼女の存在に気付かなかったからか、悲鳴一つあげない男がその場に崩れるのを見て、彼女はにいっと口の両端を持ち上げる。

「まったく、油断もへったくれもないよね。まあそのお陰で私は簡単に食べていけるわけなんだけど」

 ふてぶてしい口調ながら、ひどく楽しそうな笑顔を保ったまま、その場で彼女は食事の調理を始めた。上の服を脱がし心臓の位置をそっと確かめると、心臓だけ一突きして取り出す。調理、と言っても工程はそれだけだが、彼女には充分だった。生のまま、新鮮なうちに食べてしまおう。

「あー、こんな大きな心臓食べられるのなんていつ以来だろ!今まで頑張ってきた自分へのちょっとした御褒美だよね! よーし、いっただっきまーす」

 そのまま心臓をひと齧り、ゆっくりと噛む。心臓の破れた場所からは、ゆっくりと大量の血が流れ出してくる。細い糸は地面に垂れた。

「んー、やっぱり太ってる人の心臓は脂質多いし血管詰まってるなあ・・・・・・それでもまあ人間の心臓をいただけるだけで十分か」

 少し不満を漏らしつつも、最後まで味わい、時間をかけてその心の臓を平らげると、彼女は今度は後片付けを始めた。男の身体の、心臓以外のいくつかの臓器を抜き取り、服の中に隠し持っていた袋に詰め、それから男の身体を跡形も無くぐちゃぐちゃにしてしまうのだ。こうでもしないと、私のことがばれてしまうから、と彼女は手早く片付けを終わらせると、余韻に浸りながらまた夜の帷へと消えていったのだ。



 少女と、出会う。

 軽く俺の肩と彼女の肩がぶつかって、彼女が抱えた紙袋の中のものがいくつか重力に従いだすのだ。

「ごめんなさい」

 開口一番、彼女のその綺麗な色の口から跳ねたのは謝罪の言葉だった。

「こちらこそすみません。怪我はありませんか」

 紳士という程でもないが、人並みの優しさを持ち合わせているつもりの俺は、まず彼女にそう声をかけた。それから、ころころと転がっていく数個の果物を小走りで拾いに行く。真っ赤なはずのその果物は、放り出されて、固いくすんだ色の石畳に落ちたその衝撃からか、割れて、あるいは傷ついて、到底食べられるようなものではなかった。ほとんど全部。

「すみません・・・・・・全部、駄目になってますね・・・・・・」

 一通り拾い上げてみたあとにそう言うと、彼女は俺と同じように、非常に申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「いえ、いいんです・・・・・・私が不注意だったのが悪かったんですから」

 いや、今回ばかりは完全に俺が悪かった。俺は特に視界を遮るような大きな荷物や、集中を切らすような特別なものを持っていた訳ではない。それに対し彼女は、大きく重そうな紙袋を抱えていたわけで。どう考えても、俺がもっと気をつければ防げたことなのだ。彼女にそれを伝えると、「お優しいんですね」と彼女は少し困惑したように笑った。いや、違う。建前じゃない。だけど、彼女にはそれは伝わらなかったようだ。

「どう考えても自分が悪いから、何かお詫びさせてください」

 そこで、俺は勢いよく頭を下げる。彼女は、当然その表情は伺い知れなかったわけだが、えっ、と聞こえたから、多分更に困惑を深めた表情をしていることだろう。でもお願いだ、断らないでくれよ。あちらやこちら、昼下がりの街を歩く人に、さっきからチラチラと見られているんだ。レディにぶつかっておいて、おまけに持っていたものまでダメにして、それなのにそのままごめんねさようなら、なんて許さないぞ、と言った具合に。

「あの、顔、あげてください、お願いです」

 どうやら彼女もそれを察したらしい。言葉を細切れにしながら、彼女はゆっくりと頭を上げる俺を見ていた。

「お昼はもう食べましたか?」

「いえ、まだ・・・・・・」

 これは都合がいい。おかみさんにとやかく言われそうな気はするが、彼女のために何か作ってもらうこととしよう。俺はいつもいつも、スケルツォ!と丁寧に名前をすべて発音して叱りつける体格のいいおかみさんを思い浮かべたが、すぐにそれはかき消した。

