第二幕 The tricks played by destiny. 2
ヴィルはしばらくその赤いネクタイを眺めたのち、それを一旦枕元に置いた。再び横になると、ゆっくりと瞼を閉じる。
「……大変な事になっちゃったな」
まるで他人事のような言葉をぽつりと呟き、一人乾いた笑いを浮かべた。
割と長く勤めているほうだと思うが、まさかここまできて隠し事ごとが暴かれることになろうとはまったくの想定外だった。幸い、『本当に知られたくないこと』はまだ知られていないようだが、それも時間の問題だろう。
――覚悟は、しなければならない。
そう思った時だった。
戸を叩く音と共に、誰かが部屋に入ってきた。その気配に気づき、ヴィルは閉じていた瞼をゆっくりと開き、首だけを動かす。
「ああ、ええと。どちらさ――」
どちらさまですか、の一言すら言うタイミングを与えられなかった。ヴィルの言葉は容易く遮られ、かわりに何故か子供がヴィルに抱き付いている。突然のことに呆気にとられたヴィルは、きょとんとして思わず言葉を失ってしまった。
「ヴィルたん、はじめましてっ!」
そう言ってヴィルに抱きついているのは、明らかに子供だ。年齢は一〇代中頃だろうか、赤毛の髪を後ろで一つに束ね、グレーの軍服を身に纏う。デザインはどことなく左院特吏のものに似ているが、ネクタイは締めておらず、代わりに赤い肩章が付いていた。
――それで、この子、いったい誰。
「心配しちゃったんだよぉ、だってヴィルたん起きないんだもん!」
今も一方的に話しかけられてはいるが、その人物にまったく心当たりのないヴィルは一体どうしたものかと頭を抱える羽目となった。どうしてこう、次々と訳の分からない問題が降りかかるのだろう。先日から厄日が続いているのではなかろうか。
ええと、とヴィルは慎重に言葉を選びつつ、今も抱き付いたまま離れない子供にやさしく声をかけた。
「分かった、分かったからとりあえず降りてくれないかな。まだ傷が痛いんだよ」
そこまで言ったところで、ふいに身体が軽くなった。――というのも、別の誰かがこの少年の身体を引っぺがしてくれたのである。
「ユーリー、ダメだろ。困らせちゃ」
そう言って少年を抱えているのは、ヴィルよりいくつか年下であろう青年だった。服装は少年が着ている軍服と同じもので、灰色の短髪、瞳は深い緑色。やんちゃそうな顔つきだった。
「ユーリーが、とんだご迷惑をおかけしました」
彼は深々とヴィルに頭を下げた。ヴィルはなんだか申し訳ないような気持ちになり、とりあえず頭を上げるよう言った。
「ところで、あなたがたはどちらさまでしょう……?」
尋ねると、青年はにこりと爽やかに笑って言った。
「はじめまして、ブランクーシ左院特吏。俺はレナード・アークライト、左院特吏補佐官を務めております。こっちは左院専属庶務官の、」
「ユーリー・ハーロイド!」
「……です。よろしくお願いいたします」
ヴィルは更に深々と頭を下げた彼らに戸惑い、がばりと布団から飛び起きた。
「あああ、そんなに頭を下げなくても……。そんなんじゃあ、おれがまるで土下座させているみたいじゃないか」
とても不思議な組み合わせだとヴィルは思った。ふたりとも童顔だからだろうか、ヴィルからしてみればどちらも子供にしか見えない。あとでギアにふたりの実年齢を聞いてみよう、と思ったところで、レナードがわざとらしく咳払いをした。
「それで、病み上がりのところ本当に申し訳ありませんが、ちょっとお願いしたいことがあって」
「うん?」
今日俺たちがここに来た理由と関係するのですが、とレナードは続ける。
「総帥からの指令で、今日はあなたに左院の業務引き継ぎをするよう言われているのですが……」
「ティーが?」
――ああ、そんなこともしていたのか、あの人は。
あとで礼を言っておこう、とヴィルは再び飛びついて来たユーリーの頭を撫でてやりながら、そんな事を考えていた。
「ええと、ブランクーシ左院特吏、」
「ヴィルでいいよ。長くて言いにくいでしょ」
「分かりました。ではヴィルさん、早速ですがこちらをどうぞ」
そう言うと、レナードはどこから取り出したのか、突然厚さ三十センチはあるであろう紙束を差し出してきた。きょとんとして、ヴィルは思わず目を丸くする。
「これ、
なんだそれは。
ちらりとヴィルが壁にかけられた時計へ目を向けると、時刻は十四時半。あと三十分しか時間は残されていない。
ヴィルはふむ、と考え、レナードへいくつか質問をした。
「内容の確認は全て終わっているんだよね」
「ええ。あなたが記載内容を吟味する必要はありません」
「分かった。いろいろ言いたいことはあるけれど、ちょっと万年筆を貸してほしい」
レナードから万年筆を借りたヴィルは、キャップを開けつつ最初の一枚へ目を通した。
