第19話

 駅舎内は暗く、割れた天井から漏れる月の光だけが頼りだった。

 散らばった瓦礫を避けながら、俺は先行するジャン=ポール・グランデを追いかける。既にその背中は捉えていた。ただの一般人に過ぎない彼をここで捕まえるのは容易いことだが問題が一つ。

 背後からの気配を感じて、俺は咄嗟に前方へ跳躍。同時、背後のコンクリートが弾ける。アスファルトを砕いた鋼鉄の爪と入れ替わりに更に二本の爪が俺の背中を狙って襲いかかる。頭部を狙ったその追撃を回避すると俺は前へと進む速度を上げる。

 つまるところ唯一の問題なのは、あのカソックのガイストがついてきてしまっていることだった。あのガイストを退けなければ博士を連れ戻すことは不可能だが、先に奴の相手をしていれば、博士に逃げる時間を与えることになる。

 幸いなのは敵の増援をアルフォンスが食い止めてくれていることだろう。分が悪いことに変わりはないが、少なくとも想定外の要素はだいぶ減る。

 前方に見えているのは動きを止めたエスカレーター。視線の先の透明な屋根からは、鉄骨をむき出しにしたビルが並び立っているのが見える。駅の手前と変わるわけでもない風景。それに彼は何を見ているのか、一心不乱に走り続けている。

 右手の銃で彼の足元へと威嚇射撃。この際当たったら仕方ない。まずは足を止めさせる。

 珍しく弾丸は狙い通りの場所に着弾し、瓦礫を弾き飛ばす。

 躓いた博士の視線が後ろへと向く。走り来る俺を見た彼は、足をもつれさせて尻餅をついた。その目の前で俺は立ち止まる。背後からの追撃はまだ遠い。

「博士、娘さんが待っている。さぁ、戻ろう」

 俺はそう言って手を伸ばすが、博士は聞こえていないのか、そのままあとずさりで出口へと逃げていく。視線の端に、カソックを纏ったガイストが映る。

「じゃ、邪魔をするんじゃない! そこを退け!」

 進行方向へと回り込んだ俺に博士が叫ぶ。黒い影が異形の右腕を構える。

 背後からの機械音に博士が身をすくめると同時、俺は彼の首筋に鋭く一撃を加えた。ちいさくうめき声を上げて倒れた博士を思い切り引き寄せる。

 放たれた四つの爪は俺が博士を抱えていると見るや、軌道を修正してそのまま主のもとへと戻っていく。それを確認した俺は、彼の体を背後へと横たえた。

「人質のつもりか。卑劣な貴様ら人間にはよく似合う」

「人質も何も勝手に連れて行こうとしているのはそっちだと思うが。なぁ、高潔なるガイストさん?」

「世迷い言を。死ね」

 カソックが両手を広げ、放たれたのは十条の刃。包囲するように放たれたそれを見て俺は咄嗟に前方へと跳んだ。

 俺のいた空間を左右から刺し貫く爪。前方から遅れて届く爪は両腕を交差して防ぎ、衝撃を利用して後退。倒れこんだ博士の首を掴み右側に跳躍すると、追いかけてくる黒刃から逃れるように後方へと走った。左後ろの壁を切り裂いてコンクリートに爪痕が刻まれていく。

 俺は振り返らずに、猛然と駅の出口へ走った。迫ってくる爪の攻撃が腕を軽く切り裂くがひとまず無視。

 エスカレーターの横に設置された装置までたどり着くと、俺はそれに向かって思い切り右腕を叩きつけた。そして、告げる。

「目覚めろ、我が下僕、カール」

 言葉が現実を塗り替えていく。古びていたが装置自体はまだ生きていたようだ。宿ったガイストが俺の意志を読み取って作動。外へと繋がる風景を遮断するように、シャッターが勢い良く降りて道を塞いだ。

『参上したぞ、マスター』

「俺が指示するまで絶対に誰もそこを通すなよ」

『了解』

 シャッターの制御装置に死霊術を使うことなど初めてだが、この際仕方ない。シャッターを閉めるなんて簡単な作業なら、定着率をそれほど上げない突貫工事でもなんとかなるはずだ。

