第13話

 傾き出した太陽が、橙色の光で修復途中の路面を照らしていた。

 夜になれば、明かりを灯し始める店の看板も、今の時間は静かに影を落とすばかりだ。

 ざわついた雰囲気の町並みは、早くも夜に向けて準備を始める人々が行き交っている。大通りだけあってこんな時間でも既に営業を始めている酒場もあれば、市内の店を真似た洒落たカフェもちらほら見える。

 砂埃が散って、コートに絡みつく。店先でタバコを吸う女性たちがぼんやりと俺を見ていた。右手に持った紙袋の口を閉じて、俺は少しだけ早く歩いた。

 大通りから二つほど角を曲がると、繁華街の雰囲気は若干薄れてくる。昼間から酒を飲んでいる男たちが路上に座り込んで、カードを広げている。その男たちの頭を奥の店から現れた若い女性が思い切り叩く。

 そんな賑やかさから少し離れた落ち着いた場所、「おおとり」と書かれたのれんをくぐって、俺はいつもの居酒屋の戸を開いた。

 「まだ準備中で、……あんたか」

 いつも通りの不機嫌な顔を見せたのは、この店の店主、イーリス・シュバルツシルト。

「準備中なら待とうか」

「いいわよ、別に。そっちの仕事なんでしょ?」

 店を開けていないからか、いつもは束ねている長い銀髪は背中辺りまで降ろされていた。

「話が早くて助かる」

「その用事でしか来ないじゃない」

 通常の倍くらいの不機嫌さで、彼女はカウンターを指差して座るように促す。

「一応、今日はそれだけじゃないんだが。親父にも言われてな」

 店の奥へと歩いていこうとした彼女の足が止まった。

「あの人が何か?」

「心配だからたまには様子を見てきてくれって」

「へぇ」

 興味なさげに返答すると彼女は俺の前にコップを置いて、カウンターの向こう側に座った。

「それで、今回は?」

「ああ、実は公安のデータベースからある男のデータをちょっとばかし調べてほしくてな」

「なんだ、そんなこと。二秒で終わるわ。さっさと名前教えて」

「ナポレオンだ。白いコート、フードをかぶっていて顔は見えない。その男の居場所が知りたい」

「また厄介そうな話ね」

 言いながら、彼女はカウンターの下から白いケーブルを引っ張り出した。右手でそれを持つと反対側の手で長い銀髪をかき分けて首元をさらけ出す。見つめていた俺に気付いた彼女は、その視線から逃れるように体をひねった。

「なによ。そんなに見られてたらやりにくいじゃない」

「いや、随分髪伸ばしたんだな、と思って」

「別に。昔から、伸ばしたかったのよ」

 押さえていた髪の毛を手放して、彼女は少しだけ俯いた。

「普通に似合ってるぞ。そっちのほうが居酒屋の主人っぽくて」

「う、うるさいわね」

 彼女はそっけなく言って再び髪をかきあげると、首元に見える小さな端子にそれを差し込む。

「公安のデータベースなんてチョロいものよ。真面目に守る気もないんだから」

 そう言いながら、彼女はカウンターに置かれたキーボードを凄まじいスピードで叩いている。さすがにこのトウキョウでも十指に入るほどの腕前を持ったハッカーだけのことはある。

「お前、まだ親父のこと怒ってるのか」

「……別にそういうのじゃないって」

「まぁ、親父の方も電脳直結のことはだいぶ怒ってたみたいだが。だとしてももうさすがに許してくれるだろう」

「……それはあんたが……いや、あんたはどうなの」

 何か言いよどんだ彼女は、何故か俺に聞き返してきた。

「俺がどうした」

「いや、その……父さんはさ、電脳直結なんてしたら、それは人間をやめるのと同じだって。あんたは本当にそう思う?」

「さぁ? 少なくとも俺は今もお前が人間に見えてるよ」

 俺の軽口に珍しく彼女が笑みをこぼした。その間も指先はキーボードを叩き続けている。

「でもまぁ、親父の言いたいことも分かるよ。親父だって全身機械に変えてるんだ、俺よりもなおさら分かるだろうな」

「私だってそれは分かってるけど」

「例えばさ、死霊術の概念だが存在被拘束性って言葉がある」

「聞いたことはあるわ。精神はその宿っているものに依存している、だっけ?」

「それだ。まぁもともとは別の学問の考え方らしいけどな。まぁ要するに機械に宿っているガイストとこの肉体に宿っている人間の精神はたとえ同じものだとしても違うものになる、っていう話だ」

「だから、私が電脳に直接つながるような体になってしまえば、私の考え方だって変わっていくってこと? でも、それは普通に人間が成長していくってことと何か違いがある?」

 反論を返した彼女に俺は大きく頷いてみせた。

「確かに。だから、電脳直結するのもお前が成長していく過程の一つってことに変わりはない。ただ、この肉体のもともとのあり方を捨てていくってことは、俺達自身の唯一性を喪っていくことなんだよ」

