第20話

 咥えていた煙草から焼け焦げた灰が落ちる。今日何度目かのそれをぼんやりと見つめながら、俺は机の上の灰皿に煙草を押し付けた。

 あれから、五日間が経っていた。俺は事務所内の椅子の上に寝転んでいる。

 背後からは初夏を感じさせる強烈な日差し。部屋の明かりは消したまま。差し込む眩い光は、俺の足をのせた机の上で反射して俺の目を焦がした。部屋の気温も昨日までとは大違いだ。

 あの後、博士の亡骸を抱えた俺が戻ると、既に敵は残っていなかった。駅の中に残してきたあのカソックのガイストの姿も、アルフォンスが対峙していた多くのガイスト達も。

 指揮官のフェリクスとかいうガイストはアルフォンスが確保していたが、それ以外の殆どの敵は既に破壊されているか、逃げ去ったようだった。イオリの方もほぼ同じだと聞いた。

 そして、あのナポレオンも、既にそこにはいなかった。主を失ったガイストは、定着率が低ければ、そのまま世界との関係を失い、消えていく。だが、あれだけ自我を確立したガイストならばそうはならない。恐らく逃げたガイスト達と行動を共にしているのだろう。

 イオリの話では、オダワラの方の軍隊も無事退けられたようだった。まぁ予測が正しければ、そちらは陽動作戦なのだから、当たり前のことかもしれない。

 ガイストの侵攻を全て食い止めた、という意味においては今回の作戦は成功と言ってもいいだろう。

 翌朝、依頼人に直接連絡を取り、俺は全てを説明した。博士がどうして失踪したのか。彼が何を行っていたのか。そして、彼がどこに向かおうとし、そして、どのような結末を迎えたのか。それを話すことが、俺に出来る彼女に出来る唯一の事だったからだ。

 彼女は、それを黙って聞いていた。俺が言えるのは、ただ謝罪の言葉だけだった。彼女はそれでも、連れ戻してくれてありがとう、と告げて、そして、涙を流しながらも俺に頭を下げた。

 だから、俺にとって作戦は失敗だった。最悪の結果もあり得ると彼女に断ったのは俺自身だ。だとしても、これは回避できる結末だった。

 そして、そうでありながら依頼人が俺への気遣いをしてくれていることが、俺にとっては何よりも苦しいことだった。いっそのことナイフでも持って殺しにきてくれた方がマシだと思う程度には。

 今回の依頼を果たせなかったことは、俺にとってはかなりこたえるものだった。だが、ここでこうやって仕事もせずに寝転がっている理由はそのことだけではない。

 俺がこの五日間考え続けていたのは、誰が博士を殺したのか、ということだった。言い換えるならば、誰がそんな事をして利益を得たのかということ。

 言うまでもなく、あの場にいた誰もが彼を保護しようとしていたのだ。博士を殺そうとしていた者はあの中には誰もいなかったはずだ。

 気になっていることはまだあった。例えば、データのことだ。あの後、俺は念の為に博士の持ち物を確認した。彼が持っているかもしれない、選別的定着にとって必要な研究データ、それの場所を知りたかったからだ。

 結論から言えば、それは博士の手元にはなかった。彼の頭のなかに入っている分を除けば。護衛であり、より生き残る可能性が高いナポレオンに託していたか、あるいは、既にガイストに引き渡し済みであったか。それとも、もともとそんなものなどなかったのか。そのいずれかになるのだろう。

 だが、そうなってくると更に疑問が浮かび上がってくる。あの時、あのサガミハラの廃工場で、ジャン=ポールが言った言葉。研究には、彼女――ナタリー――のデータも必要である、と。確か俺はそう聞いたはずだ。

 もし仮にナポレオンがガイスト達と合流しているのなら、必要となる残りのデータを奪いに、攻撃を仕掛けてくる可能性が高いのではないか。

 仮にあの部隊が壊滅していて追撃ができないのだとしても、公安の殆どを駆り出すような陽動作戦を組んでまで博士を亡命させようとしたのだ。五日経った今になってもガイスト側に何の動きもないというのは少し奇妙だ。

