03

 私は60号室の彼のことを60番と呼ぶことにした。彼が囚人のようだと言ったことで、私は却ってそう呼びたくなったのだ。囚人のようだな、と彼はまた言ってみせたが、特に不快に感じているような様子もなかった。彼の方では私のことを9番と呼んだ。私はその理由を尋ねたが、125番では長過ぎるからと言っただけで、はっきりとは教えてくれなかった。

 ついでのことだが、私を担当している看護婦にもある名前を付けた。と言っても彼女のことをそう呼ぶわけではなく、私の意識の内側でそう名付けたというだけのことではあるが。彼女の名は、ミス・ホワイト。その名前は白衣に由来しているというわけではなく、彼女のよく磨きこまれたような白い肌と、病室という白い空間で目覚めてから初めて出会った人間であったことによる。

 私の新しい生活は、そのようにして他者に名前を付け、それとは異なる存在としての私を生きることで動き出していくようだった。迂遠な方法では在るが、そうやって私は私という存在を見つめていこうと思ったのだ。

 そうして、私が意識を、現在の意識を取り戻してから三日目の昼間、私が食堂で食事をしているところへ60番がやって来た。この広い病院の中で私が利用する場所はまだ食堂だけだったから、必然的に彼と出会うのはここになるというわけだ。それでも同じ時間に食事をするとは限らないから、そうした意味では運が良かったのかもしれない。彼は私と同じものを頼んで向かい合って座り、しばらく黙って食事をしていた。彼は何かをきっかけにして急に口を開き、


「図書室へ行ってみないか」


 と誘ってきた。私はその言葉と食事とを吟味し、一緒に飲み込んだ。彼の部屋にはたくさんの本が積み上げられていたが、なるほど、その出処は図書室なのだ。そしてその図書室はきっと北館に、初めて出会ったときに彼が私を連れて行こうとしたその中に図書室はあるのだろう。私は彼の言葉を飲み込んだ瞬間から、俄然興味が湧いてきた。昨日は一人で一日を過ごしたが、まだなれない場所をうろうろするという気分にもなれず、ずっとベッドの上に寝そべっていた。そうして何の臭いも音もない、空っぽな空間で横になっているのにも飽き飽きしていたから。


「案内してくれるのかい」


 私は意識的に少し打ち解けた口調でそう答えた。


「もちろんさ」

「じゃあ、行こう」


 食堂を出て、私は北館がどういう場所なのかと考えながら歩みを進めた。不意にその歩みを妨げるものがあった。それは60番の身体だった。


「どうしたんだい」


 中庭へ出るガラス戸の手前で立ち止まった彼は、夏の烈しい日射しを下から覗き込むと、それを忌避するようにして壁にもたれかかった。


「早めに言っておいた方が良いと思ってね。いや、簡単な話だよ」


 そう言いながらも懸命に思案しているようだったので、私も彼に倣って壁にもたれかかった。話が始まるまでの間に何人かの患者や事務員のような格好の女性などが出入りし、私はそれを眺めていた。食事を終えたばかりだというのにどこか物足りない気がして、嗜好品が欲しくなった。それで私の思考は巡って、昔見た戦争映画の中で美味しそうに煙草を吸う俳優の表情を思い出した。たしか、彼は酒も煙草も苦手な人で、私が見たシーンでは偽物の煙草を吸っていたのだろうと思うが、それでも煙草を吸わない私にその愉しみを追体験させたのだから凄いという他ない。彼の名前や出自や映画の名前はもうとっくの昔に忘れてしまっていて、あのモノクロの映像、彼方の砲撃音、ライターを擦る手触り、硝煙の匂い、煙草の味、そして彼の心情、ただそれだけを覚えている。

 ……私はしばらく記憶の中に潜っていたのだろうか。気付けば60番の話は始まっていて、私は惰性で頷いていた。


「色々と面倒に感じるかもしれないが、ここはそういう場所なんだよ」

「そういう場所というと?」

「だから、西と東とで区別されているんだよ。食堂で座る場所も、明確に線引されているわけじゃないけど、大体は東西の人間が座る場所は決まっている。君が初めてあの食堂へ行ったとき、君が座っていたのは東の人間が座る場所だった。どこかの二人組に話しかけられたのを覚えているだろう?」