「それなら、俺に用意させてください」

「え・・・・・・?」

「こう見えても俺、食堂で働いてるんだ。腕はそれなりですよ」

 言うが早く、俺は彼女の荷物をさり気なく持ち上げると、食堂の方へと歩き出す。真っ直ぐ通る道の更に向こう側には、空が何にも邪魔されることなくその衣を広げているのだ。

 相変わらず静かな、そう、例えば俺が女性にぶつかっても、女性を助けたり、決して俺を大声で罵ることはしない、そんな清々しく見えて結構陰湿な街だ。けれど今日のような青い空と、それからこんな華に出会えるのだから、嫌ではない。



 今日、俺は本来ならここに来るはずではなかった。何故なら定休日だったから。扉に手をかけたところで、一つやるべき事を思い出した。

「俺、スケルツォ。スケルツォ・ペイラー」

 振り向いてからそう言った。なんとなく、彼女が俺の名前を初めて知るのがおかみさんの大声っていうのは嫌だと思ったので、先回りして言っておく。そもそも今まで名乗っていなかったこと自体が不思議なことかもしれない。

「スケルツォ、さん」

「さんはいらない、どうせ同じ位の歳だろうし」

 その後に、中に入ったら君の名前も聞かせて、と頼んでから、心を決めて扉を押した。


「おかみさーん!」

 もう随分と長いことお世話になっているこの食堂の、ふくよかな体型をしたおかみさんが、二階の自室にいることは知っている。この建物は店であるが、同時におかみさんがその両親から受け継いだ立派な家であることは、この店に来てたしか一年くらい経った時に聞いた。

「どうしたんだい! 今日は休みだろ・・・・・・う・・・・・・?」

 階段から少し急ぎおかみさんが降りてきた。目が点になっている。後ろにいる金糸の髪の彼女の存在が、きっとそうさせたのだろう。

「あ、あんた・・・・・・」

「この子にお昼ご馳走したいから、ちょっと厨房と食材使ってもいい?」

 おかみさんはどうも誤解しているようだ。信じられない、って顔をまだしてる。違う違う、なんでここでも誤解が起きるんだ。決してそういう意味じゃない。

 確かにおかみさんは血は繋がってないけど家族みたいな存在だ。それに、俺自身、普通ならとっくに結婚してるような年齢で、彼女なんて一人もできた試しがない。けれど違う。彼女と俺はそういう関係ではない・・・・・・そうなりたいという希望があることは否定しないが。

「街でぶつかっちゃってさ、そのお詫びに、お昼まだらしいからご馳走しようと思って」

「あ、ああ・・・・・・そうかい・・・・・・ってスケルツォ! あんたこんな可愛いことぶつかっただってぇ!? まーさかケガはさせてないだろうねぇ!?」

「私は大丈夫です」

 ならいいけど、男の傷は勲章になろうが女の傷は傷でしかないんだからね、と俺を睨みつけながらおかみさんはそう吐き捨てた。どこか、そうだよね、こいつに女なんて一生できるわけないよね、というような顔にも見えるのは気のせいだと思いたい。逃げるようにして俺は厨房へとかけていく。

 さて、何を作ろうか。



 いやぁ全く、びっくりしたよ、とその女性は言った。次に、まぁ、あいつに彼女なんてできるはずがないよねぇ、と、笑いながら。私は「おかみさん」の向かい側、広い食堂の、片隅の長椅子に腰を下ろす

「ええっと? なんていうんだい」

 何を聞かれたのか分からず、私は首を傾げた。おかみさんがそれを見て、すかさず「名前だよ、名前」と補足してくれる。私は、スケルツォにまだ名乗っていないのにおかみさんに名前を言っていいものか、と少し悩んで、それから、このままではきっと話が展開していかないだろうから、スケルツォに何を言われようと構わない、と決めて偽りの名を告げた。

「フロイライン、と申します。フローラとお呼びください」

「まぁた、珍しい名前だねぇ」

「母方の親戚に他国の者がおりまして」

 フロイライン、という名前はこの国ではいささか発音しにくく、目立つ名前である。愛称のフローラも、この国ならば少し違った発音をするだろうが、私がこの名前にこだわるのは、これが祖母の遺してくれたものの一つであるからだ。