 公安の警備も強化されているだろうし、ナタリーも今は葬儀やら何やらで忙しいようだが、それでも、俺が調べた限りガイストの動きは皆無。

 とすれば、他にあり得そうな状況としては、ナポレオンはガイスト達とは行動を共にしておらず、またその情報をガイスト側に渡してはいない、ということだろうか。

 彼の様子からして、それはかなり奇妙だ。ナポレオンがガイスト達に協力していたのは、あの戦場で見る限り事実だと思える。そしてナポレオンは、アルフォンスが戦闘不能にしたが、戦闘後には行方がわからなくなっていたとの事だったから、ガイスト達と行動を共にしていると考えるのが妥当だ。

 俺はそこまで考えて、あるひとつの可能性に思い至った。もしかすると、ナポレオンは別の誰かが定着させたガイストなのではないか。そして、その誰かの指示を受けて行動していたのではないか。

 まず、狂いかけていたジャン=ポールを騙し、データを集めさせる。ガイストの味方のようなふりをして戦闘し、戦闘不能に見せかけて戦場から抜け出す。そして、逃げる途中で彼を殺しデータを奪う。狂人ジャン=ポールとガイスト達に殺人の責任を全て押し付けて、主のもとに人知れず帰還する。

 そんなシナリオを書いた誰かがこの事件の背後に存在していたとすれば、かなりの部分で辻褄があってくる。もちろんこれが薄い推測をいくつも重ねた上に辿り着いた、ただの仮説にすぎないことはわかっている。

 だが、それでも引っかかってしまえば、そこで追求をやめることなどできず。その仮説を元にすればさらに疑問が生まれてくる。

 それは、復讐に見せかけた研究者殺しが選別的定着に関するデータを狙ってのものだとして、それは選別的定着という技術を求めた張本人が、まさにその技術を使ってナポレオンを定着させたことになる、ということ。

 もし先ほどの仮説が間違っていないとするのなら、一見すればこれは矛盾しているように思われる。だが、それが成立するような状況も存在する。それは、選別的定着という技術を使うことのできる人間が、技術を独占するために行った、という状況だ。すなわち他の研究者達を殺したのは、自分以外にこの技術を知るものを消すためだったと考えれば合点が行く。

 だとすれば、それが可能なのは、そんな事を考える可能性があるのは誰なのか。これだけ限定できる要素が多ければ、必然犯人となることができる人間はかなり限られてくる。

 そして、この仮説に基づいた作戦において、一番必要なのがジャン=ポールを復讐者として認識し、ガイスト達と争う人間だ。そう、表向きの事件の謎を解いてみせ、ガイスト達を退ける、道化としての探偵役――俺達が。

 果たして、俺にこの事件がジャン=ポールの復讐だと、あの男の悪意なのだと、そう示唆してみせたのは一体誰だったのか。

 これは仮説にすぎない。あくまで、ありえるかもしれない可能性。それが、この五日間考え続けた俺の手に入れた結論だった。

 俺は、胸ポケットから再び煙草を取り出す。火を付けて、大きく息を吐くと室内に残った煙が気になった。

 背後の窓を開ける。清涼な風が飛び込んでくると共に、口元から紫煙が流れだす。

 青すぎる空だった。白々しいほどに。それが何故か残酷に感じてしまうほどに。

 しばらく窓の外を眺めていた俺は、唐突に鳴ったチャイムの音で振り返った。新調したコートを壁に掛けたハンガーから取って羽織ると、俺は扉を開ける。

 立っていたのは、依頼人、ナタリー・グランデだった。

「どうも」

「こんにちは、クライスラーさん」

 黒一色のスーツは、以前あった時と変わらない。小さく頭を下げた彼女をひとまず事務所内に招き入れる。

「依頼のことでお話、なのでしょうか?」

「ええ、一応依頼金のことや、それから、あなたのことを少し伺いたくもありましたので」

 尋ねる彼女にそう言いながら、扉をもう一つ開け彼女を中に入れると、俺はキッチンへ湯を沸かしにいく。

 以前と同じく古びた椅子に腰掛けた彼女を視界の端に収めながら、俺はコーヒーを淹れる。相変わらずのインスタント。湯沸し器が不思議な音を立てて煙を吹き出し、それを見て俺はスイッチを押す。彼女は黙ったまま、手元を見つめていた。

 二人分のコーヒーを持って、俺は彼女の対面に座った。差し出したカップを彼女が受け取って机に置く。

 一口啜る。思考のスイッチを切り替えながら、俺は彼女に話題を振る。

「この五日ほど特に何かおかしなことはなかったですか?」

「おかしな事、ですか?」

「ええ」

 俺は頷くと、コーヒーをもう一口飲み、机の上に置いた。

「聞き方が悪かったですね。ジャン=ポールさんのことで何か公安に言われたりはしていないですか?」

「それは……大丈夫です。一度、公安の方が来られましたが、父の部屋を見てそのまま帰って行かれました。葬儀も今日終わりまして、今、父が母の墓の隣に埋葬されるのを見送ってきたところです」

