09

 また病的な白さの日々が戻ってきた。

 60番という友人との別れは突然で、それが現実に起こった出来事なのかすら飲み込めないままに時間の流れに乗ってしまった。その凹凸のない急流に乗ってしまった私は、あっという間に60番の葬儀の日を迎えることになった。

 どうしても行かねばならない。

 その思いだけが強く心を締め付けて、私の身体はとうとう動かずに、葬儀の時間を過ぎてしまった。誰かが私の過誤を咎めるために部屋まで来るのではないかと思ったが、本当に静かなものだった。私がようやくベッドから身を起こしたのは、その日の夕方になってからだった。手元の文庫本に手を付け、三十秒後にはそれを閉じ、それからしばらく部屋の中をうろうろと歩き回った。そのときになって、ようやく私の犯した過ちというものが明瞭に感じられるようになった。

 空が見たい。

 私は唐突にそう感じ、そして何の躊躇もないままに部屋を出た。ナースステーションでミス・ホワイトと顔を合わせるかと思ったが、幸いにも彼女の姿はなかった。私は中庭に出て、真正面にある丸太小屋に視線をやった。すると、ちょうどネイビー氏が小屋の中から出て来たところだった。私は今度はためらいがちに、一歩を踏み出した。私が近付いてくるのに早くから気付いていた彼は、空を見上げながら私を待っていた。


「寂しい葬列だったよ」


 私はその言葉に身構えた。非難されても仕方ないと分かりながらも、いや、分かっているからこそ非難されるのが怖かった。

 しかし、彼が次に発したのは意外な言葉だった。


「この空を見上げてごらん」


 私は彼に倣う形で空を見上げた。空にこぼれたミルクの雲の間から太陽がちらりと顔を覗かせていた。


「彼がここまで運ばれるとき、それはそれは厳しい天候だった。空も泣いていたのかもしれないねえ。だが、それが今ではあんな風に太陽が顔を出している。君が出てくるのを待っていたんだろう」

「私は……、怖かったんです」

「慣れないものだよ、人の死というものは。地下で魂の抜けた死人の肉体を埋葬していると、いつもどうしてこんなことをしているんだろうと考えてしまうんだ。そして、次は自分の番なんじゃないかとねえ」


 彼には、私を非難する意思はないようだった。


「気にするんじゃない、葬儀は残された人間のためにあるようなものだからねえ。君には君なりのやり方があるはずだ。それをすれば良い、きっとあの太陽もそう考えているはずだよ」

「私にしかできないこと……」

「生前の彼は火葬を希望していたらしい。小さなものだが、これを君に」


 そう言って彼が手渡してくれたのは、両手に収まるくらいの小さな容器だった。その中に彼の遺骨が入っているらしかった。


「君の好きなようにすれば、彼もきっと喜ぶだろう。……そうそう、東棟の男の子が葬列に並んでいた。彼にもお礼を言っておくんだよ」

「ありがとうございます」


 私はまず彼に礼を済ませると、骨の入った容器を持ったまま裏庭へ向かった。この後はもう雪は降りそうになかった。






「ありがとう」


 私は裏庭で51番の少年を見つけると、真っ先にその言葉を出した。


「心配してたんだけど、思ったより大丈夫みたいだね」

「少し、心の整理ができた。あの人のおかげだ」

「用務員のおじさんだね?」


 私は頷いた。


「これからどうするの?」

「そうだな……。ここで生きていくしかないんだろうな」

「どうだろうね……」


 私たちの間には微妙な齟齬があった。それはやはり、あのラジオの放送のせいなのだった。尤も、その根っこにあるものは、肌の色が違うことによる意識の差であったのかもしれない。

 私はこの場所が何のためにあるのか、ようやく分かったのだ。私たち西棟の人間と彼ら東棟の人間は、相容れない存在なのだ。しかしそれは、あくまでもこの病院が仕向けた対立なのかもしれない。そう考えるなら、いつかきっと和解の時が来るはずだし、私はそれを願った。

 そうして考えているうちに、私は自分のすべきことが分かった。そして不意に閃いた言葉、希望の裏返し。


「私が次にやらねばならないことが分かったよ。その前に一度、院長と会わなければならない」

「ここを出て行くんだね」

「ああ、君ともお別れだ」


 私たちは握手を交わした。そして、言葉を交わし合った。


「60番はあの放送を福音と考えていたみたいだが、今の私には君の存在こそが福音のように思える。それは、ここにあったんだ」

「ありがとう。僕はまだ、ここに残らなきゃならないけど、ここでできることをするよ」

「頼もしいな」


 彼が未来の世界を背負っていく、そんな光景を私は思い描いた。そうであるからこそ、私はここを出て行かなければならないのだ。

 ふと先程のように海の上の空を見上げれば、鉄条網のずっと向こうでカモメたちが旋回していた。そして、空の彼方に輝く星の光が、ほのかに赤い煌めきに変わりつつあるのを見た。






 私は空っぽになった60号室に入った。最低限のものを残して片付けられた部屋の中で、唯一、「希望」だけが取り残されている。それは私の希望で明日には私の部屋へ運ばれるのだが、その前に確認したいことがあった。私は「希望」に手をかけると、額縁の裏側に手を伸ばした。果たして、一枚の封筒がそこに貼り付けられていた。私はその中身を見て、間違いなく60番が認めたものであることを確認した。それは60番の筆跡だった。あのとき、私は恐怖を感じて逃げてしまったが、今なら間違いなく宣言することができるだろう。

 その内容は、私の推測を裏付けるものでもあれば、全く意想外なことを認識させるものでもあった。私が見ていたのは「希望」という名の絵画でもあり、また現実の私に60番が与えてくれた一つの希望でもあったのだ。

 彼はきっと、いつかここから出ていくことを願っていたはずだ。あの海の向こうで傷ついた私たちは、だからこそあの海にかえらなければならなかった。私は60番の遺骨が入った容器を握りしめ、院長と対峙せねばならないと思った。

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