 引きずっていた博士の体をシャッターにもたれさせ、俺は背後の敵に向き直った。

「来なよ、タフガイ。通りたかったら俺を倒して行け、というやつだ」

「人間風情が。小癪な真似を」

 ゆっくりとこちらに近づきながら、カソックは伸ばしていた爪を引き戻し胸元の十字架のペンダントに触れた。

「神よ、私を導いて下さい。これから、あの神を裏切った愚かなる人間に裁きを下します。どうか、私に力を」

 目を閉じ、熱心に祈るその姿はまさしく敬虔な宗教者という風情だった。

「そうやって祈ったら神様が助けてくれるなんて、ガイストは恵まれてるな」

「何を愚かな。自らの欲望のままに生き、そして、我々のような存在を生み出した、人間の行いこそが貴様らの神を殺したのだろうが」

「そうかい。俺は、あんたらの言う神だって結局のところ人間の模造品にしか聞こえないな」

「それが何だと? 信じる我らにこそ神は奇跡を与えて下さる。貴様らのような堕落した生物を排除するためにな」

 カソックのガイストはそう言ってこちらを睨みつける。その表情には一片の迷いもない。俺はただ右腕で髪の毛をかきむしった。

「さっさと来なよ、子羊ちゃん。神様が助けてくれるんだろう?」

 その言葉に返答はなかった。怒声と同時、放たれたのは、十の爪撃。それぞれが異なる軌道を取りながらも狙っているのは、ただひとつ、俺の首元。

 身をかがめてそれらをかいくぐり、敵へと突進をかける。ようやくこれでシンプルになった。まずは、このガイストを倒す。話はそれからだ。

 ガイストは俺の接近を見て背後にステップ。身の丈ほどもあろうかという二本の腕が地面を擦れていく。先端から伸びた爪がそれに応じて、俺の背後に迫る。反り返るように、俺の背を狙って爪が再度の攻撃を繰り出す。

 容易にはかわせないと判断してすぐさま右へと進路変更。カソックが腕を手前に振るうと、直線的に迫ってきていた攻撃は空間を切り裂く斬撃へと変わる。

 平行線上の俺に向けて放たれた刃を大きく跳躍して回避。空中で一回転した俺は、天井を蹴ってシャッターの前まで再び後退。同時にコートから拳銃を取り出して発砲。反射的に弾丸を撃ち落としたガイストを見ながら、俺はゆっくりと敵の様子を窺った。

 俺の牽制で追撃の機会を損ねたカソックも、様子を見るように両腕を地面へと向けて動かない。相手の得意な中距離戦に付き合えば勝機はないが、近距離戦に持ち込むには多少のリスクを背負う必要がある。

 普段の相手なら、機動力で一気に勝負を決めることも出来たが、自在に動く爪は弾丸よりもなかなかどうして厄介だ。そして何より、刃物であるから、コートによる防御がほとんど意味を成さない。強行突破はできない、加えて背後のシャッターを守るためにはどちらにせよ相手を押し込む必要もある。

 どうにも、無茶が必要だった。だが、考えてみればそれが探偵の仕事だ。昔、師匠とそんな事を話したような記憶が脳裏を掠めて、俺は少しだけ笑った。

 それをどう捉えたのか、カソックが両手を持ち上げた。

 放たれるのは闇色の弾丸。高速で襲い来るそれを平行に走りながら避けていく。駅の床を砕いていく三つ目の爪をかわし、俺はちょうどそこで急ブレーキ。停止した俺の足を、コートが持ち上げ、その蹴り足を強化していく。ワンテンポ遅れて放たれた爪の嵐を背後に速度を上げる。

 残っていた左手が水平に振るわれる。格子状になった五つの刃が俺の身体を切り刻もうと襲い来る。が、遅い。直線的に放たれたそれらを見下ろすようにして、俺は空中へと飛び出していた。アスファルトの砕ける音を背中で聞きながら、一気にガイストの斜め上まで飛び込む。

