04

 裏庭へ出ると、すぐにその光景が視界一杯に広がった。

 海。彼方に陸地の輪郭すら見えない、商船の浮かんでいる姿もない、何もない海だ。煌めく太陽の下に荒れる濃紺の海面にはその一瞬一瞬のうちに白い亀裂が走って、重量感のある波の響かせる音を潮風が運んでくる。冷房の利いた屋内にいるのも快適だが、こうして瑞々しい景色や音に触れることができた。そこに断崖がなければ、またそこに鉄条網がなければ、さぞ爽快な気持ちになれたことだろう。

 今、鉄条網と言った。崖から落ちてしまうことを防ぐためなのか、その間際には間断なく鉄条網が設置されている。それを見て、自分の心はここまで感じやすいものだったのかと思わせられるくらいに、萎縮した。そして私がこれまでに感じてきた些細な疑念が一瞬にして形を成して、一つの不信感となった。その不信感の対象は、もちろんこの病院だった。

 しかし、このときはその不信感を深めることよりも好奇心が勝って、私は視線を彼方から手前の方へと移した。大きな芝生のコートがあり、そこではサッカーなどの競技が楽しめるようになっている。さすがに野球をすることはできないが、端の方にはちょうどキャッチボールを楽しむ患者がいて、またコートの中心では大人たちがラグビーボールのようなものを囲んで何事かを話し合っている。病院側から崖の方へ向かうに連れて低地になっていて、その高低差を利用してあたかも観客席のような具合でベンチが設置されている。今はそこに座ってキャッチボールをするのを眺めている者や、もっと彼方の海を見ている様子の者などいたが、この暑さのせいで人の姿はそう多くはなかった。

 一見すると、私には彼ら、つまり図書室で出会った用務員や60番の言っていた意味が分かるように思えた。この裏庭にいるのは誰もが明らかに東棟の人間で、西棟に居住する私とは異なる性質を持っていることが分かった。私は彼らを侮蔑するような感情を持たないし、そうするだけの理由もなかったが、どこか居心地の悪い感覚になってしまうのを否定することはできなかった。もしもどこかで東棟の人間に対する中傷を吹き込まれていたなら、私はそれを丸ごと信じ込んで彼らに悪感情を抱いていたかもしれない。そうした意味で私はあの用務員や60番に感謝したくなった。

 しかし、私を動揺させたのはそれだけではなかった。あの鉄条網にはどんな意味があるのだろうか。私は私がここにいる理由をまだ知らない以上、どうしても当事者としての感覚が薄い。そんな私を泥沼の事態の中に叩き落とすような一種の心理的衝撃を与えたのが、あの鉄条網なのだった。私たちは、ひょっとすると一種の実験場の中にいるのではないか――そんな極端な考えも浮かんできた。


「ねえ、どうしたの?」


 そんな私の思考を、まさしく泥沼にはまろうとしていた私の思考を中断させたのは、繊細で甲高い声だった。私はそちらに視線を移すよりも早く、その声の主が少年であることを悟った。


「そんなところに立っていると暑いよ。あっちへ行こう」


 少年は、私を促して木陰になっているベンチに腰かけた。私は自分で裏庭へ来ることを選んでおきんがら、早くも引き返したい気分になっていたが、少年の好意に感じ入って素直に従うことにした。

 その隣に座った私は彼の外見をちらりと見た。入院着のくたびれ方からして、彼の入院歴が短くはないことが分かった。そして彼もやはり東棟の人間なのだった。


「たまにこうして西の人が来るんだ。入院したばかりの人、気晴らしにここに来てすぐに帰っていく人、それから……」


 彼は何故かそこで口をつぐんだが、私は特に気にはせず、ある好奇心を満たそうとした。


「私をどんな人間だと思う?」

「まだここに来たばかりの人、じゃないかな」

「うん、多分ね……」


 私はこの病院に入院するという自主的な決断をしていないから――少なくともその記憶はなかったから――、曖昧な返事になってしまった。しかしあるいは、この病院に入院している人々は誰もがそのような道を辿ってきたのかもしれない。そのようなことは珍しくないのかもしれない。少年の反応を見ながら、私はそんなことを考えた。


「君はここが長いんだろうね」

「うん、生まれてからずっとここにいるよ」


 簡単な気持ちで尋ねたものが、彼は思っていたよりも深刻な状態にあるのかもしれないと私は気付いた。私は悪いことをしたと思ったが、彼の方では特にそのようなことを気にしている様子は見せなかった。

 私も深くは考えないようにして、言葉を再度投げかけた。


「ここにはよく来るの?」

「うん、毎日。部屋にいてもすることがないんだ。僕にはここの図書館にある本が読めないし、ラジオばかり聞いていても飽きるから」

「ラジオ? そうか、ここにはラジオがあるのか」


 ここで生活を送り始めてからまだ日は浅いが、音楽というものから随分と切り離されていることに気が付いた。

 それ以前の私は、音楽というものとどういうふうに接していたのだろう?


