02

 本館のガラス戸を開けると、程良く冷えた空気が流れ出てきた。私は本館の中に足を踏み入れながら、今更のようにあることを考えた。今現在の時間についてだ。あの看護婦はここがどこなのか教えてくれなかったが、今がいつなのかということも確かめなければならないのだ。それは単純に一日の中における時間というよりも、もっと大きな視点に立った上での時間という意味だ。何月何日だとか、西暦何年だとか、そうしたことだ。それはすぐには分かりそうもなかったが、外気温や雨の降り方を見て、少なくとも今が夏に近い季節だということは分かった。もっと知識があれば色々なことが判断できそうではあったが、私にはそうした憶測をすることしかできなかった。

 そんなことを考えながら歩いていると、私はあるものにぶつかった。それは食べ物の匂いだった。そういえば、と看護婦が食事に関する制限はないと言っていたのを思い出した。今の今まで腹具合など気にもしていなかったというのに、こうして食べ物の気配がした途端に空腹感を覚えたものだから、私は人間の身体というものの成り立ちに面白味を感じた。廊下の壁に提示された案内や匂いを頼りにそのまま進んでいくと、食堂に辿り着いた。扉を開けて中に入ると、百人くらいは収容できそうなくらいの空間が広がっていた。そこでは休憩中らしき看護婦たちが何事かを静かに語り合っていたり、食後の読書を楽しんでいたり、高いところに設置されたテレビを見たりしながら様々な人が食事をしていて、特に変わったところのない食堂であることが分かった。私は奥にあるカウンターに向かい、そこに立っている感じの良さそうなおばさんに食事はできかると尋ねた。彼女は今日この時間に提供できるものをいくつか教えてくれて、私は迷った末に無難なカレーライスを注文した。

 さて、コップに水を汲んで好きな席に座り、その水を一息に飲み干すと、私はようやく人心地が付いたように感じられた。随分と長い間眠っていたのかもしれない。私の意識は過去に向かいがちだったけれども、しかしその過去というものがあまりにも漠然としていて、記憶の断片もないものだから、返って諦めることができたような、そんな気持ちになった。これから先に待っているものは何だろうか、とそんなことを考えることができた。

 私は先程のおばさんに呼び出されて食事を受取、そのまま元の席に戻って食事を始めようとした。しかし、ちょうどスプーンを握ったときに二人組の中年男性が私のところへやって来た。私は何だろうと思いながらも、彼らの相手をすることにした、せざるを得なかった。


「新入りかい」

「さあ、どうなんでしょう」


 私の気の抜けたような返答を二人は面白がった。しかし、今の私にはそれ以外に答えようがなかった。


「東の人間というわけじゃないんだろうな」

「東? ……ああ、私は西病棟から来ました」

「そうだろうね。しかしあんた、ここは東の人間が座る席だぜ」


 私はそんなことを言われたのできょろきょろと辺りを見回した。彼が言ったように東の人間が座るべき席だというような表示はどこにもなかった。何らかの慣習でそうなっているのだろうと、私はすぐに気付いた。


「いいかい、せっかくだから忠告してやるが、東の人間とは関わるもんじゃない。そんなことをしてみたら、101号室に連れて行かれるって噂だからな」

「101号室? そこに何があるんですか」

「さあね。とにかく、おっかない場所だ」

「生きてここから出ようと思うのなら、冒険はしないのが賢明だぜ。まあ、とにかくすぐに席を変えるんだな。東の奴らに絡まれる前にな」


 言いたいことだけ言うと、二人は心底この席に留まるのを嫌がっているような仕草を見せて、食堂から出て行った。しかし、私は訳の分からぬままに妙な意地を通そうという気になって、泰然として食事を始めた。最後の一口を口に運ぶのと、その男が目の前に座っているのに気付いたのとは同時だった。


「見ない顔だね」


 私がその一口を飲み込むのと、男がそう言ったのとはこれまた同時だった。いつの間にやら向かい合って座っていた男は、妙に綺麗な声をしていた。


「貴方は?」


 客が多いなと思いながらも、彼に冷たくする理由はどこにもなかったので、私は礼儀的にそう尋ねた。


「名前は……、まあ、そんなものを知っても意味はないか。こういうものに興味がある」


 男がそう言って示したのはあるギリシャ悲劇のタイトルが記された文庫本だった。私はそういったものに特別興味はなかったので、すぐにそのタイトルは忘却の彼方に押しやられた。


