第4話

 朝日が上ってくるのを左半身で感じながら書類の片付けを済ませると、二時間ほど眠った。応接用の椅子を並べてその上に寝転がったものだから、腰の痛みが酷かったが疲れは少しとれた。

 義肢に疲れはたまらないぶん、それを支える生身は一層疲れる。もっとも、年を取ったせい、という可能性も十分にあるのが恐ろしい。

 目覚めると、歩いてコンビニに行きコーヒーを十缶ほど買ってきた。甘ったるいそれを一つ飲みながら、眠りかけの頭を覚醒させる。

 十時頃になって、工場の件を報告すべくムラタ・インダストリーに電話をかけたが、とりあえずもう一度あっちで状況を確認してから連絡をすると言われてしまった。大方、断られたようなものだろう。それでも報酬の半分は支払うと言われたので助かった。気前のいい事だ。

 それから、隣の部屋に行ってシャワーを浴び、髭を剃って少しは身ぎれいに見えるようにした。さすがに市内の依頼人に会うのにあまり適当な格好ではいけない。

 昨日から着ていたシャツは脱ぎ捨てて新しいものに着替える。後で洗濯に出しに行かなくては。そんな日常の雑事すら積み重なっている現状に自分でもおかしくなった。

 もう一度事務所に戻ってコートを羽織ると、内側のポケットに入れていた拳銃を確認する。残弾数は六。市内に行くなら、そう使いはしないだろうから、そのままポケットに戻す。携帯端末と鍵が右ポケット。煙草と小銭を左ポケットに入れた。

 市内で必要なID情報は義肢にそのまま仕込んである。本来は携帯端末や、カードにして持っていたりすることが多いのだが、たまたま義肢にする時に提案されたのでそうしている。ちなみに事務所の扉を開ける時の鍵もこの腕だ。無くす心配がなくて便利なのだが、いつか戦闘で酷使して壊れるのではないかと心配ではある。

 なにせ、俺の体に馴染むように神経などはDNA情報をもとにして作ったのだと言っていた。作り直すのにかかる費用など考えたくもない。

 外に出ると早くも太陽が中天から熱を送り出していた。春になったばかりとは思えない陽気だ。

 鍵をかけて大通りまで出る。ここから市内までは十五分ほど。確かに環境はあまり整備されていないが治安もそれほど悪くない。見た目ほどひどい街でもないのだ。

 存外に活気に満ちた大通りの店舗を横目に見ながら、日光を反射して眩しい壁へと歩く。

 ゲートのところまで辿り着くと、歩行者用、自動車用とそれぞれ五つのレーンがあり、そこに備えられた門には事務所にあったのと同じような認証機が付けられている。腰の高さほどにあるバーがIDの確認が終わるまでは行く道を阻んでおり、更に各ゲートを囲い込むように数人の公安職員が監視していた。

 これが市内を隔離している検問だ。こんなものがあるのは、未だに人間とガイストは長かった大戦の「休戦」状態でしかないという事実があるからだ。

 そもそも、俺のような機械化した人間がいる時点で、意志を宿した「もの」であるガイスト達を、明確に区別することは不可能になってしまった。それはすなわち、つい七年前まで敵だった彼らが、いつ何処に潜んでいるのか分からない、という状況が生まれるということになるわけである。それを解消するために、徹底的な戸籍の管理と個人のID登録がなされるようになった。

 ガイストは子どもを産まない。彼らの内の幾らかが死霊術師として、新たなガイストを生み出すことは可能だが、それは人間の言う出産に該当する行為とはあまりに異なるものだ。

 であるからこそ、我々が誰の子供であり、あるいは誰の配偶者なのであり、誰の親なのかということを明確に示すことのできるもの、そのような戸籍システムを整備したのなら、そこにガイストが入っていく余地はないということになる。