「ある人が使っていた小さなラジオなんだ。数字と音楽はバンコクキョウツウゴだからって」

「たしかにそうかもしれない。ここではどんな放送が聞けるんだろう?」

「ううん、言葉では説明できない。今度持ってくるよ、少しの間で良ければ貸してあげるから」

「ありがとう。君のことはどう呼べば良いのかな?」

「ごめんなさい、名前は教えられないんだ。でも、51号室にいるから51番って呼んで欲しい」


 みんな同じようなことを考えるものだ。私は笑いそうになるのをこらえて、こう続けた。


「そうか、それは都合が良い。私は9番だ」

「9番? この病院に9号室はなかったはずだけど……」

「いや、125号室にいるんだが、友人が9番と呼ぶからさ。でも、どうして9号室はないんだろう」

「それは分からないけど、1から10号室はないんだ。うわさだと――」


 彼の言葉を遮るチープな音楽が流れ始めた。彼は入院着のポケットの中を探り、PHSを取り出した。その音楽はおそらく、G線上のアリアだった。


「ごめんなさい。そろそろ戻らなくちゃ」

「短い時間だったけど、楽しかったよ。また近いうちにここで会おう」

「うん。またね、バイバイ」


 少年はそう言うと、いかにも健康な様子で走り去っていった。

 私も60番を待たせているから、そろそろ戻らなければならなかった。私は立ち上がって海を見やり、そして背を向けた。






 北館へ戻り、60番と合流して、回廊を通って西棟へと歩いていく。その間に私たちは言葉を交わさなかったが、それでも私の心の中では微かに口に出したい疑問のようなものが生まれ始めていた。

 その疑問の行き着く先は、結局は私とは何者なのか、そしてここはどこなのか、ということだった。


「まだ言っておかなければならないことがあった。少し、聞いてくれるかい」


 私はもちろんそれに頷いた。どこか近くで立ち止まったり座ったりするのかと思ったが、彼は歩くのは止めずに速度を落として、そのまま話を始めた。私は何となく彼の気持ちを感じ取った。


「心構えとでも言うべきかな、そういうものを伝えたいと思うんだ。ここで、ここで上手く過ごしていくには、色々な人と関わって色々なことを語り合うのが良いと思う。色々なことを悩むこともあるだろう、今はまだ想像もできないような辛いことと向き合わなければならないときもくるだろう。そのときに自分でしっかりと受け止め、考えることはもちろん大切だ。でも。そこで立ち止まったり自分の中に閉じこもったりするのではなく、歩き続けなければならない。たとえ自分とは違う価値観を持った相手がいたとしても、自分の考えを否定されたとしても、君は君としてしか生きられないのだから、とにかく自分の足で歩いていくんだ」


 彼は途切れ途切れに、何かを生み出すときの苦しそうな表情をしながら、私にそう語ってくれた。それは実感しにくいところもあったし、空虚な不安感を煽る面もあったが、それでも一つの心構えとしては立派なものだと私には思えた。こうして歩きながら話をしている分だけ、彼の語ろうとしている言葉、とにかく自分の足で歩いていかなければらないということが強く響いた。

 もしこのときに彼が語ってくれた言葉がなければ、私はその先に直面する出来事を乗り越えられなかったかもしれない。

 その出来事のうちの一つは、早くもその日の夜にやってきた。






「――どこにいるの?」


 夜。

 眠っていた私の頭の中で何かが爆ぜた。強く、明瞭に、前触れもなく、私の頭の中に響いたのは、濃い感情に色付けされた声だった。

 ベッドの上で上体を起こして周囲の異変に気を配ったが、消灯されているせいもあってよく視界が利かなかった。再び横たわると、すぐに別の言葉が聞こえてきた。


「母さん、どこにいるの?」


 声の強さは変わらず、先程はしっかりと聞き取れなかった部分も聞こえた。私は何かのいたずらだろうかと思い、目を瞑って無視を決め込んだ。しかし、同じ言葉がリフレインし、しかもそれが収まる気配がないので、枕元の照明を点けて、その小さな光を頼りに室内を調べることにした。しかし、暗い中にいることもあってか、やはり異常は見当たらない。それでも言葉は繰り返されるのだ。

 私は異変を訴えようと考え、扉を開けて病室を出ようとした。

 扉は施錠されていた。

 すぐに心臓の冷えるような恐怖が襲ってきた。言葉は相変わらず響いている。だけでなく、他の人間が発していると思われる別の言葉が重なって、私の耳を犯した。そのどれもが、父や母や恋人を、無明の中に探しているような調子だった。私を大声を上げて頭の中から言葉を追い出そうとして、その不可能に気付くと扉を必死に叩いたが、そうして叫び声を上げるのに比例して恐怖は高まっていった。

 永遠とも感じられる時間の中を這いずり回り、私は私自身の言葉に恐怖を感じるようになった。やがて、暗闇の中から立ち上がった鋭く甲高い音が脳に達したとき、朝の訪れを私は無意識に悟ったのだった。

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