 驚愕に目を見開いた金髪碧眼の男の顔が眼下に映る。相手の爪はまだどちらも引き戻されてはいない。

 俺は思い切り右拳を振りかぶった。跳躍の勢いのままガイストの頭部へと狙いを定め、そして、その表情に気づく。敵が慌てながらも、その瞳に一筋の冷静さを残していることに。そして、まだ武器の戻らないはずの、防御には届かないはずの右手を俺の方へと向けようとしていることに。

 その違和感が俺の拳を止め、そして俺は認識した。その腕の中心、先端部分。爪の付け根で囲まれたそこに、巨大な砲が備えられていることに。振りかぶった右腕を引き戻し、防御の姿勢を取る。轟音はそれと同時だった。

 放たれた弾丸が俺の両腕と激突し、俺は駅の床へと思いきり叩きつけられて、地面を滑った。衝撃で息が詰まるが、このまま寝ているわけにはいかない。右腕を地面に叩きつけて、無理やり起き上がる。

 敵の方も反動で大きく後ろに下がっていた。弾丸を放った砲口は紅く染まり、白煙が上げている。体勢を立て直す俺達の二人の中間地点に、天井から人間の拳ほどの砲弾が落ちて地面を穿った。

「人間よ、これも貴様らが生み出した咎の一つだ」

 ゆっくりと煙を上げる腕を引きずりながら、ガイストがこちらを睨みつける。

「武器が作れなきゃ人間は肉食動物に襲われて死んでるんじゃないか、敬虔なる神父殿?」

 防御に使った両腕を軽く振る。異常はなさそうだ。少なくとも今は。

「私は生まれながらにして、同族殺しの罪を背負わされたのだ。貴様ら人間によって」

 同族殺し、と言うのはガイストを殺すためにということか。だとすればこれだけの兵装にも納得がいく。ガイストの装甲を打ち破るにはあれだけの威力が確かに必要だろう。

「お前の話は聞き飽きたよ」

 同時、俺達は右腕を上げる。一瞬早く俺が放った弾丸が、前方から迫り来る爪を弾き飛ばした。横転して、残りの攻撃を回避しながら、俺は移動を再開。

 遠距離は相手の方が有利。だが、迂闊に近づけば奥の手が待っている。ますます劣勢な気がしてきたが、あれさえかわしてしまえば相手はかなりの隙を晒すことになる。だからこそ、その一瞬を見極める。それに変わりはない。問題はシンプルなままだ。

 弾丸のように襲い来る爪を片手で弾き飛ばして、俺は壁に向かって走る。追って伸びる三本の黒刃を左手に見ながら、壁に向かってそのまま踏み出す。爪が背後に突き刺さっていく。俺はそのまま身体を傾けてコンクリートを疾走。

 視界の端を引き戻されたガイストの武器が横切る。逆の手から伸びた爪が更に俺を囲い込む。壁を蹴って宙へ。爪と爪の間へと身体をねじ込み、足元の一本を踏み台にもう一度跳躍。

 斜め下方向へ飛びながら、ガイストとの距離を三メートルほどにまで詰める。

 手元に戻ってきた爪が再び射出される前に、俺は右手の引鉄を引いた。左手を掲げて受け止めるカソックのガイスト。牽制を放った俺は一気に飛び込む。

 ガイストが右腕を俺に向けるが、それがブラフなのはわかっている。俺は、もうひとつ前へと足を進める。ガイストが向けかけた右腕を引き戻した。その腹部に、フック気味に右拳を叩き込む。ガイストがずらした右手と衝突して、鈍い金属音。双方の距離がわずかに離れる。

 反撃を放とうとするガイストに身をかがめながら、水面蹴り。俺の頭上をガイストの左手が切り裂き俺の左足がガイストの両足を払う。

 しかし、倒れこむ途中で敵が跳躍。地面に突き刺した爪で自分の体重を支えて、そのまま移動したのだ。背後にカソックが着地。五本の鉤爪が振り返りながら放った俺の掌打と激突。