 もちろん、それの抜け道なんてものはいくらでもあるのだけれど、それでもガイスト達と人間の休戦を保つ程度には力を持っているわけだ。

 俺が示した右腕を読み取って数秒黙りこくった端末は、しぶしぶというようにバーをゆっくりと上げた。

 くぐり抜けた先で睨みつけていた公安職員に両手を上げて、無実を証明する。

「仕込んであるんでね、反応が悪いのさ」

 男は無言でこちらを眺めたまま頷いた。文句があったわけじゃないらしい。悪いことをした。

 門を抜けると、すぐ目の前には地下鉄の駅。それを囲い込むように、飲食店や大きな商業施設が立ち並ぶ。その様子は壁の外と比べると幾分色合いも鮮やかで、活気を感じさせる。女性の服飾店、薬局や食品店、ゲームセンターのような娯楽施設までよりどりみどりだ。

 賑やかな町並みを眺めながら、人の流れに沿って駅構内へ。くまなく照明で照らされた階段を下り、改札口で再び右腕をかざしてホームへ。閉じ込められて、肌触りの違う空気が風に乗って顔を撫でる。

 二回ほど乗り換えて、シナガワまで辿り着いた。

 携帯端末の時計は十一時半を示していた。先ほどの駅――セタガヤ――よりも、どことなく飲食店が多い町並み。綺麗に舗装された石畳を、スーツを着た人々が集団で歩いていく。そびえ立つ巨大なビルが美しい幾何学模様を壁面に描いている。

 人類がその存在を誇示するために高く積み上げたその塔の麓には、噴水と植木によって演出された広場。未だ歩道さえ再舗装されていない市外に住んでいる身としては隔世の感がある。

 埋立地を繋ぐ大きな橋を抜ける。対岸のビル群と水面からの陽光が眩しい。向かい側から競技用の自転車が俺の横を通り過ぎて行く。

 橋を渡ると雰囲気が少し変わり、高いビルではなく黒いゲートで囲われた扁平な施設が目立つようになる。研究所と呼ばれるものなのだろう、広々とした敷地にはいくつかの施設が分かれて存在していた。

 奥の方には、天然芝の青々としたグラウンドがあるのも見える。研究所を二つほど左右に眺めながら直進し、高層ビルの麓の蕎麦屋を右手に曲がる。すぐそこの路地を左に入ると、左側には巨大な住宅施設。右側には、いくつかの小さな店舗が並んでいる。その内の一つが指定された喫茶店だった。

 入り口に近い席に座るとコーヒーとサンドイッチを注文した。昼時だったが客は殆どいない。たまに入ってくる客も暇を持て余したという体の老人ばかりだ。それを考慮して彼女はこの場所を選んだのかもしれない。

 客も来ないので、安心して俺はサンドイッチを食べ続けた。ポケットから携帯端末を取り出す。時刻は十一時四十五分。合成食品のサンドイッチは、代金には見合っていたがわざわざ金を払ってまで食いたいと思うようなものでもない。コーヒーはそれなりだったと思うが、俺が好きなのは死ぬほど甘い缶コーヒーだけで、それ以外の味の良し悪しなど分かるはずもない。

 道路に面した窓ガラスの向こうでは、母親たちから逃げるように子どもたちが元気に走っていた。

 入り口の扉が開いて外の風が少しだけ入り込んでくる。振り返るとスーツを着たまだ若そうな女性が立っていた。美しい金髪は肩ほどまで伸びていて、彼女の動きに合わせて流れるようにたなびいた。黒いスーツによく映える白い肌、そして南国の海のような碧眼。くっきりとした目鼻立ちは、間違いなく万人の目を引くものだろう。纏っている雰囲気や立ち居振る舞いに僅かに幼さを感じるものの、間違いなく美人と言っていい。

 戸惑いながら辺りを見回す姿に、俺は彼女が依頼人だと察する。こういう時にはちゃんとわかりやすく目印でも作っておくべきだった。二年も探偵をやっていて、未だにこういう手際はよくならない。アルフォンスならこういうことはきっちりしているのだろうが。