「よく出来たお嬢さんだ、それなのに旦那もいないのかい?」

「あまり人と関わらずに過ごしてきたものでして」

 鼻に油と野菜の香りが届く。

「あたしがあんたらくらいの頃には、もう旦那と結婚してたけどねぇ。スケルツォも驚くほどに女との縁がないもんだからさ」

 頬杖をついたおかみさんが柔らかく微笑んだ。それはもう、子を思う母の顔にしか見えない。彼女は遠い場所をぼんやりと見ながら、更に続ける。

「スケルツォはねぇ、あたしの腰くらいの背丈しかなかった頃に、ある日突然、扉を開けたら立っていたのさ。相当いい服を来ていたからそこそこ金のある家の息子だったんだろうけど、詳しいことは何にも知らないんだ。あいつは今に至るまで、逃げてきた、ってこと以外はなぁーんにも話そうとしないからね。あいつが小さかった頃はもうすっかり、本当の息子みたいに接してきたよ。あたしら夫婦は残念ながら子どもに恵まれなかったから、正直スケルツォの存在はあたしらとしてもありがたかったね」

 そういえば、スケルツォは。彼は、名乗った時に、名字まで告げていた。少し前まで、名字というのはある程度高い位が無ければ持ってすらいないものだった。しかし、逃げてきたというのに名字まで名乗って良いのか?不可解な点に気付くが、敢えてそれは聞かない。

「フローラ、あんたは・・・・・・」

「あーっ! おかみさん!」

 料理をトレイに載せて運んできたスケルツォが、突然大声を出すからびっくりしてしまった。

「なんだい」

「名前! 俺より先に聞いちゃったの!?」

 やっぱり、彼は自分が一番最初に名前を聞けなかったことに対して拗ねた。一方のおかみさんは、こりゃまだまだだねぇと呆れ顔だ。スケルツォが私の向かい側、おかみさんの隣に座ると、彼女は何かを察したように立ち上がり、スケルツォに「片付けだけはちゃんとしていきなよ」と声をかけると、再び奥へと引っ込んでいってしまった。


「やっと聞けるな」

 先ほどの拗ね顔はどこへやら、今度はにっと笑って、全く忙しい青年だ。

「名前、教えてよ」


「私・・・・・・私は、フロイライン・トゥー」

 その笑顔に偽りの名で返すという罪悪感が、ちくりと棘のように私を刺した。


「送っていく」と譲らないスケルツォと、親切と遠慮を戦わせた結果、では近所までということで、なんとか家は教えずに帰宅することができた。思っていた以上にあの出来事に取られた時間は長かったようで、私の嫌いな夕方が、もう、すぐ近くまで迫っていた。

 祖母からの贈り物を、その名として生きる、人間としての"フローラ"と、人間を糧として生きる、その存在の正体さえも分からないなにかとしての"カルディア"。その境の一つは、夜にある。しかしながら、その夜が来る前、つまりこれから訪れようとしている夕方に、その準備としてか、ふたりが曖昧に混ざりあうという段階がある。私が夕方が嫌いな理由はここにあった。捕食願望、本能と、擬態、つまり理性の自分が混ざりあうと、本当の自分は何なのかが、全くわからなくなる。

 自分を肯定できるような、確固たる証拠がない。それが、生きていたとしても、それ自体には全く意味が無いように思ってしまう原因なのかもしれない。

 私は窓から差すまだ白い光を跳ね返す、年季の入った金のペンダントをそっと撫でると、少しだけ、眠ってしまおうとベッドに体を横たえる。

 夕方を通り過ぎれば、それからはもう"カルディア"の時間だった。彼女になってしまえばそれはそれで、食べる、生きるということ、そのためにすべきことしか考えられなくなって、とても、とても楽だった。重い瞼は、驚くほどはやく、閉じてしまった。


 何を隠そう、私は、心臓しか栄養にならない、人間の形をとった別の何かなのである。

 ――だから私は、その日の夜、目が覚めると、無防備に出歩く一人の肥えた男のそれを、おいしくいただいた。

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心臓 花森 待音 @Machi-Hanamori

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