 爪の先端がコートの表面を切り裂いていくが、無視して追撃のハイキック。体勢を崩していたガイストの左肩に直撃し、片腕をついて後方に吹き飛ぶ。

 仕切り直させるわけにはいかない。立ち上がろうとするガイストへと、もう一度銃を放って追撃に向かう。その牽制を腹部に受けながら、カソックのガイストは両腕を持ち上げる。

 拳銃弾は敵の装甲に傷を付けただけだった。迸るように黒い爪が左右に展開する。俺もここで止まる気はない。相手を追い詰めるにはこのタイミングしかないだろう。

 一瞬の判断とともに前方へと駆け出す。それを見計らったように爪が次々と放たれていく。右前方からの二本。姿勢を低くして回避。続けて正面下からせり上がるように迫って来る一条を、右側へのステップで回避。

 ガイストまでの距離は、あと五メートルにも満たない。だが、その俺を包囲するように残る七つの爪が襲いかかる。頭上からの三本が跳躍と後退を封じ、残りの四つが前方左右を塞いでいた。

 蟻地獄に落とされたように、俺が行く着くべき先は一つに決まってしまっていた。斜め前方への跳躍。それが罠と分かっていても、ここで一撃を喰らえば、ここを突破できなければ、このガイストに勝利することは出来ない。

 俺には、こいつのような、あるいは、アルフォンスのような奥の手はない。探偵にそんな大層なものを求めるのは筋違いだ。

 コートによる筋力強化。高められた脚力で俺はおびき寄せられた場所に向けて包囲網を脱出する。その先で、右腕を掲げて待ち構えているガイスト。開かれた爪の隙間から見えているのは、巨大な銃口。

 既に敵の左腕からは火花が散っていた。もう一手、こちらにチャンスがあったならこの立場は逆転していただろう。相手を追い詰める一手を撃っていたのはこちらだっただろう。

 だが、起死回生の一手が相手にはあった。ここで使ってこそ意味がある、奥の手が。俺に奥の手はない。だから愚直に、最後まで。タフにあがいてやろう。

 弾丸が炸裂しようとするその直前、空中で俺は少しだけ身を捻る。力は、纏ったコートによって増幅され、紡がれたエネルギーが俺の身体に再び返ってくる。

 そして、爆音。放たれた銃弾が、彼方の天井を貫く。その間にあった黒いコートを巻き添えにして。

 そう、コートだけを巻き添えにして。

 空中でそれを脱ぎ捨てて、俺はもう一段高く飛んでいた。無防備な敵の頭上で俺は拳を振りかぶる。今度は止められない。コートが主を解き放ちながらも託したエネルギーを存分に乗せて、俺は右拳をガイストの右肩へと叩き込んだ。

 金属同士がぶつかり合い、狭い駅の通路を駆け抜けていく強烈な音の波。空中からの俺の一撃が、ガイストを壁面に叩きつける。コンクリートの崩れる音がそれに続く。

 俺は膝をついて着地。目の前にガイストの巨大な腕が転がっていた。工具で無理矢理にねじ切ったような歪な断面が見えている。小さくうめき声を上げるガイストを見下ろしながら、俺はちょうど天井から降ってきた黒いコートを掴み、肩に掛ける。

 執念の篭った眼差しで、敵が左手を軸に身体を持ち上げようとする。だが、その意志とは裏腹に機械の巨躯は限界を迎えているようだった。

 壁に向かって俺はゆっくりと近づき、コートを探る。どうやら背中の部分に穴が開いただけのようだった。胸ポケットに入れていた拳銃の無事を確認すると、それをガイストの左肩に向けて撃つ。

 既に接合部が傷ついていたそこにめがけて、一発、二発、繰り返し、弾が尽きるまで歩きながら射撃。目の前に立ち、思い切りその肩口に蹴りを入れる。憎しみの目でガイストは俺を睨みつけてくるが、知ったことではない。下半身は残っているとはいえ、あとほんの一撃でこいつは定着物の崩壊に耐え切れずに消えるだろう。