「なかなかこういうものに関心を示す人はいないがね。君はどうだい?」

「私も多数派の一人ですね」

「そうか。まあ、仕方ない。それは仕方のないことだ」


 男はぶつぶつと何かを呟いてから、私の顔を見据えてこんなことを言った。


「どうだろう、少しこの病院内を散策してみないか」

「それは案内をしてくれるということですか?」

「そうだね。そしてもし興味があるなら、僕の部屋に遊びに来ないか」

「ありがとうございます。でも、貴方の病室に、ですか?」

「そう、僕の部屋。見せたいものがあるんだ。君は悪い人間じゃなさそうだしね」


 私は少しばかり迷ってから、感じた通りの言葉を吐き出した。


「貴方はそうやって、誰に対してもそんな誘いをしているんですか?」

「誰に対しても、ということはないがね。ただ、もう他に誘う人間がいなくなってしまっただけのことさ」


 それは見境なく人を誘っていることの証明ではないかと思ったが、私はそう言いたくなるのを今度はこらえた。


「見せたいものとは?」

「希望だよ。他には何もないが、希望だけはある」


 私はカレーを口に運びながら少しばかり考えた。他に頼れる人間もいないし、彼にこの病院のことを教えてもらっても良いように思えた。見ず知らずの人間の病室に行くことへの抵抗感はあったが、ここは仮にも病院なのだから、危険があるというふうにも思えなかった。それに今の私には失うものは何もない、何もないのだ。


「分かりました。今の私には希望がありませんからね」






 食堂を出た私たちは、まず病院の受付のところにある大きな案内板の前に行った。彼はそこで色々なところを指し示しながら病院の全体像と、それから各施設の役割を教えてくれた。また、この地がプロヴィデンスと呼ばれているということも。病院の基本的な構造としては私が推測していたのと同じで、本館に病院としての基本的な機能が備わっていて、東西の病棟に患者が入院している。そして比較的小さな北館には、その他の機能が備わっていると彼は言った。


「その他の機能というと?」

「それは見てのお楽しみだ。この本館を練り歩くにしても、診察室だとか事務室だとか院長室だとか、そんなものを見ても面白くないだろうから、これから北館に行こうと思う。少しばかり歩くが、問題はないね?」


 私は頷いた。彼は最初からその腹づもりでいるのだから、そうせざるを得なかった。

 それにしてもここは静かな病院だった。色々なところに人の気配はあるものの、実際に顔を合わせたりすれ違ったりする人は少なく、廊下に響く私たちの靴音がやけに大きく聞こえた。この広さなのに人が少ないと言うべきか、この広さだから人とすれ違わないと言うべきか、と私はそんなことを彼に言った。


「患者よりもスタッフが多いくらいだからね。たしかにこんなに広い必要はないのかもしれない。下手に大きな城というのも守りにくいものだからね」


 大きな城の場合は、守勢に立つ兵士が少ないと手が足りなくなるために却って不利になる、とそんなことを言いたいらしかったのだが、この場合にその比喩を用いることが適当なのかは分からなかった。

 そんなことを考えているうちに外に通じるドアに辿り着いて、私たちは中庭に出た。食事の間に雨は止んでいて、日射しの強さは雲のクッションのおかげでようやく弱められているといった風だった。回廊の中の日陰にいても熱気を感じるのは、湿度が高いせいなのだろう。


「回廊の中を通って行こう」


 私たちは西回りで北館を目指すことにした。その第一歩を踏み出したのは彼で、私はそれに付き従う形になった。頭の片隅には、東病棟に対する一種の偏見を感じさせたあの二人組の男たちのことがあり、そのせいもあって東病棟に近づくのは面倒が起きそうな気がしたのだが、こうして彼もまた東病棟に近づこうとはしなかった。それが偶然なのか故意なのか、私は興味を覚えたけれども、あえて質問はしなかった。

 しかし、考えようによっては面倒な構造になっていた。西棟から東棟へ、あるいは本館から北館へ行こうとするなら、中庭の中央を通って行けばそれが早いのだが、今日のように日射しがあったり雨が降ったりするような日には、回廊の中を通って遠回りをしなければならない。それは不便なのではないかと私は今度は尋ねた。


「最初のうちは皆が同じようなことを考える。でも、時間という魔術が効いてすぐに慣れてしまうんだ」

「いっそのこと、地下通路でも作れば良いんじゃないでしょうか」

「そうか、地下通路か。屋根を作れと言う人はいたが、地下通路を作れと言ったのは君が初めてだ。……まあ、それは無理だろうがな」


 私も半ばは冗談で言ったから、そのことは特に気にならなかった。

 それにしても敷地が広いから、私は半分くらいまで来たところで一度休憩しようと言った。彼は頷き、そして近くにあったベンチへと私を促した。


「さっき、君は希望がないと言ったね。それは何かに絶望しているということかい」


 ベンチに座るなり、彼はそんなことを訊いてきた。


「いえ、そういうわけではなくて、私は自分の置かれた状況がよく分からないんです。どうしてここで目覚めたのか、自分が誰なのか、何も分からない。やっぱりそれって、おかしいことですよね」