 俺はおもむろに立ち上がると、女性に向かって歩き出した。こちらを見て、怪訝そうな顔をする店員を片手で制止する。

「ちょっと失礼するよ。あ、グランデさんですか? 私がアルバート・クライスラーです」

「え……あ、はい、はい。私です。すみませんお待たせして」

 躊躇いがちに頷いた彼女を見て、店員は微笑んで去っていく。俺は彼女を席まで導いて座る。

「すみません、何かわかりやすく目印を決めておくべきでしたか」

「いえ、私が勝手に場所を決めてしまったからです、申し訳ないです」

 彼女が頭を下げる。電話で聞いた声だ。透き通るようなその声は彼女の容姿とよく合っていた。

「では、」

 一つ咳払いをして、椅子に座り直す。

「改めて、CA探偵事務所のアルバート・クライスラーです。今回の依頼について、お聞かせ頂けますか」

「は、はい……父は二日ほど前から姿が見えなくなって連絡もつかないんです。基本的に研究熱心なので余暇もほとんど自分の研究に費やしていて、行く場所もすぐには思いつかないんです」

「ええ」

「あの後、一応交友関係も調べてみたのですけど、友人は若い頃からの付き合いで何人かいたようなんですが、近頃はあまり連絡も取っていなかったみたいで、私自身付き合いがあるわけではないので連絡も付けられなかったです。あ、これが父、ジャン=ポール・グランデです」

 滔々とそこまで話をすると、彼女は懐から自分の携帯端末を取り出し、画像を表示する。白衣を着て憂鬱そうに苦笑いをする男の顔が映し出されていた。こちらを見ている瞳にはどこか虚ろさが見て取れる。

 顔自体は決して醜いというわけではない。ただ、乱暴に伸ばしたままの髪と髭、それに病的に蒼白な顔色が、男の印象を不気味なものにしていた。

 ジャン=ポール・グランデ――名前は聞いたことがある。ガイスト研究では第一線の人物だったはずだ。ただ、ここ数年、俺が探偵を始めてからは、それほど名前を聞いた覚えは無い。随分前の話ということか、あるいはまた別の事情があったのか。

「職場に連絡はされたのですか?」

「いえ、私は父と同じ研究所に所属しているので、それは既に確認しています。父は研究所にはこの二日間来ていません」

「なるほど、差し支えなければお勤め先を伺ってもよろしいですか」

「大井重工の第一研究所です。私も父もそこでガイストの選別的定着を研究しています。というか、私が父について行ったんですけどね」

 言って、彼女は小さく笑う。ビルの影に咲いた小さな花を俺は思った。

 大井重工は革命以前から存在し、積極的に死霊科学を開発してきた企業だ。トウキョウに本拠地を置く中では最大の企業だろう。

「選別的定着というと、スポンサーも多いでしょう」

『モノ』に意識を定着させる、死霊科学を端的に言い表せばそうなるだろう。本来、その意識のもととなるガイストは、この世界のあらゆる所に存在するとされている。

 死霊術師とは現実の認識方法を変え、言葉による定義によって、それらガイストを物質に添付、定着させる、という行為を行う。こちらも端的に言うとすれば、コートというモノに意識があるという『思い込み』を、自分だけでなく他人やそのコート自体にも拡張する、という風に思えばいい。

 選別的定着とは、本来ランダムであるそのガイストの定着において、特定のものを拾い上げて定着させようとする試みだ。これは、死者の意識はガイストとなって残っている、という考え方に基づいている。つまり、死者の蘇生だ。

 人類の永遠の夢とでもいうべきそれに近づきうるものであるがゆえに、そして、また多くの死者が出た大戦乱後ゆえに、そうした技術は注目を集めており、各方面から盛んに投資が行われている。と、聞いたことがある。