「……唯一性、ね。それは肉体に根ざしている観念だっていいたいわけ?」

「精神ってのは、案外と頼りないものだ。ここにいる自分の証明は、他人や精神の宿る物質によってやっと担保されるものだ。電脳上に出ていけばお前はただの電気信号だぞ」

「そんな簡単な話じゃないって。まぁ、言いたいこと、分からなくはないけど」

 何か言いたげではあったが、話の意図は伝わったらしく彼女は声の調子を弱める。

「俺もたまに思うんだ。この腕も、両足ももう替えの効く部品だ。たぶんそういう風に思ってしまうこと自体がもう、人間らしくない」

「……ふーん」

「すまんな、なんか愚痴になって」

「そうね。でも、おかげで仕事は早く終わったわよ」

 気がつくと、イーリスはキーボードを叩く指を止めていた。いつの間にか首元のコードも抜いて小さく首を振っている。

「前よりはセキュリティ意識が高まったみたいね。まぁ、余裕だったけど。メールしといたわ」

 言葉と同時、ポケットで小さく端末が震えた。画面には公安内部宛に送られたであろう電子メールの一部が抜粋されていた。

 白いコートのガイストは、あの後すぐにガイスト達の集団からは離脱し単独行動を開始。現在は、サガミハラ付近に潜んでいるらしく、動向を確認中、とのことだった。

「すまないな、いつも」

「別にこのくらい、気にすることないわ。楽な仕事だし」

「報酬、振り込んどく」

「いつでもいいわよ。どうせお金ないんだろうし」

「そんなことはない。お前に支払うくらいの余裕はあるさ」

 そんな俺の言葉に彼女はまた小さく微笑むと、ちらりと入り口の方を見る。

「もう開店か?」

「いや、今日はその、アルフォンスさんいないの?」

「あいつなら別のところで調査中だ。なんだ、ようやくデートに応じる気になったのか」

 俺の言葉に彼女は思い切り顔をしかめた。アルフォンスにいつも口説かれているから苦手意識があるのだろうか。

「こういう言い方したら失礼かもしれないけどさ……あの人、本当に女の子が好きなの?」

「まぁ、あいつの態度見てたら、確かにそうは見えないな」

 躊躇いがちにイーリスが頷く。

「俺も詳しいことは知らないけど、実際あいつが女の子を連れてその辺を歩いてるのは何度も見たことがある。少なくとも俺は本当だと思って付き合ってるよ」

「そっか……ふーん……そうなの」

 イーリスは心なしか嬉しそうに見えた。本当はアルフォンスに興味があるのだろうか。

「まぁ、本当にアルフォンスと付き合うつもりなら、二股三股は当たり前らしいから気をつけろよ」

「え? 何言ってんのよ、そんなつもり無いんだけど」

「そうなのか? まぁそれならいいんだが……あぁ、あとそうだ」

 思い出した俺は、テーブルの上に置きっぱなしにしていた紙袋を彼女に差し出した。

「さっきレベッカにも会ってきたんだ。お前にプレゼントだそうだ」

 袋を見るなり、イーリスは呆れた顔を見せた。

「あの子、また変なもの作ったのね。全く……」

 そう言いながらも彼女は早速袋の中を覗き込む。

「圧力鍋だそうだ」

「へぇ、今度はどんな恐ろしい機能が追加されてるのかしら」

「なんだそりゃ」

「まぁレベッカの改造って加減が適当なのよ」

 そう言いながら袋ごと彼女は奥のキッチンへと持っていった。

「あと、来週末あたりにバーベキューをするから来てね、とも言っていた」

「毎年恒例ね」

「親父なら、仕事でいないらしいぞ」

「まだ何も言ってないわよ。それに私だって店があるの」

「妹には会いに行ってやれよ」

「……」

「まぁ勝手に出ていった手前、気まずいのは分かるが」

「あんたは?」

 言葉を遮ってイーリスが俺に聞き返してくる。

「俺も一応誘われてるが、今の仕事が終わるかどうか次第だな。それ以前に死んでいなければ、だが」

 俺の自虐に彼女は無反応だった。何を言ったらいいものか分からず、俺も黙り込む。その沈黙を先に破ったのはイーリスだった。

「……あんたも来なさいよ」

「……聞いてたか?」

「さっきの報酬、いらないわ。代わりに来週末今の依頼を終わらせて必ずあんたも来なさい」

「どうした、いきなり」

「いいから」

 真剣な彼女の口ぶりに気圧されて思わず頷いてしまう。

「ああ、けど、なんでそんなこと言い出したんだ?」

「そのほうが気楽だし。別にいいでしょ」

「まぁ、構わないけどなぁ」

「じゃあ、いいじゃない」

 口を尖らせるイーリス。

「そうと決まったらさっさと仕事に取り掛からないといけないかもな」

「む。まぁ、そうしなさいよ」

 立ち上がった俺を、彼女は上目遣いに睨みつける。

「まぁ、おまえのおかげで少しは楽できたしな」

「ええ。頑張りなさいよ」

 その言葉を聞いて、俺は出口へと歩き出した。扉から差し込んだ光が眩しくて俺は思わず目を細める。

 後ろで気配がして振り返ると、イーリスはカウンター越しに俺のそばに立っていた。

「……十分人間らしいよ、あんたは」

 つぶやいた彼女の声に俺は思わず彼女を見つめる。

「探偵のくせにちょっと間抜けで、お人好しで、そのくせ、いつも馬鹿みたいに悩んでる。そういうところ」

 言って彼女は俺から目をそらした。なんとなく俺も俯いて、少しの沈黙の後に言葉を返した。

「……その言葉、お前にも返しておく。その分じゃ、当分親父とは仲直りできそうにないけどな」

 そっぽを向いたままのイーリスの頬が僅かに紅く染まった。

 「うるさい、さっさと行きなさいよ」

 「ああ、言われなくても」

 苦笑いで返すと、俺は店の外へと歩き出した。

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