 言葉を紡ぐことで喉の奥から様々な感情が溢れ出てくるようだった。彼はそれには即答せず、私は少しばかり口をつぐんだ。


「考えようによっては皆同じことなのかもしれない。僕は僕自身のことをそれなりに知っているつもりだが、僕から独立してそれを証明するものは何もない。もっと広い視野に立てば、どこから来てどこへ行くのか、それは人が等しく抱える重荷なのかもしれないね」


 彼の言葉は必ずしも明瞭ではなかったが、それは私の感情を真正面からは受け止めず、それでいて私の気分を害さないようにするための姿勢だったのだろう。

 しかし、私はどうも精神的に参ってしまっているようで、北館へ向かうのをやめようと言った。私たちが座っているベンチはちょうど西棟の入り口の近くだったので、彼もそれが良いかもしれないと言った。そして、こう付け加えることを忘れなかった。


「じゃあ、希望を見に行こう」


 私は彼の後に続いて西棟のナースステーションに足を踏み入れた。ちょうど私の担当の看護婦がいて、他の看護婦と何かを相談し合っていたが、ちらりと私の方を見た。それっきりだった。

 彼は私の病室があるのとは別の通路を進み、60号室の前で立ち止まった。そこが彼の病室だった。方角が違うだけで部屋の作りは同じだったが、私の病室とはいくつかの点で異なっていた。まず、そこは一種の生活臭とでも言うべきものがして、生きた人間が暮らしている部屋の臭いがした。次にベッドの脇の収納棚の上にはたくさんの本が積まれていた。そして、ベッドの対面には額縁に収まった絵画が飾られていた。


「これが希望、ワッツという画家の描いたものだ」


 彼が指差したのは、まさにその絵画だった。ある球体の上に女性が座っている。女性は目隠しをされていて、弦楽器のような物を握りしめている。

 私はその意味を即座に理解した。


「音楽が、彼女にとっての唯一の希望」

「そう、その通り。察しが良いね。この絵のことはある種の素養がある人間にならすぐ分かるものらしい。僕はそこを気に入っているのかもしれない」

「しかし、貴方の好きなギリシャ悲劇は分かりやすいものなんですか?」

「何千年も前の物語だが、今に通底しているものがある、現代を生きている僕にも理解ができる。だから分かりやすいといえるのかもしれない。最後に神が降りてきて複雑に絡み合った問題を解決するようなものが特に好きだ」


 彼は誇らしげにそう言った。私が彼に対して抱いていた幾らかの警戒心が少しずつ解けていくのが感じられた。彼は他人に危害を加える種類の人間ではないのだ。


「時計じかけの何とやら、ですね?」

「いや、機械仕掛けの神だ。こういうふうに表記する」


 そう言って彼は枕元のメモ用紙を取って"Deux ex machina"と記した。


「デウス・エクス・マキナ」

「そう。やはり君には資質があるね」

「でも、やはり関心が持てません」

「それは仕方のないことだ。でも、物語以外にも、例えば絵画があるし、音楽もある。人の心はそういったものを受容することで奥行きが生まれてくるものだと僕は思うよ」


 積み上げられた本の重みがそのまま彼の言葉の重みとなって、私の心に響いてくるようだった。私は少しずつ彼に好感を抱き始めた。


「この病院には開明的なところがあって、古い映画や音楽の鑑賞会がたまにある。外から演奏家がやって来ることもある」

「外から?」

「そう、外から。僕らが考えているよりもずっと遠くから来ているらしい」


 私は口をつぐんであることを考えた。この病院のことについて彼が私よりもずっと詳しいのは間違いないが、彼から情報を得るのが正しいことなのかが分からなかった。彼が本当のことを知っているとは限らないし、知っていても偏見を持っているかもしれないし、それに嘘をつくかもしれない。私は彼に好感を持ったが、それとこれとは別々の問題だった。

 そこまで疑心暗鬼になる必要はないのかもしれないが、私の中に芽生え始めたある予感が私をそうさせた。ここが特に異質な空間なのだという予感が。


「まあ、少しずつ環境に慣れていくと良い。今は分からないことだらけかもしれないが、ここはきっと悪いところではないはずだから」


 私は彼の顔をじっと見つめた。思考が漏れているなどと考えるのは、いよいよ危ない兆候だった。私は頷いて、


「また来ますよ」


 とだけ言った。彼も頷いてからベッドに寝転がり、


「悪かったね、食事を邪魔して。本当のことを言うと話し相手が欲しかったんだ。僕のことは好きに呼んでくれて構わない。ギリシャでもワッツでも60番でも、好きなようにね。しかし、最後のは囚人のようで奇妙だな」