「ええ、それでもまだ現実的な成果は上げられていないというところなのですが」

「ジャン=ポールさんがそのようなスポンサーと何かトラブルを抱えていたりとかそういうことに覚えはありませんか?」

「そう……ですね……」

 そもそも死霊科学を実践的に利用しようと考えたのは、他ならぬ企業だ。意識の付与された道具や機械を作れるのなら、極めて高い生産性を成し遂げることが出来ると考えたわけだ。

 もちろん、そううまくいくはずもない。意識を持った機械、ガイスト達は労働環境や条件の悪さを自覚し、その改善を要求した。

 所詮は機械と経営層は侮り、ガイストの要求は無視された。結果として、憤った一部のガイストたちが武装して自らの企業への攻撃を開始すると、それに呼応して世界中のガイストが人間に対しての反逆を開始。革命は世界規模の大戦争へと拡大していく。

 人と機械の戦いは熾烈を極め、七年前に東ドイツでの休戦協定を持って一時的な休戦に至った。

 とはいえ、水面下での争いは未だ激しい。機械と人間の生存競争という意味では、むしろ現在進行形で継続している戦いだとも言える。

 だからこうした研究には、必ずと言っていいほど、崇高な理念をお持ちのお偉いさん方が関わってくるわけだ。ガイストよりも優位に立つために、敵を倒すために。

 そのためにガイストが人間の意識そのものであることを裏付けにして研究をするのは、なかなか皮肉が効いている、と個人的には思っている。もちろんそんなこと研究者を目の前にして言うつもりもないが。

「私の知っている限りはないと思います。父は、基本的には上の方の言うことに従って研究をしていたと思います。最近は……少し研究の本流からは外れていましたし」

 ナタリーは顎に手をやってしばらく考え込んでいたが、確信を持ってそう答えてくる。

「そうですか……逆にガイスト達と関わりがあった、ということは?」

「それも……恐らくないはずです、あ、いえ」

 何かに気付いたように、彼女は視線を下げる。

「何かありましたか?」

「いえ、ガイストと関わり、というほどではないのですが……確か三日前に妙に機嫌が良かったんです。いなくなる日の前日」

「理由は分かりますか」

「確か、研究の成果が出た……と言っていたような気がします。ただ、最近は精神的にかなり参っていたみたいだったのでなんとも言えないのですが、その」

「あ、失礼ですが。精神的に参っていたとは、どういうことですか」

 遮ってそう尋ねると、美女はまた顔を伏せた。どうにも何かが引っかかる。

「その……元々あまり明るい性格ではないですし、社交的というわけでもないのですが……ここ最近は特に研究に没頭して、私と同じ研究所にはいたのですが、あまり一緒に研究を進めていたわけではないんです。あまり家でも喋らなくなってしまったし」

「なるほど。ちなみにその理由は何か思い当たることは?」

「それは、無いです。一緒に暮らしていてとりわけ何か変わったことというかそういうこともなかったと思いますし」

 迷いなくこちらを見つめて彼女はそう答えた。

「そうですか」

 頷き、視線を落とす。

 一度話をまとめてみよう。研究以外には興味を持たないような男が、突然いなくなった。前から様子は変だったが、思い当たる理由は無い。研究が完成したようだったということ。

 顔を上げると心配そうに依頼主がこちらを見つめていた。俺の視線に気づき、少し恥ずかしそうに目を逸らす。

「ところで、研究所の方にお話を伺ったりしても大丈夫ですかね」

「多分、大丈夫だと思います。父がいなくなったという話は共有していますし。……あの、それと依頼金は……その」

 俺の言葉に答えたナタリーは数秒の逡巡の後、そう切り出す。そのことを聞きたかったのか。まだ、依頼を受けるという話をしたわけではないが、確かにそれは重要な要件だ。

「基本的には一日につき、調査費として一万五千円。経費はこの中に含んでいます。後は、成功報酬で十万円、その他、調査以外のこともご依頼されるようなら別途ご相談という形ですが」