「そうでしたか……ところで、今回の依頼金についてなのですが」

 伏せていた顔を上げて、彼女が俺の目を見つめる。

「今回は、こちらの落ち度で、ジャン=ポールさんを、お父様を連れ戻せず、本当に申し訳ありません」

「クライスラーさん、それは」

「本当に申し訳ない」

 俺はもう一度謝罪を繰り返す。頭を下げた俺に、彼女は静かに声をかける。

「あの時も言いましたが、父をどういう形であれ、連れ戻して頂いたことに私は感謝しています。あの時、あなたが言ってくださったように、覚悟は出来ていましたから。だから、少なくとも私は依頼を果たして頂いたと、そう考えています」

 ですから、と一度言葉を切って彼女は続ける。

「依頼金もお支払いします。むしろ、こんな危険なことに巻き込んでしまったのは私の方なのですから」

「いえ、そういうわけにはいきません。ご好意は有難いのですが、私にもけじめというものがありますし」

 俺は首を横に振った。実際、アルフォンスが捕らえたガイストの懸賞金をしっかりあいつから確保すれば、事務所の経営にそれほど大きな影響が出ることはない。

「そう……ですか。分かりました。それと、もしよろしければ、父のお墓にも行ってあげてくれませんか。やはり、こういうことがあったからか、葬儀に来られた方も少なくて」

 眉根を寄せて、美しい顔を歪ませたナタリー。俺はそれにどう答えるべきか、分からずに小さく頷く。そんな様子に気づいたのか、彼女は目を細めて話を続ける。

「その、昔、父が言っていたんです。私達人間は、亡くなってしまった者の、遺志を背負うことが出来ると。だから父は、母の遺志を汲んで選別的定着を研究しているんだと。最後はああなってしまいましたけれど、父の思いは変わっていなかったように私には思えるんです。だから」

 そこで、彼女は言葉を止めた。その瞳に涙の雫が輝いた。顔を伏せてそれを拭うと、彼女はこちらへ笑んだ。

「それに、クライスラーさん達は父を助けようとしてくれていたわけですから。そのことを気になさる必要はないと思います」

「そうですか……。では、今度アルフォンスと二人で参りましょう」

 俺はためらいながらもそう告げた。視線を上げたナタリーの表情が途端に明るくなった。

「なんだかすみません。でも私最後くらいは父の事孤独にしたくはないんです。気休めなのかもしれないんですけど、それでもやっぱり私は父のことを尊敬していたから」

 言いながら、瞳に涙を溜める。愛した父親の死を受け入れられずにいる一人の娘がそこにはいた。

「でも、だからこそ、父がそうしたように、今度は私が受け継ぐ番だなって、そう思うんです。だから、悲しんでいる場合じゃないですよね」

「ええ。大変なことも多いと思いますが、私達で良ければいつでも頼って下さい」

「はい、ありがとうございます」

 うつむき加減にそう言って、しばらく俺達の間に沈黙が落ちた。俺は時計を見つめ、それから意味もなく胸ポケットを探る。少し落ち着いた彼女がカップを口元に寄せる。俺はそれを見ながら、彼女の言葉を吟味していた。

 ナタリーが何かを隠しているのか、どうなのか。それを突き止めようと思考してみる。涙に濡れた彼女の頬が仄かに赤く染まっている。美しい女性だった。だからこそその背後に刺があるようだと俺には思える。

 陶器の音で、俺は思わず我に返った。彼女がカップを置いて、立ち上がっていた。

「ごめんなさい、私この後引越しの手続きがあるので、失礼しますね」

「引っ越し、されるんですか?」

 不意の出来事につい鸚鵡返しにそう言ってしまう。

「ええ、今までは大井重工の社宅に二人で住んでいたんですが、今回のことで退職になったので、あそこを出ないといけなくて」

 苦笑いで彼女はそう告げた。まるで世間話をするように。何かがおかしい気がした。

「それは、研究所が閉鎖になったということですか?」

「え? ええ、そうですね。大井の第一研究所は閉鎖です。私の責任で多くの情報と研究員を失いましたから。ただ、私自身の研究データは無事だったので上手く行けば別のところで研究を続けられるかもしれない、というところです」