***
十五分が経過した頃、ヴィルは息をつきながら万年筆のキャップを締め、レナードへと返却した。
「これでいい? 担当者に持っていく時間も考慮したらこれくらいには終わらせておかないと困るでしょう」
レナードは瞠目しつつ書類の山を見つめ、そして、ヴィルの顔とを見比べた。
「驚いた……まさか十五分で書き上げるなんて」
「よくある話だからね。でも、ひとつ忠告させてほしい」
そう言って、ヴィルは笑った。「これだけの仕事量を土壇場で振ろうとするときは、それ相応のリスクを背負わないとだめだ。今回は止むを得ないけれど、次は締め切りを含めてちゃんと調整してから持ってきてね」
これで全部かと尋ねると、どうやらそれが最後だったらしい。ヴィルは安心した様子で布団に倒れこむ。
「……これが、左院の仕事なの?」
レナードの姿を仰ぎながら尋ねると、彼は言葉を濁しながら説明する。
「ええ、まあ……。厳密に言うと、『総帥の肩代わりをすること』が仕事なんですが」
レナードは書いた書類をユーリーに渡しながら、ヴィルに丁寧に説明し始めた。
要するに、こうである。
本来総帥は軍務省で機械いじりをしている場合ではなく、国政を担う立場なのである。当然デスクワークと外交が主となる訳だが、肝心の現総帥であるティーは文字の読み書きができない。このため、総帥の主業務を代行する機関として左院が設立されたのだという。
「ティーが読み書きできないっていうの、本当だったんだ……」
「ええ。実際の政治も、ある程度左院に任されているようです。まあ、先代までの左院はただのボディーガード的な役割しかなかったそうですので、いいと言ったらいいんですけど」
そんなことを話しているレナードの横で、ユーリーは先ほどヴィルが署名した書類に不備がないか確認をしている。大方確認が終わったところで、
「……あれ?」
彼は突然驚いたような声を上げた。「ヴィルたん、何でこの書類にサインしないの?」
ユーリーがその一枚をヴィルの前に差し出した。確かに、その一枚にだけサインが入っていない。
その問いに、ああ、とヴィルは笑って見せた。
「ごめんごめん。書式が間違ってたからサインできないと思って。それを作った人にもう一度内容を確認してもらってきてほしい」
その言葉に、レナードの表情が一瞬にして固まった。
「……どういうこと、ですか?」
震えるような声で尋ねる。ヴィルはそれに気づいていないのか、とにかくからっとした笑みを浮かべている。
「だから、この書式は現在使われていないはずだ。確か五年くらい前まではこの形式で書いていたはずなんだけど、ほら、五年前って一度組織再編があったでしょう。そのときに申請書類の書き方が統合されたんだよ」
ヴィルはさらに付け加える。「レナード、おれ、一番初めに聞いたよね。『内容の確認は全て終わっているんだよね』って。それは単純に記載内容だけの話ではなく、体裁を含めて確認ができているのだと思って聞いたんだ。次からはダブルチェックしよう。おれと二人でやればこれくらいのミスは防げる」
笑顔でそう言ったヴィルは、レナードに書類を突き返した。同時に、ふっと息をついて瞳を閉じる。
ヴィルは薄々気が付いていた。この土壇場で大量の書類を抱えてきた理由も、体裁のおかしい書類が一枚だけ紛れ込んでいた理由も。それは当たり前のことだと思ったし、だからこそ茶番だと分かりつつ彼らに付き合うことにしたのだ。
「レナード、ユーリー。どうか気を悪くしないでほしい。確かにおれは、いきなり現れた何処の馬の骨とも分からないような奴だし、前左院特吏と比べたら劣る。認めろだなんて、そんな大それたことは言えないよ。おれにはそんなこと、」
――言う権利すらないのだから。
ヴィルはそこまで言うと、ようやく口を閉ざす。
レナードはじっとうつむいたまま、何かを考えているようだった。ただ無表情のまま書類を見つめており、その間、ヴィルを見ることはなかった。
「……あなたは、ずるい人ですね」
レナードがやっと顔を上げた。その表情は、先ほどまでの作り笑顔ではなく、吹っ切れたような自然な笑いになっている。
「すみませんでした、試すような真似しちゃって。でも、俺たちにはそうしなければいけない理由があったから」
この書類もわざと仕込んだもので、署名を入れてもらったものに関しても本当はもっと締め切りは先だったのだ、と彼は言った。
「左院はその性質上、少数精鋭で活動する必要があります。そもそも俺たちは普通の官僚と違って、前左院特吏から直接雇われているようなものでしたので」
なるほど、とヴィルは呟き、それからこのように返した。
「大丈夫、そんなことはしない。というか、そういう意味で言うと明らかにおれのほうがクビになりそうだよね」
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