「あの……調査以外、と言うのは……」

「ああ、最近は探偵をボディガードとか、工場へのお使い代わりに雇う方もいらっしゃるのでね」

「お使い……ですか?」

「ああ、お気になさらずに。ただのジョークですよ」

「はあ……あ、」

 不思議そうに首を傾げた後、察した彼女は苦笑いをする。

「大変なお仕事なんですね」

「近頃はまともな仕事のほうを忘れてしまいましてね。それで、依頼金の方は問題がなさそうですか?」

「え、はい。私も父のことですし、そのことでお金を惜しもうとは考えていません。少し確認したかっただけなので」

「なるほど。ところで、何故うちの事務所にご依頼を?」

 またも苦笑いをするナタリー。

「いえ、たまたま知り合いが昔、シャルーさんに助けていただいたと話していたのを聞いた事があったんです」

「やはりそうでしたか。どうしてうちのような零細探偵事務所に依頼されるのか気になっていたのですが」

「本当は話してみてからお願いするか決めようと思っていたんです。でも、クライスラーさんと話してすぐにここで良いと思いました」

「それは嬉しい限りです」

 微笑んだ彼女に軽く頭を下げると、俺は軽く目を瞑った。彼女の碧い瞳と、美しい金髪がまだ瞼の裏に焼き付いていた。

 師匠が昔、言っていたことがある。美人には気をつけた方がいい、と。

『美しいっていうのはそれだけで才能だからね。それも、他人を巻き込む質の悪い才能。だから、美人の依頼人が来た日には覚悟したほうが良いよ。絶対に何か危ない橋を渡る羽目になる』

 あれは始めて一緒に酒を飲んだ日だったか。酔っ払いながらそんな事をこぼしていたのを、彼女を見て思い出した。そう、明らかにこれはただの人探しでは終わりそうにない。

 扉が開く音がした。涼しげな風が入り込んでくる。目を閉じた暗闇の中で、思考を巡らせる。

 そもそも手がかりがなさ過ぎる。この状況でどうやって男の行方が分かるというのだろう。取っ掛かりがあるとすれば、ジャン=ポール氏が生み出しただろう何らかの発明、それがもっとも近いとは言えそうだが、それはどう考えても『危ない橋』だ。

 今の段階なら、まだ断れる。事務所の財政なんて事は、きっとどうにでもなる。そんな事を考えていた。もしかしたら、目の前で依頼人は不安そうにこちらを見ていたかもしれない。脳裏に響いていたのは、師匠の言葉だった。

 口を開こうと目を開ける。その刹那。

「おやおや、アルバくん、何を迷っているんだい?」

 斜め上から聞き覚えのある、声。視線を横にずらす。軽薄な笑みがそこにあった。

 昨夜と変わらない、穴の空いたジーンズに、昨晩とは違う色の着崩した派手なシャツ。少し開いた胸元には銃弾を模したネックレスが光っていた。

「アルフォンス……?」

「失礼いたしました、ご婦人。私はクライスラーの同僚でアルフォンス・カートライトと申します。今回の依頼、私が最後まで責任を持って担当させていただきますのでご心配なく」