 そういえば、そんな二人組がいたのを思い出した。大体は彼と同じようなことを言っていたと思う。

 ただ、いくつかのことが気になり始めた。


「でも、どうして私が西の人間だと分かったんだ?」

「君はまだ東の人間とは出会ってないんだね。僕らと彼らとは違うんだ、色々なことが。ある点では僕らの方が幸福かもしれないし、また別のある点では彼らの方が満ち足りているかもしれない。君が彼らと出会ったとき、何を感じるか、それは僕の介入すべきことではないと思うが、そのときのために心構えをしておかなくちゃならない」

「これから進む先に、その彼らがいるんだね?」

「ああ。彼らはある制限を受けているが、北館の施設は利用できるようになっている。彼らには食堂も開放されているが、それは院長の慈悲なんだそうだ」


 慈悲。

 彼の発したその言葉は、妙に虚しく響いた。


「疑問があるなら、ここで解消しておこう。他に気になることは?」


 今までの話で私は何か重大な事柄に関わろうとしているように思えたから、次の問いを発するのには少しばかり勇気が必要だった。


「……101号室というところには何があるんだろう」


 そして、その答えに対する彼の反応は、やはり予想した通りのものだった。

 彼が示したその困惑を前にして、私は俯かざるを得なかったが、やがて彼の肩を叩いて外へ出ることを促した。

 そのときに彼が口にした言葉は、私の耳の中でしばらく反響したのだった。


「この世界に清浄な場所なんて、もう残っていないのかもしれない」






 初めて足を踏み入れる北館は、本館に比べるとあまり空調が利いていなかったが、それでも日射しを避けながら回廊の中を通ってきた私たちにとっては充分に涼しい場所だった。ただ、屋内の照明も本館に比べるとどこか暗く感じられて、この北館という場所はあまり重要視されていない場所なのではないかと思われた。

 そんな印象を胸に少し歩いたところで、60番が立ち止まった。彼が指し示した図書室の入り口は防火扉になっていて、図書室と記された案内がなければ見過ごしてしまいそうだった。重たい扉を開けると、これまでには感じたことのない独特の空気が漏れ出してきた。どこかどんよりとしていて、少なくとも彼の言ったような開明的な雰囲気はまるで感じられなかった。ここに収められているものは時間の流れを過去に引っ張っていくような、そんなものばかりが置かれているのではないかとすら感じさせられた。

 しかし、それにも関わらず私にとってはどこか懐かしい空間だった。今までにこの図書室に来たことがないのだとするなら、どこか似たような場所の記憶が思い出されているのだろう。公立図書館か書店か、そういった場所に関する思い出があるのだろう。私は読書が好きな人間だったのだろうか。それは思い出せなかったが、今の私はたくさんの本に魅せられている。今はそうした感情だけで充分に思えた。

 気付けば60番の姿は本棚の向こうに消えていた。想像していたよりも図書室はずっと広く、その分だけ蔵書の数も多かった。開明的という言葉がようやくピンときた。これだけの書籍を収集し、維持管理するだけの余裕がこの病院にはあるということだ。それはこの病院の性格を表しているのかもしれない、そう思い至ったのはずっと後のことだった。単なる病院としての機能だけでなく、矯正施設としての機能をも備えているのではないか、と。


「どうだ、凄いだろう」


 いつの間にか隣に立っていた60番が低い声で言ったので、このときはそのことにまでは気付けなかった。60番はいくつかの文庫本を小脇に抱えていた。ギリシャ悲劇に関する本かもしれないと私は思った。


「何冊か借りてみたらどうだ。僕は外で待ってるからさ」

「ああ、ありがとう」


 60番が入り口の横のカウンターで貸出手続きを行なうのを横目に見ながら、私は本棚の立ち並ぶ方へ足を踏み入れていった。私は本棚から興味のあるものを引き出して、よく吟味した。まず詩集を手にして頁をめくってみたが、私には詩情を理解する素養がないらしく、すぐさま本棚に戻した。次は著名な古典文学に手を伸ばした。こちらも格式張った文章が気に入らずに本棚に戻した。結局、大衆文学を二冊と異国の街並を収めた写真集を借りることにした。