 壁に磔になったガイストと、その動きを封じている俺の視線が交わる。銃口を向ける。何かを告げようとしたのか、ガイストが首を動かす。

「じゃあな。生き方も選べない、正真正銘の幽霊ガイストさんよ」

 返答を聞くつもりはない。俺は人差し指に力を込め、そして、その瞬間、視界の端を動く影に気付いた。

 白衣の男が、俺が封じたシャッターを持ち上げようとしている姿に。

 俺が一瞬気を取られた隙にガイストのちぎれかかった左腕が微かに動いた。放たれた黒い一指が、流星の如く空間を切り裂く。刺し貫いたのは、遥か彼方、遮断壁の制御装置。

 存在被拘束性。そんな言葉が脳裏を切り裂いて。次の瞬間には、シャッターが上へと跳ね上がった。

「クソが!」

 怒声が口をついて出る。ガイストには目もくれず、俺はコートを投げ捨てて一気に疾走する。防壁を張っていた事で完全に博士のことは意識から消え落ちていた。

 シャッターをくぐり抜けたジャン=ポール・グランデがかつてエスカレーターだった階段を滑るように降りていく。俺はその後を追って走る。筋力強化は使えない。加えて俺自身の体もかなり危うい状態にある。牽制用の拳銃はさっき弾丸を撃ち尽くして使えない。

 それでも走る。ここまで来て逃がす訳にはいかない。どんなことがあろうとも連れ戻さなくてはいけない。それは俺の探偵としてのプライドの問題でもあり、それ以上に道を違えた親子にとって何よりも必要なことだった。

 階段を二段飛ばしで駆け下りながら、下まで降りた博士の姿を追う。博士は足をもつれさせながらも、駅前の大通りを渡って、目の前に見えるビル群へと逃げていく。あの中にまで逃せば、もはや探し出すことはかなわないだろう。その前にケリを付けなくてはいけない。

 大通りを渡り終えたところで、博士は瓦礫に躓いて膝から倒れる。その間に俺が追いつく。もはや互いの距離は五メートルほど。再び立ち上がった博士が駆け出す。その背中は愚直で、必死で。年老いた科学者を何がそれ程にまで駆り立てるのか。俺は、懸命に手を伸ばす。

 その白衣の背中がすぐ目の前に迫る。肩に手を触れようとする、その刹那。背筋を撫でるように、風が駆け抜けていった。

 銃声を聞いたのは、それとほぼ同時。目の前を走っていた、ジャン=ポールの身体が吹き飛んでいた。時が止まったように、彼の身体が空に投げ出される。まるで、空が飛べると信じた古代の英雄のように。その姿は宙を舞い、地に落ちた。

 呆然とその光景を見ていた俺も、その音で我に返って彼を抱き起こした。

「おい、大丈夫か!」

 表情に力はなかった。額の中心には黒々とした弾痕。弾丸が貫いたその場所から、赤黒い血液が溢れでていた。

 どうするべきだ。頭が回っていないのが自分でも分かる。どう見てもこのままでは助からない。どうすればいい。

 だが、口元からも血液を零しながら、博士は懸命に手を伸ばしていた。自らが走ってきた場所。駅舎の方角へと。振り向いた俺に見えたのは暗闇に消え行く人影のみ。

 彼はそこに何かが見えているようだった。焦点の合わさらない目で、そちらを見やりながら彼は口を開く。

「……た……の…………」

「どうした!」

「……リー……すま……な……」

 俺の叫びは届かず。虚空を見つめたまま、博士の目から光が消える。伸ばしていた手が落ちた。額からの出血が俺の右腕を濡らす。俺はただ彼の亡骸を抱えていることしかできない。

「ふざけやがって!」

 遅れて、絶望と怒りが俺の胸を焼く。知らず叩きつけた右手が、壊れかけの道路を砕いた。

「どうしろってんだ! クソが!」

 慟哭は宵闇にかき消され。見捨てられた街の片隅で俺は、死者を前に無力を噛み締めていた。

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