 睨みつけた俺を無視して、アルフォンスはナタリーの手を取っていた。

「おい、勝手な事言うんじゃない。だいたいお前どうやってここに」

「尾行に気づかないようじゃまだまだだね、所長さん」

「尾行……? それにしちゃ随分遅いご到着だな」

「ヒーローは遅れてやってくるんだって」

 使い古されたそんな口上で得意顔のアルフォンス。

「あ、あの……?」

「これはすみません、ご婦人」

 手を握られたまま戸惑う依頼人に、アルフォンスは優しく微笑んでその手を放した。

「それにしても、美しくていらっしゃる。どうでしょう、これから少し場所を移して私と一緒に食事など」

「い、いえ私も仕事がありますので」

「それは残念だ……では、よろしければ端末のアドレスを伺ってもいいでしょうか?」

「え、あ、いや」

「アルフォンス、その辺にしとけ。困ってる」

「いきなり無言になるアルバには言われたくないね」

 悪びれる様子もなく、肩をすくめるアルフォンス。いきなり女性から口説かれる依頼人の気持ちにもなってみてほしいものだ。

「悪いね、誰かさんのせいで少しばかり寝不足なのさ」

 戸惑うナタリーに向き直ると、俺は答えを口にした。

「グランデさん、今回の依頼、私とこのアルフォンスで担当させていただきます。ただ、いくつかご理解いただきたいことがあるのでそちらだけ先に言っておきます」

 小さく頷いた彼女を見て、俺は言葉を続ける。

「我々は全力でお父上を探しますが、しかしこれに関してはどれくらいで、と言うような明確な期限は設けられない、ということです。だから、どれくらいの期間、費用になるかは分からない」

「それは、大丈夫です。私の、父のことですから」

「もう一つ、その結果についても我々は保証できません。つまり、最終的に無理だと判断せざるを得ない場合もあるかもしれないですし、最悪の結果もありうるということもご理解ください」