 と言った。私はまたもや彼の顔をじっと見つめてしまったが、彼はぼんやりと天井を見上げていた。

 彼の病室を出た私は、無機質な廊下を遡って行った。ナースステーションに通じる重たいドアを引いたとき、彼の言葉のどこかに感じた引っかかりが解消されていった。

 彼はこう言った、囚人と――。






 60号室から帰ってきた私は、自分の病室の殺風景なことに改めて気付かされた。壁に絵画が掛かっているわけでもないし、本が積み上がっているわけでもない。それにここでは臭いすらも感じられなかった。彼は入院生活が長いのだろう、60号室の天井や壁や床には体臭や食べ物の臭いが染み付き、さらに年を経た本の臭いが漂っていた。ベッドに入った私は、自分がこの場所に来たばかりなのだということに思い至った。

 私はさっき鏡の前に立ったときの感覚を思い返した。その印象の白さを、つまり無感動だったことを。それは何事かを意味しているのかもしれない、とそんなことを考えれば恐ろしい想念に行き着くのだった。

 つまり、私は何度も生を繰り返しているのではないか、ということだ。

 どうしてそんなふうに感じられるのかは分からない。いつからそんなふうに感じているのかも分からない。ただ、私はそれを即座に否定することができなかった。

 何かがドアを叩いた。それは程良い大きさのノック音だった。私が返事をするよりも早く、看護婦がするりと室内に入ってきた。


「お食事をされましたね?」

「ああ。いけなかったかな?」

「いえ、先程も申し上げたようにそれは自由です。ただ、こちらも経過を見なければなりませんので」


 彼女はそう言って、またしても私の情報を書類に書き込み始めた。彼女は私と向き合うというよりも書類と向き合っているようだった。


「毎度毎度、申告が必要となのかい」

「こちらでも記録はしていますから、その必要はありません。ただ、最初のうちは念入りにしなければならないんです」

「そう、最初か……。どちらにしても、大変なことだね」

「それも仕事ですから」


 彼女からは相変わらず事務的な印象を受けたが、それでも少しは気持ちが解れてきているように思えた。それはもしかしたら、私を取り巻く状況が改善されたことを意味しているのかもしれない。それでうっかり心の奥底の観念を漏らそうかと考えたが、すぐに思い直した。そんなことを言ったところで何かしらの利益があるようにも思えなかったし、束の間の自由を奪われてしまうかもしれない。私は方向を変えて、質問をしてみることにした。


「私の主治医の先生はもう来ないのかな」

「院長先生ですね? あの方とは本日はもうお会いになれません」


 院長という言葉に驚いて、私は彼がろくに診察もしなかったことをすっかりと忘れてしまった。この病院の内情は分からなかったが、院長が直々に診るということにはそれなりの意味があるように思えたから。


「私の症状は……、そんなに重いということ?」

「いえ、そういうことではないのです。これは当病院の方針で、最初のうちは院長が直に診ることになっています。ですので、貴方が特別だということではありません」

「そうか、それは念入りなことだ。しかし、それだと院長先生も一人で何人もの患者を抱えて、大変なんじゃないだろうか」

「ご心配には及びません。院長は精力的な方で、丸一日働いていても平気なのです。それに副院長以下、たくさんのスタッフが支えていますから、緊急時の対応にも問題はありません。ここにいるのは比較的症状の軽い方ばかりで、外科手術が必要な患者さんもいませんから」

「そうは言っても――」

「今は腑に落ちないことがあるかもしれませんが、この病院はそうやって成り立っているのです。まずは一週間、我々に時間をください。それで納得できなければ、退院されても構いません。それもまた自由なのですから」


 そう言って、彼女は私に微笑みかけた。作った笑顔であることが分かるというのに、実に魅力的で、彼女が私の好みだったならきっと言いくるめられていたことだろう。彼女の言った一週間というのがまるで通信販売のクーリングオフ期間のようだと皮肉を言おうかとも思ったが、私もここは一旦了承することにした。

 彼女が出て行ってから、私は60号室の彼と同じようにぼんやりと天井を見上げた。ここにはざっと百以上の病室があるが、きっと誰もがこうして同じように天井を見上げていることだろう。ここではそうするより他にないのだ。

 それから、私は一度顔を合わせたきりの院長の顔を思い出した。彼は私を見て何と言っただろう? 私がその言葉を思い出したのは、眠りに落ちる寸前のことだった。


「完ぺきに治ったね」

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