 私が奥からカウンターに向かおうとしていると、すぐ近くの椅子に座っている老人に気が付いた。濃い紺色の作業服を着ていて、入院患者ではなく用務員か何か、病院のスタッフであることが見て取れた。ただ、私が注目したのは老人そのものというよりも、彼が熱心に見入っている新聞の方だった。その新聞を見ればここがどこなのか、そして今がいつなのか、それらが分かるはずだから。自然と忍び足になっていた私の目論見は、しかし外れてしまった。私の気配に敏感に気付いたのか、彼は新聞を閉じて立ち上がった。それでいながら立ち上がってから初めて私の存在に気付いたかのような素振りで、私の顔を見つめてきた。


「見ない顔だね」


 彼は60番と同じようなことを言ってきた。この病院にいる人は患者の顔を全て記憶でもしているのだろうか? そんなことを思ったが、やはり立ち振舞いでそれは分かってしまうのだろう。この病院に馴染んでいるかどうか、そしてどちらの病棟の人間なのかということも。


「僕がどちらの人間か分かりますか?」

「それはきっと、西の人間だろうねえ。君は東の人間に会ったことはあるかい?」

「いえ、知る限りではまだです」

「そうか。じゃあ裏庭へは行ってないんだね?」


 裏庭。それは聞き慣れない単語だった。彼は私のそうした反応から何かを察したらしく、こう続けた。


「いや、すまない、裏庭のことは俺の口から言うべきではなかったかもしれない」

「私が裏庭のことを知ると何か不都合でもあるんですか?」

「そういうわけではないんだが……、要するにアプローチの問題だ。ある新奇な物事に触れるときに何がきっかけとなるか、どのようにしてそれに触れるか、そうしたことは人の印象を左右するだろう?」

「ええ、まあ」

「そうした意味において、治療に携わっているわけでもない一介の老人から裏庭のことを知るのは、適当ではなかったかもしれないというわけだ」


 だが結局のところ、彼の行動はその意思に反して、裏庭という場所が何かしらの重要な意味を持つ場所であることを詳らかにしていくのだった。私は彼が話を進めながら密かに小さくまとめていった新聞に未練があったが、それよりも大きな何かが裏庭にあるのではないかと思われたので、話をそこで打ち切ることにした。


「全ては君自身がどう感じるかという問題なんだ。……しかし、君はどうも立派な青年に思えるねえ。知らないということは罪ではないが、知ろうとしないことは罪だ。そういう意味で君は立派だよ」


 私はこの老人に何やらからかわれているのではないかと感じたが、その表情を見るにどうもそうではないらしかった。私は簡単に礼を言うと、三冊の本を借りて図書室の外へ出た。その扉の近くにあった椅子に座って、60番は借りたばかりの本に熱中していた。


「随分と遅かったね」

「……ああ、待たせて悪かった。少し気になることがあってね」

「何だろう」

「この病院には裏庭もあるんだね」


 60番の表情が少し曇った。私の考えていた以上に、裏庭には大きな意味があるらしい。


「どうしてそれを?」

「ある人に聞いたのさ。それで単刀直入に聞くが、裏庭には何があるんだ?」

「質問で返して悪いが、その前に確認しておくべきことがある。君はここに来てから、何か自覚するような異変や症状とでも言うべきものを感じたことはあるかい?」

「今のところは元気なものさ。許可が出ればすぐにでもここから出て行きたいくらいだよ」

「笑えない冗談だね」


 彼は感情を読み取りにくい複雑な表情をしていた。ここまでひた隠しにされる以上、私はどうあっても裏庭へ行きたかったから、彼がそれを阻もうとするのではないかと恐れた。


「分かった。行きたいのなら行けばいいさ。その代わり、僕はここで待つよ」


 だから、彼がそうした返答をしたのには少し拍子抜けした。

 彼は、そしてあの用務員の老人の一貫した態度は、私に対しての一種の慎重さだった。新しく触れるものに対しての慎重さ。それは意地悪な見方をすればまるで子供扱いをされているようでもあったが、より冷静な判断を私にさせるための配慮だとも思えた。


「止めないんだね?」

「ああ。この通路を進んだ先に裏庭への出入り口がある。案内が必要かい?」

「いや、観光に来たわけじゃない」


 私はそう言って持っていた本を彼に預け、躊躇なく裏庭への道を歩み始めた。おそらくその先には、東棟の人間がいて、それからまた別の何かがあるのだろう。恐れを感じながらも、期待を併せ持つ一種奇妙な感情を覚えながら、私は裏庭へと向かった。

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