「……つまり、父が死んでいるかもしれない……と?」

「可能性はゼロではない、ということです」

「……わ、分かりました……結構です。お願いします」

 一度強く唇を噛み締めて、俺の言葉に彼女はもう一度頷いた。

 手元のコーヒーを飲み干す。カップを置くと、俺は立ち上がった。地面に擦れた椅子の音が、静かな喫茶店の空気をかき混ぜる。

「では、改めてよろしくお願いします」

 頭を下げた俺の横では、アルフォンスも片膝をついて頭を垂れていた。騎士のつもりか。

「こちらこそ、お願いします」

 顔を上げた俺達二人の前で、同じくナタリーもお辞儀をしていた。

「では、すぐに調査に入りましょう。何か手がかりなど思い出したことがあれば、連絡をください。そうだな……」

 俺は携帯端末を取り出すと、自らのアカウントを表示して彼女に向けた。さらに、設定を変更して周囲からのアクセスを許可する。

「こちらに連絡をください。事務所の方よりもこちらの方が繋がりやすいですから」

 隣ではアルフォンスが手帳のページを切り取って渡している。戸惑いながら受け取ったナタリーが文面を見て更に困っていた。

「では、私達はこの辺りで失礼します。進展があればこちらから連絡しますね」

 彼女からもアクセスの許可が降りていることを確認して、端末をポケットに戻す。まだ何か話そうとしていた、アルフォンスの腕を掴んで俺は出口に向かった。

 出口横の認証機に右手をかざして、精算を済ませる。振り返ると、依頼人がもう一度こちらに頭を下げていた。

 ウィンクを返すアルフォンスを無理やり引っ張って俺は店の外へと向かった。




「一体どういうつもりだ、アルフォンス。いきなり現れて依頼を受けるなんて、何を企んでる?」

 駅へと戻る途上、詰問した俺を見もせずに軽い調子でアルフォンスは答える。

「別に、たいしたことじゃないって。ただの気まぐれだよ、きまぐれ」

「お前がそういうことを言った時はたいてい後で面倒なことになるんだ」

「それより、アルバが私の尾行に気付かなかった方が問題なんだぜ?」

「尾行なんてしてなかったんだろ。どうせ、この辺に……ほら見ろ」

 言い返すと、俺はコートの左ポケットを叩いた。普段は使わないそこに妙な物体を見つけて、アルフォンスに投げ返す。

「お、ご名答。小銭の代わりに発信器入れといたの」

「ったくいつの間に……」

「工場の時にね。シナガワなんて珍しいと思って後からついてきたのさ」

 したり顔で笑うと、俺から受け取ったそれを指で弾いた。

 そんなもの一体何処で手に入れたのだろう。結構な高性能品だと思うのだが。

「それなら最初からついて来いっての」

「いいじゃないの。結局依頼は受けたんだし」

「まぁ、そうだが」

「しかも、美人。なぜ私を呼ばないのだ、アルバ」

「勝手に来ただろうが」

「まーね」

 またしてもにやけ顔で、アルフォンスは大きく伸びをした。この女のことだ、どうせ美人だからという理由で出てきたのだろう。

「まさかとは思うが、お前依頼人が美人だから依頼を受けたとか、そういうわけじゃないよな」

「まさにその通りだ。よく分かるなアルバ、さすが私の相棒」

「さすがじゃないだろう、お前。その発信器で会話も聞こえてたんじゃないのか?」

「ん? ああ、聞こえてたよ。なかなか厄介そうな話だったじゃん」

「分かってるならお前な――」

「アルバ。オーギュストの言ってたこと、忘れたわけじゃないよね」

 真顔に戻った相棒が俺のことを見ていた。橋の向こう、河口の方へと向かっていく白い鳥へと視線を移す。

「当たり前だろ」

 忘れるわけがない。アルフォンスの言いたいこともよく分かる。

「別に断ろうと思ってたわけじゃないさ。ああやってある程度条件を付けないと彼女にも迷惑がかかると思ったからな。それを考えてただけだ」

「アルバのことだからまた逃げようとしたのかと思ったよ」

「いつも逃げてるのはお前だろうが」

「逃げてねぇ。親愛なる相棒に任せているんだ、勘違いしないでくれたまえ」

「言ってろ、馬鹿」

 川面には、波が生み出した無限の煌めきが映っていた。河口から潮の匂いがする風が少しだけ吹きこむ。

 助手になった俺に、師匠が一番最初に言った言葉。

 『困っている人間には手を差し伸べてやれ。それが探偵という職業にとって最も大事で、なくしてはいけない誇りなんだ。つまるところ、それができるからこそ、探偵という職業に存在意義はあるんだと僕は思う』

 思い出したのはその言葉。

「ところで、アルバ。最近金が全然なくてさ」

「それは大変だな」

「金貸してくれ」

「馬鹿なこと言うんじゃない。事務所の経営だって建てなおさなきゃいけないっていうのに」

「頼むよアルバ、死ぬまでに返すって、ね?」

 腕を絡めて上目遣いで頼み込んでくるアルフォンス。こいつが女らしく品を作って見せたところで、かえって不気味になるだけなのだが。

「絶対信用出来ないだろうが」

「浮気がバレて女の子に愛想付かされちゃったんだよー、頼むよー」

「知らねぇな。そんなに大変なら働いてお金を稼いでくれ」

 再びふざけだしたアルフォンスを突き放して、俺は駅へと急いだ。フラフラと後ろからついてきているアルフォンス。

 俺達の後方から来たスポーツジャージの女性が、気まずそうに俺達の間を走り抜けていった。今回手助けが望めそうなのは好材料だが、この件の難しさが変わるわけではない。

 ひとまず今日は戻って少し調べてみるとしよう。聞き込みは明日以降にしたほうがいいだろう。大井重工の第一研究所の場所も聞いておけば、調べなくて済んだことに今更気づいたが、まぁ良い。

 川を渡って、舗装の敷かれたシナガワの市街に戻ってくる。ちょうどその時、ポケットの中で携帯端末が震えた。歩みを止めて、画面を確認する。

 未登録、だった。そう、つながっている電話の相手は未登録。

 個人情報は先の戸籍情報とともに一括管理されていて、当然端末のアドレスもそれに結び付けられている。だから、プライバシー保護の為にそれらを特定の相手にどの程度まで公開するのか、は個人で設定することができるし、その義務がある。もちろん、俺のアドレスは知り合いにしか通知しない設定だ。

 つまり、この電話の相手は、そういった事情をある程度無視できるような人種。そんなことが出来るのはハッカーかあるいはもっと厄介な連中だけだろう。

 俺はボタンを押した。端末を耳に当てる。

「アルバート・クライスラーだな。公安警察だ」

 そう、もっとも厄介な、警察という集団くらいのものだ。

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