10
朝が来た。
私がここで最後に迎えるであろう朝だ。もし成功するにしても、失敗するにしても、きっとそうなるはずだ。
私は自分がかえっていく海のことを思い描いた。カモメたちが渦を描いて飛び交うその先に、私たちの場所がある。私たち。私は60番の遺骨を握りしめて、ベッドから立ち上がった。
事前にミス・ホワイトを通して面会を申し込んでおいたので、今度は院長が私の前に姿を現した。しかしそれは、私の思い描いていた院長の姿とは少し違ったものになっていた。彼は車椅子に乗っていたのだ。
「済まないね。ここ最近、どうも身体が思うようにいかなくてね」
それは私の気分を萎えさせるための一つの戦術であったのかもしれない。この院長ならやりそうなことだと思えた。だが、私の意志はそれ以上に強固なものになっていたから、自分で驚くほどに心理的な影響はなかった。
ただ、院長の体調的な問題は嘘ではないらしく、どこか眼の光沢がなくなってきているように見えた。
「それで、何か尋ねたいことでもあるのかね」
「60番、貴方たちが闇に葬り去った彼のことです」
私は真正面に院長を見据えて啖呵を切ったが、院長はそれをまともに受ける愚は犯さなかった。
「面白いことを言うね、君は。私たちがどうして自らの患者を葬り去る必要があるのかね」
「彼は傾倒していたんです、海の向こうから流れてくるあの放送に。院長先生もあの放送のことは知っているでしょう」
「ああ、あの放送なら知っているよ。だが、それと何の関係が?」
「私たちはあの海で起こっている思想戦争で傷つき、ここに流れ着いた。あの放送に入れ込むということは、一種の転向だ」
「ほう、どうも記憶が戻ってきたらしいね、君が最も傷ついていたものだから油断していたよ。それで、どこまで思い出した?」
「この病院の構造を理解できる程度には」
「ということは、東棟の彼らがどういう存在であるかということも知っているわけか」
私は頷いた。
「そう、彼らは油断ならない敵だ。ここは君たちを治療させるための場でもあり、敵性民間人を収容する場でもある。難儀なものだよ」
「それが自らをpresidentと称する人間の言うことですか。貴方のような、まるで白い悪魔とでも言うべき人の言うことですか」
「白い悪魔か、上手く言ったものだね。たしかに彼らにとってはそうかもしれない。だがよく考えてみたまえ、君たちにとって私は味方なんだよ」
「だからと言って無条件に受け入れる理由にはならない。私は、もうここにいる理由はない」
「そう、すっかり回復してしまったからね。だがどうする、逃げたところで国家の権力が及ぶ範囲での自由はないし、いずれ復帰させられることに変わりはないんだよ」
「逃げるわけじゃない。私は60番と共にあの海へかえります」
院長がけたたましい笑い声を上げた。それは心底、他人を見下した人間の笑い方だった。
「あの海に帰ったところでどうにもならない、向こうの陣営が迎えてくれるわけでもない。それこそ自殺行為だ。君はせっかく助かった命を無駄にするのかね?」
「無駄にはしません。この世界が正常に動いているのであれば、私はいずれ戻ってきます」
「かのフランク・プールのようにかね? 面白い、やってみれば良い。裏庭のあんな鉄条網はお飾りだ、越えようと思えば越えられる。しかし越えたところで断崖絶壁が待っているだけだ。どうせ助からんよ」
「止めないんですね?」
「ああ、止めないよ。私もそろそろ国の言うことに従うのにも飽きた。面白い余興だと思えば、これ以上のことはないよ、これ以上のことは――」
不意に院長の言葉が途切れた。私が外していた視線を院長に戻すと、何か驚愕したような様子で天井を見上げていた。私も釣られて同じところに視線をやると、そこには何もない。その視線が再び院長のところに戻ったときには、既に彼は机の上に突っ伏していた。
明らかに危険な状態だった。
私はそれを天佑であると捉えた。私のすべきことが神がかり的に分かった。私は院長室の扉を大きく開け放つと、外に向かって大声で叫んだ。
「院長が倒れた! 誰か助けに来てくれ!」
私はそんなことを叫びながら、近くにあった火災報知器のボタンを強く押し、そのまま中庭に出て行った。私の背後で本館の内部がざわめき始めているのが分かった。私はいつものように律儀に回廊の中を通るのではなく、一目散に丸太小屋を目指して駆け始めた。丸太小屋まで辿り着いたときには、明らかに病院中が騒ぎになっているのが感じられた。その騒ぎを感じ取ったのか、ちょうど丸太小屋の中からネイビー氏が姿を現した。
「おい、どうしたんだ!」
「院長が倒れたんです!」
「なにっ?」
彼が本館の方へ走って行こうとするのを私は引き止め、その手を強引に握った。
「今までありがとうございました!」
そう言うと、私は反対方向の北館の方へ再び駆け出した。もう振り向くことはしなかったので、ネイビー氏が別れの挨拶をどのように受け止めたのかは分からなかった。
北館の方にはまだ本館の騒ぎが伝わってきておらず、相変わらず人気のない廊下を私は走り続けた。そして裏庭に出ると、脇目も振らずに鉄条網の傍に近付いていった。
鉄条網は、たしかに院長の言っていたように潮風で劣化していて、破壊することもできるように思えた。私はその劣化の最も激しい部分を見つけて、フェンスに身体をぶつけたり蹴り破ろうとしてみたが、なかなか上手くいかなかった。そうこうするうちに北館の中から数人が出て来て、私が必死に鉄条網を破ろうとするのを眺めていた。彼らの肌は私の白い肌と比べると黄色く、それが東の人間としての特徴だった。彼らはしばらく遠くから眺めていたのだが、やがて私の元へやって来て、このようなことを言った。
「私たちにも手伝わせてくれ」
私たちが海へかえるということの意味を彼らはしっかりと吟味したわけではなくて、収容所と化したこの病院のルールに反した行いが自分たちの利益になると判断したらしかった。
私はもちろんそれに感謝して彼らとしばらく原始的な方法、つまり力尽くで鉄条網のフェンスを破ろうとしたが、さすがに容易ではなかった。そうするうちに気の利いた彼らの仲間が毛布や布や衣類を持って来て、フェンスの上の有刺鉄線に覆い被せた。そして組体操の要領で肉体の土台を作り、私をフェンスの上に押し上げた。有刺鉄線は所々で身体を刺したが、彼らの機転のおかげでその威力はかなり弱まっていた。
そして、遂に鉄条網を越えた。
鉄条網の数メートル先はもう崖になっていて、そのまま飛び込むしか海に入る方法はなかった。私は気持ちを落ち着かせるためにも、一度鉄条網の方へ振り向いた。
「ありがとうございました!」
そこに51番の少年の姿があればと思ったが、そこまで都合良く物事は運ばなかった。私は崖の方に向き直り、そして、飛び込んだ。
折しも厳しい冬の季節だったから、飛び込むときに耳元で叫ぶ風音が鋭く響いて、海面に身体がぶつかったときには氷柱に刺されたような痛みがあった。身体は深く深く、海の中へ沈んだ。
荒れた海の濁った色の中に、透き通る線状の光があった。それは紛れもなく太陽の発する天頂からの光線だった。私は海の中をもがきながら、その太陽の輝きを掴もうとして必死に浮かび上がろうとした。海の中に太陽を目指す手が私の他にいくつも見え、私は意識が遠のきそうになっていくのを感じた。しかし、希望を持たなければならない。私はいつか海に還っていけるそのときまで、必死に生きていこうと思った。
新世界へ至る道 雨宮吾子 @Ako-Amamiya
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