 少し目を伏せながらも、彼女はどこか達観したようにそう答える。

 微小な、違和感。それは、自分自身が不幸になるような策を練る、と言うのはありえるだろうか、という疑問。

 俺は今の今までナタリー・グランデが、あるいはそれを利用した大井重工こそが犯人なのだと、そう考えていた。だが、もしそうだとするのなら、何故ナタリーは研究所を追われ、そして、大井重工は研究所を閉鎖することになったのか。

 ナタリー個人にしてみれば、環境を変えてデータを独占できるのならそうするかもしれない。大井重工も研究所を表向きだけ閉鎖して、極秘に独占したデータを使う気なのかもしれない。

 だがそれは、たった一人、危うい仮説を信じた探偵を騙すだけのためにする価値のあることとは思えない。そんなことにまで手を回す必要があるとは、俺には思えない。

 そもそも、俺が至ったこの仮説の土台には、ナタリーのデータが必要だという、偶然ジャン=ポールが発した言葉がある。それを俺が知っていると分かっていなければ、俺を騙すための策など考えられるはずもない。必ずしも否定は出来ないだろう。だが、何かがおかしいと思わせるには十分な見落とし。

 俺は知らずに鋭い視線を彼女へと向けていたようだった。

「どうか、されましたか?」

「え、ああ、いえ、少し気になることを思い出してしまって」

 俺は右手を振って否定し、彼女を出口まで見送ろうと立ち上がる。

「あの、本当に何もなかったですか? 誰か妙な人に話しかけられたとか、その程度でも」

 その途中で俺はもう一度、聞いてみる。彼女は頭を抑えてひとしきり考えた後、苦い顔でこちらを向く。

「強いて言うなら、っていう程度なんですけど」

「え? ええ、何でしょう」

「葬儀の時、あの、ついさっきのことなんですけど、不思議な人にあったんです。もう私も帰ろうとしていた時にやってきて、母の知り合いだって言う方がいらして。でも、私、母のことなんてまるで知らないから、母の知り合いになんて父の葬儀の連絡、できてなくて」

 首を傾げながら、ナタリーが続ける。

「だから、一応お名前も伺ったんですけど、答えてくれなくて。ただ、残念でした、って、それだけ告げて、墓参りに行くっていなくなっちゃったんです。変な人ですよね」

「はぁ、その方の格好とか分かりますか」

 ガイスト達だろうか。どこか引っかかる話だが。

「真っ白なコートでした。西欧系の若い方で、それに右腕を怪我されていたのか、少しぎこちなかったです」

 思わず声を上げそうになるのをこらえて、俺は事務所の扉を開けた。彼女が一歩外に出る。俺は扉を抑えたまま、彼女に告げる。

「なるほど。もしかしたら、お父様のことを調べようとして来た、どこかの企業のエージェントかもしれないですね」

「父の技術目当て、ということですか」

「ええ、これからそういう事が増えるかもしれないですよ。気をつけて」

「まぁ父の頭のなかにあったことなんて、私にはわからないんですけどね」

 だから、選別的定着なんて私にはまだまだ見えません、そう続けて彼女は笑った。屈託のない笑みだった。きっと誰もが思わず抱きしめたくなるようなそんな、笑み。

「そうだ、もう一つだけ聞き忘れた事がありました」

 軽く会釈をした彼女を引き止めるように俺は声をかける。

「あなたのお母様、お名前は、何とおっしゃるんですか?」

 歩きかけた彼女が、少し不思議そうな様子で告げる。

「えっと、ヴァレリー・バタイユです。母は姓を変えなかったので」

 それで確信できた。

 脳裏を幾つもの閃光が輝き、消えていく。俺はゆっくりと顔を上げて彼女をまっすぐに見つめた。

「……そうだ、気が変わりました。今からジャン=ポールさんのお墓に行ってこようと思います」

「え? そうですか。ならご案内しますよ」

「いえ、それには及びません。場所だけ教えて頂けますか」

「え? ええ」

 戸惑いながらも俺にデータを送った彼女を見て、俺はすぐに全力で走りだした。

「ク、クライスラーさん?」

「お気になさらず!」

 驚いた彼女の叫びが聞こえたが、俺は大声でそう返すとそのまま走りだした。

 消え去ろうとする幽霊ガイストのような真相を逃さないために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る